7月25日(土) 広島市中区十日市町にある自宅で新潮名作選百年の文学から「横光利一の『マルクスの審判』」を読む。

広島市中区十日市町にある自宅で新潮名作選百年の文学から「横光利一の『マルクスの審判』」を読む。


約11ページのこの短編小説は昨日読んだ井伏鱒二よりもしかつめらしい内容となり、ページ数も多いのだが、すんなり読めてしまうのは大部分が判事と被告の問答による会話文で成り立っているからだろう。漢字とひらがなの迷路のような地の文ではなく、たやすく親しめるセリフが物語をどんどん前へと進める。


ただ、はじめからどことなくおかしい裁判のやりとりであることが感じられ、途中の地の文で判事が嘘を云うという説明があり、鎌をかけるようなことを裁判人がしてよいのかと、疑問にならない疑惑を解き明かすように、被告の生活や実情について事細かよりも、一方的な見解を述べて肯かせる誘導尋問が行われる。その間に判事の心理が地の文で挟まれるのだが、正直言って、この裁判の運びと心理描写は上手だとは思えない。西洋の小説の輸入らしい心理描写が単に今の時代とそぐわないのもあるが、数式のように配線の通った理路よりも、先に観念があっての説明を明滅させるようで、細かい隙間がやや無理矢理な理屈に思え、作り物の心理分析は本物らしい人間精神の厚みを感じにくい。


それだからこそ、被告人あっさり罪を認める場面に技巧のない単純さを感じるが、あとあとになって判事の下手な執拗さが解き明かされると、鎖をメタファーとする踏切の番人である被告の態度も、社会主義の中での労働者らしい人間性の一端として納得される。人は自分の罪に思っている以上に気づけないもので、日頃から信念に基づいて清廉潔白の行動を保っているのならともかく、少しのやましさは誰もが持っており、そこをつつかれて炙り出すように責められたならば、自身では見向きしなかった一面が浮かび上がり、そこで驚くような罪が現前としてあることに気づき、虚偽と反省を含めた大きな衝撃を受けることがある。


“その夜判事は床へ這入るとまたその日の審問を思ひ廻らした。──事実、被告は酔漢を突き飛ばしたものであらうか、それとも酔漢の死は被告の云つたやうに偶然の死であつたか──それにしても被告は自身に危険な言葉に対して、何ぜあれほども敏感であり得たか。それにも拘らず何ぜあれほど白々しく先手を打つて出て来たか。この二つの反した態度を審問に応じて巧みに変化さし得た被告を思ふと、判事の疑ひは又深まりかけた。しかし、一方は落されまいとし、一方は落さうと努めなければならない場合が場合であるだけに、それを感じた以上守らうとすることに専念する被告の気持ちはいづれ正当なものにちがいなかつた。所詮判事は昼の迷ひを迷ひ続ける以外に何の得る所もなくなつた。しかし、それかと云つて一度は判決を下さなければならない以上そのままに捨てて置くわけにもいかなかつた。これは判事を苦しめた。が、ここまで来れば、判事として最も正しい判決を下す方法は、逆に自分自身の心理に向つて審問してみることであると気がついた。一体何故に自分は自分の疑ひを疑ひとして持ち始めたか。何故に自分はその疑ひとして深めてゆくことに努めたか。何故に自分は自分の疑ひの正当である可きことを確信したか。と、さう彼は考へ始めたとき、彼は自分が近年ひどく疑ひ深くなつて来てゐることを発見した。それには永年の判事生活から来る習慣が手伝つてゐることは勿論であるとしても、しかしただそれだけではなく自分の洞察力に対する深い自信と、それになほ油をかける神経衰弱とが原因してゐた。此の外にまだ大きな原因が一つあつた。それは彼が前に現下の最も人心の帰趨に多く関係を持つ思想と犯罪との接触点を検点しようとして、社会主義思想の書物を選んだとき、彼の手に入つたものは「マルクスの思想と評伝」と云ふ書物であつた。”という改行のない段落の三分の一に、人の人生を文字取り左右する裁判官という職業人間と根拠の確かでない浮ついた仕事運びの一面が示されていて、このような軽薄な頭脳の働きで決められるという恐ろしさよりも、そんなものだろうという諦念さえ覚えるほどだ。


判事は有罪から無罪へと考えを変えるのだが、小説の冒頭から読者である自分は無罪の方へ同情していた。説明が単にそのように思わせていただけなのだが、小説の終わりに近づいて滲み出てくるのが富貴と貧困、それに享楽と忍苦であり、斟酌は誠実に生きる人間に救いを与えようとするのは、正しいとは言わないが、信実に向かって憐れみをかけたくなるからだろう。


社会思想と宗教心を感じるこの作品は、人間世界への問いかけと一つの釈明であり、世俗らしいユーモアなどない生真面目な内容となっている。

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