7月24日(金) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで大澤豊監督の「ボクちゃんの戦場」を観る。

広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで大澤豊監督の「ボクちゃんの戦場」を観る。


1985年(昭和60年) こぶしプロダクション 106分 パートカラー 35mm


監督:大澤豊

原作:奥田継夫

脚本:山本洋子、大澤豊

撮影:山本駿

音楽:針生正男

美術:春木章、末広富治郎

照明:伴野功

編集:鍋島惇

出演:前田吟、藤田弓子、山本ゆか里、車木貴典


出かける二十分前あたりから雨が強く降りだし、映画を観に行くか迷いだした。もちろん行くに決まっているのだが、子供が主人公の作品らしく、濡れてまで観に行く価値はあるのか考えてしまった。こんな時に思うのは、子供向けだからといって甘くみてはいけない。ジブリの映画だって、津和野で観た安野光雅の原画だって、おうちで戯曲の作品だって、むしろ子供向けだからこそ整然とした構造のなかで人間精神の基本要素の美しい調和を実感させられる。


そう思って横降りの雨の中を歩いて観に行くと、すこし鬱憤の溜まる作品内容だった。パートカラーの画面はモノクロよりも黒が強く画面は綺麗だが、登場する各子供の人物像は風刺画のようで、級長でありながら意気地がなく、先生の権威を借りることばかり考える自分本位は目も当てられないほど軟弱で、何度も「そこで拳を一発だせ」などと、まるでサッカーの試合でシュートをなかなか打たないもどかしさを感じるばかりだった。


ただ、これほど同感できない子供の主人公を生み出すのだから、悪くないだろう。エミール・ゾラの作品姿勢のように、登場人物へのむごいほど惨めな演出は露骨で、可哀相なほどの人間となって描かれている。威勢の良い返事は最初だけで、惰弱な人間性が次々に展開されると、終いには逃亡こそ克己心だと結びつけるオチとなる。これが良いか悪いかは別としても、集団疎開という状況になじめずに逃げる形は、就職した会社に合わずに退職する純粋な場違いという基本構造に変わりなく、それが戦争という避けようのない環境だろうが、自分で好んで選んだ職場であろうが、離れてうまく合致ケースもあるのだから、一概に決めつけられない変転の妙があるだろう。


疎開先の食料難は少し描かれていて、地元の人々の関係に着眼点はほとんど置かれていない。あくまで疎開先の集団生活の中で、どのように子供たちは自分の立場を置いて生き抜いていくかが物語られており、演技と演出に小賢しい大人じみたところがあるからこそ老若問わずの人間関係の難しさと、そこに潜む狡知と弱者の関係図が表れ、戦国武将を真似た遊技に主従が寓意されている。結局、体の力と勇気こそが人を引きつける源となり、さらに機知が加わると、人助けとして喝采できる物事を生み出せるのだろう。


いじめがまるで疫病のようにところどころ発生する中学生の時や、転校先の小学校のクラスと先生にひどい違和感を覚えた昔を思い出すほど、子供の生きる環境は小さく見えても大きく、それがすべてなのだと思い起こされる。「一発殴ってしまえ」、これは今となってはできないが、昔は昔で心が弱くてできなかったことを画面の子供に投影して、情けないくらい泣いたことが懐かしくなった。


戦争と平和、構造と展開などは別として、子供の時に勇気を持つことはとても難しいことだと教わる作品だった。

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