8月16日(日) 広島市中区十日市町にある自宅で新潮名作選百年の文学から「井上靖の『道』」を読む。

広島市中区十日市町にある自宅で新潮名作選百年の文学から「井上靖の『道』」を読む。


約10ページの分量の中で、逸れることなく、読みやすい文体で物語を順々に広げるこの作品は、ホルストの「惑星」のように誰にでも目をつけられる題材を持ちながらも、とても味わい深い内容となっている。


獣道が自宅の庭で放し飼いしている紀州犬と柴犬の行動の観察によって結びつけられ、犬道の説明がなされると、それから孫娘の幼稚園からの帰り道に展開された子供道が示され、次いで軽井沢を散歩する老人の馴染道の性質も加わり、書き手の昔の感慨を少し添えてから、アメリカに渡って帰ってきて、“アメリカさんと呼ばれた”叔父の晩年の散歩道におちがつけられる。


現在形の形で綴られる文章はひねたところがなく、一文もそう長くないので、ありのままの自然描写と観察は素朴な自然人の澄んだ目で詳しく語られて、くどさがなく、わかりやすく、笑いで関心を引きつけるのではない語り口の上手な教師の授業のように水のごとく飲み込める。


道といういくらでも寓意に使える言葉は深淵があり、この小説を読んでいて自分の生き方もそうだが、旅行中の思い出も浮かんでしまった。余談だが、マザリシャリフからヘラートへの移動では、北アフリカの砂漠でさえ舗装されていて、どんなに険しい東チベットの山脈でも電信柱があったのに、どちらもないただの緑の丘を二日間ひたすら走り続け、よく道順を覚えているものだと驚いたことがあった。また、ヘラート近くでアスファルトに舗装された道に繋がった時のぎゅうぎゅうの車内の男たちがあげた歓声も感慨ぶかい。


また余談だが、素人らしい青年のガイドにカッパドキアの奇岩を案内してもらった時も、大手のツアーでは通らないであろう足下の悪い道を通り、くぐり、はぐれたら間違いなく迷子になるであろうと、懐に忍び込ませて振る舞ってくれた自家製ワインのきつい澱とタンニンに酔いながら、夕暮れを必死について行ったこともあった。


さらに余談だが、ペトラに行った時に、節約旅行の真っ最中ということで、紹介されたベドウィンの青年に無料で遺跡に侵入できるところはないかと相談したところ、足下を滑らせれば楽に死ねる崖の道を恐る恐る歩き、ものすごいアングルで遠く小さなエル・カズネを見下ろしたことがあり、結局中には入れなかったが、よくもまあこんな道を知っているものだと呆れつつ、死なないように怯えながらついていき、その辺に生えている野草は食べられると言って、デモンストレーションにならっていろいろと試し食いさせてもらったことがあった。


道はそういうもので、人間に限らない生き物の性状と密接に結びついていて、その物でない他からしたら、その理由は伺い知れないが、本能や制限による自然な選択の足取りが存在している。それは自分の知らない海路でも、空路でも同様で、相生橋の向こうからの帰り道に必ず本川沿いを通る自身の好みのように選ばせているので、好きな人がいる、ちょっと気まずい知り合いがいる、この道は路面がきれいで景色が広いなどなど、限りない要素が一本の道を作っている。


そんな道に対しての着眼点がとても優れていて、叔父の散歩道の四点の解釈が芥川龍之介の「藪の中」のようでありながら、どれもが一理だけでない正しさを持っていると思えるから、道は底知れない沼の寛容だけでなく、どんな面にも間違いのない人生航路の理解が許されるのだろう。


“ 鮮やかな印象でそうした子供道の一つが思い出される。夏休みになると、子供たちは毎日のように渓川の水浴場へ行くのが日課であったが、いつも崖の斜面の細い道を伝って渓間の小さい淵へと急ぐ。大人などのめったに通らぬ子供たちだけの道であった。渓に落ち込んでいる側の斜面には血のように赤い彼岸花が咲き、山側の斜面ではそこを埋めている木立から雨のように蝉の声が降っている。午下がりの陽光に上から照りつけられながら、半裸の子供たちは一列になって、その道を駈けている。蜻蛉の群れが次々に顔にぶつかる。青い水を湛えたインキ壺のような淵に一刻も早く身を投じたいだけの思いで、子供たちは今にも点火して燃えあがりそうな体を必死に川瀬の音の聞こえている渓間へと運んで行く。今思うと、そこにはこれこそ夏であると言えるような夏があったのである。その後再び訪れて来たことのない強烈な夏が、確かにその幼時の子供道にはあったと思う。”


という輝かしい昔が述べられると、つい。


“ 夏の思出ばかりでなく、幼少時代に一度やって来て、その後再び訪れることのない周囲の自然との取引きの鮮烈な印象は、その多くが子供たちが自ら選んで支配下に置いた子供道の思出につながっている。その後再び、そこにあったような夕映えの美しさも、薄暮の淋しさも、夜の怖ろしさも経験することはない。風の音までが子供道においては凜々と鳴っていたのである。”


もう一言述べてしまうのは、誰もが持つ宝物の記憶のあまりの眩しさに飛び出してしまったのだろう。


“ 母の口から"いけない道"という言葉が出た時、私ははっとした。母の言葉が生き生きとして心に飛び込んで来たからである。アメリカさんの散歩道も、そこを歩くアメリカさんも、私には今までとは異って生彩を帯びたものに見えた。母親の言うところに従えば叔父は嘗て二人の人間が神かくしになった"いけない道"を歩いていたのである。そこを毎日の散歩道に選んでいたのである。

 今日、"いけない道"も"いけなくない道"もなくなっている。が、明治時代までは"いけない道"というものがあったかも知れない。人間がふいに気がふれて山に向って歩き出すような、そんな狂気を誘発しやすいような何らかの条件を持った道というものがあったかも知れない。”


という前後の関連を抜きにした文章であっても、昔にあった因習らしき情景は伝わってきて、迷信がありのまま存在した生活が浮かび、鬼や蛇でない、そのままの人間の狂気が化物を生み出した古い怖さが感じられる。


エッセイや学術書らしい構成と馴染み易さを持ちながら、基本としての優れた描写力の高さに、饒舌にならない感慨の口走りに風情があり、やはり小説らしく時間を止めて一考させる深みがあるから、小説はいいなと思わせてくれる自然な作品だった。

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