7月17日(金) 広島市中区加古町にある広島文化学園HBGホールで「広島交響楽団第402回定期演奏会」を聴く。

広島市中区加古町にある広島文化学園HBGホールで「広島交響楽団第402回定期演奏会」を聴く。


指揮:高関 健

ピアノ:藤田 真央

コンサートマスター:佐久間 聡一

管弦楽:広島交響楽団


シチェドリン:ベートーヴェンのハイリゲンシュタットの遺書 ─管弦楽のための交響的断章

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調

シベリウス:交響曲第2番 ニ長調

アンコール

ラフマニノフ:前奏曲第4番


生活に音楽は失われてしまったかというと、そうでもない。聴衆は結局好き勝手に口を開くだけの無責任な立場だから、音源をメディアで再生して日々に音楽を絶やさないことはできるもので、実際生の演奏を聴く機会よりも、携帯型音楽端末機などで接する頻度は大きい。


数ヶ月ぶりの広響の演奏会に足を運び、開始前にホールの外で妻とベンチに座っていたら、中国新聞の記者の方から取材を受けた。とはいっても、自分ではなく妻に対しての質問で、判を押したようなといえば誤解をまねくかもしれないが、さすが弁が立たなくても意見を述べる力量を持った人物だけあって、よく喋る。隣に座って感心しながら、内心、「多くの演奏会に足を運ぶ自分を差し置いて、ディスカバリー・シリーズを主とする妻が、どうしてこうも話すのだ。気持ちは自分の方がずっとあるのに」なんて考えて、悔しさを感じた。だからといって出しゃばって喋る気にもならないので、隣で二言三言述べて、終了した。


こういう自分のような人物が最も厄介なのだろう。何十年と応援しているわけではなく、たかが数年知っているだけで、いっぱしのファン気取りの傲慢さがあるのだから。


とにかく、長かったといえば長いのだが、それほど長くもなかったというのが正直な感想だ。むしろ、普段と同じように演奏会に足を運んで、いつもと違う席と格好で演奏を聴いていただけのことだ。途中など、練習に時間をとれない制限のある環境の中での演奏会などに、「ここの音がどうも……」などと、いつもと同じ姿勢で音楽に接して感想を頭に浮かべているのだから、のんきな者だと思った。再開として特別な日なのだが、自分にとってはそれほどの記念日ではない、むしろ当たり前という気分でいた。それは当然、この悪疫の中での影響が少ない立場にいたからだ。


だからこそ、この日は演奏する側に重きがあるのだ。大きな影響を被り、並々ならぬ苦難の日々を送ってきて、本当に音楽が失われた時間を過ごしていたのだから。


シチェドリンは、ショスタコーヴィチの交響曲第12番をところどころに感じるようで、ティンパニの連打や弦楽器の旋法などは特にそれらしいものの、重厚な金管の轟きはシチェドリンの特徴があるのだろう。それでもショスタコーヴィチを根元とするソ連の伝統があるようで、2008年初演と知って時代の空白を感じた。21世紀に入ってからの音楽とはとても思わず、大戦の影響が色濃く残る時代の古くささを勝手に感じ取っていた。


藤田真央さんのピアノは、とても危うさを感じた。1階最前列の席もあって、ピアノの音が直に伝わり、透き通るというよりも、綿毛のような柔らかさにくるまれているようで、体験から思い出したのは、まるで辻井さんのようなピアノだと。それは舞台上の振る舞いもそうだが、あまりにも感情がそのまま通じた限りなく純潔な音にあり、そこに表現できる技術の高さが備わっているので、無辜の存在だけが生み出せる世界の隔たりを感じるばかりだった。第1楽章始まりの第一音から音の次元は鮮明に現れていて、カデンツァの盛りあがっていく早いパッセージの滑らかさに身震いするだけでなく、第2楽章では譫妄状態とも思えるほどの音の世界に引きずりこまれ、第3楽章の汚らしさの見あたらない純なパッションの美しさなど、この人以外は表現できない特別な演奏となっていた。アンコールを含めて、希有な存在による完璧な音楽が傷一つなく描かれていた。


シベリウスは大好きな作曲家の一人だ。プログラムの変更でプロコフィエフの交響曲第5番からこれになったが、これはこれでとても楽しみだった。ただ実際に演奏を聴いて、何度も不安にとりつかれて、墓標が繰り返し頭をよぎった。暗いでは済まされない、元々に宿った精神の痛みが常にこの作曲家には存在していて、チャイコフスキーのように熟達した構造による爆発よりも、たしかにすばらしい才能を持っていながら、心を蝕む影によって沈んでしまうような停滞感と歯切れの悪さがあり、親しみやすいというこの第2番にも、爽快に人生を感じられる部分はほとんど見あたらなかった。大波と断崖の浮かんでしまう荒涼とした自然風景に、暗澹とした人生の心象風景が重なるようで、今の時勢の忍従とは異なる、未来に明るさを見通しづらい際限ない苦悩が描かれているようだった。繰り返されるパッセージに露悪的とも思える悲嘆が述べられるようで、第4楽章のフィナーレに向かう漸層の盛りあがりには、もうやめてと、顔が渋くなる辛さが一段一段にしかめてしまい、まるで作曲家自身の内面の問答を前にする自傷行為にさえ感じられてしまった。


おそらく、プロコフィエフだったなら、こんなに苦しくならなかっただろう。ベートーヴェンのように人生に打ち勝つ態度よりも、むしろ仏に向かうように苦悩の中に沈んで浮かびあがらなかったシベリウスを聴くのは、悪くないことだ。克己の偉大さこそ人間精神の崇高なる面ではあるが、自己に沈潜していくのもまた卑小な人間らしい真面目な魂の葛藤だろう。華やかに、心底の喜びで迎えられる演奏会というよりも、心苦しさの中でなんとか希望を見いだすような締めに感じられた。だからこそ、苦しみへの同感をひしとするようだった。


やはり生の演奏はすばらしいが、弾いている人の顔を見られるのが嬉しい。まだ数年の付き合いとなり、そんなに顔を知っているわけでもないが、やはり常連の店に行くような気持ちになる。そもそも常連の店がほとんどなく、広島市映像文化ライブラリーを除けば、広響こそこの土地での長い付き合いとなっている。


来週には呉での公演もある。8月にはマーラーの歌曲もある。そうなると欲張ってしまうから、リスクへの配慮は自分の考えるよりもはるかに大きいとはいえ、広響メンバーによる室内楽が帰ってくることも期待してしまう。オーケストラ同様に室内楽も、大切な音楽の日常なのだから。

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