7月24日(金) 広島市中区十日市町にある自宅で新潮名作選百年の文学から「井伏鱒二の『ジヨセフと女子大学生』」を読む。
広島市中区十日市町にある自宅で新潮名作選百年の文学から「井伏鱒二の『ジヨセフと女子大学生』」を読む。
井伏鱒二は有名だが、自分の好みとして入れ込んだ作風ではなく、太宰治を弟子に持ったことが不思議に思えるほど淡泊な作家だと思っていた。「山椒魚」と何かを読んだくらいの記憶しかないほど数も量も少なく、偏見だけで排除していた面はあるにしても、薬物らしい依存性を持って引き込む力は弱く、師匠にしては物足りなく感じていたからだろう。
ところが今こうしてこの短編作品を読んで、映画と演劇で観た「集金旅行」の作風と、朗読で聴いた「黒い雨」に通じる個性が見つかり、飄々としながらも肝の据わったユーモアと冷静な視点は、さらっとした文体の中に潜んでいることがわかる。あらためて読んでみて、文章のなじみ易さに人間心理の良点をつまんで描き出し、戯曲に適しそうなうまいひねくれ方を親しみやすく張り付けている。
難しいことを感じさせない内容は冒頭から的確に書き出されて、続いておかしい和文の抜粋が出されると、時間の密度の詰まった物語は小さな勘違いを織り交ぜて進んでいく。女子大学生の言葉の通じない恋に、異国から来た眼の青い少年の誠実さ、嫉妬と偏屈の混じった取り越し苦労などがある中で、アイルランドの従属の歴史や、カトリック教国が連関する厳めしい問答なども使われて、巧みな人情劇で終わらない幅と深みを備えている。
「集金旅行」のイメージでしかないが、利発でちゃきちゃきした女性が好みのようで、へえへえ言いながら付いていく男性が守るような図式を井伏鱒二に定着させていて、この物語でも大切な人を守る母性の強さとしたたかさが存在しているので、ついつい繋げて考えてしまう。そこには抜け目しかない賢しさがあり、理屈よりも感情で向こう見ずに進む女性の本能が好意的に述べられている。
“「ジヨセフ・クランシイ君。この少女は余の認識不足が汝の純情をきずつけはしなかつたかと憂慮し興奮してゐるものである。それは彼女が正義を愛する証拠にはなるが、彼女のあばずれである証拠にはならない。しかし汝、天涯の孤客よ。若し汝が彼女と濃厚なるロマンスに耽るなら、汝の革命の大望はくぢけるであろう。附言するが、日本の女子大学生は執念深いからである。恋愛とは、恰も人間の胸のなかに発生した鼻茸である。汝は汝の旅に出でよ。亡びる国あらば、蘇る国もあるであらう。」”という英会話でのやりとりがこのような厳かな文章で表されるところに愛嬌があり、“私は彼等二人をそこに置き去りにして、私のうちへ帰つて来た。毀れ落ちた硝子の破片は、昨日の夕刊を塵取に代用して掃きよせられ、硝子窓に貼りつけられた白紙は、破れないかぎり有効であるらしかつた。私は窓の硝子越しに竹藪の方を眺めてみた。ジヨセフは、彼の空気銃を外国の兵隊みたいに左の肩にかつぎ、右手を大きく振つて歩調をとりながら歩きだしてゐた。女子大学生はジヨセフに遅れまいとして、彼女も大股に歩いた。やがて彼等は竹藪のかげに見えなくなつたのである。私は机のそばまで来て、そこに立ちどまり、そのとき何か微かに蠅の羽音に似たひゞきがきこえるのに気がついた。さうしてよほど暫くそのひゞきに注意してゐた後、私はこの一律のわびしげなひゞきは何であるかを知ることができた。女子大学生は極めて拙く硝子窓に紙をはりつけたので、紙と窓枠との継目は北風が吹きこむことを許したのである。それは「ぶうぶうぶう」という微かなひゞきであつたのだ。”という段落には、この小説のまとめが見事に詰められている。
モナ・リザと西郷隆盛の肖像画の勘違いで締めくくられるこの小説は、ちょっと馬鹿馬鹿しいなかに若さへの憧れや、孤独な立場に吹き込む北からの風も連関して、味わいのある含みが最後まで潤っている。昔の自分は文体の奇矯だけを基準に判断していたのか、今となっては鷹揚ながら鋭い目を持つこの小説家の大きさが少しはわかる。文体同様に無駄を省いてユーモアを加える力量は、この作家特有の暖かみがある。
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