6月7日(日) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで篠田正浩監督の「心中天網島」を観る。

広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで篠田正浩監督の「心中天網島」を観る。


1969年(昭和44年) 表現社、ATG 103分 白黒 35mm


監督:篠田正浩

原作:近松門左衛門

脚色:富岡多恵子 、 武満徹 、 篠田正浩

撮影:成島東一郎

音楽:武満徹

美術:栗津潔

出演:岩下志麻、二代目中村吉右衛門、小松方正、滝田裕介、藤原釜足、加藤嘉、河原崎しづ江、左時枝、日高澄子、浜村純、土屋晋次、戸沢香織、赤塚真人、上原運子


体調が観賞評価をすべて決めるようで、ひさしぶりに眠くてしかたなかった。原作となっている物語を知るか知らないかで、この作品の描き方を比較して楽しめもしただろうか。ただ、先入観というのはたいてい邪魔になるので、人形浄瑠璃で鑑賞したことはなくても、曽根崎心中を借りて姿勢を得るようで、ワンカットが芝居のようにどれも切羽詰まって長く、まるで「耳なし芳一」の体でも見るかのような大きな文字の書かれた舞台セットは斜めに観ている時では余裕がなく、存在に疑問を感じる黒子もあり、退屈な違和感の連続だった。


文楽や歌舞伎に日頃から親しんでいる人ならば、泣いて嘆いてばかりいるこの映画の細かい美点に気づくことができるのだろう。ピカソの「泣く女」を思い出すほど過剰なシーンが多く、歌舞伎はあまり知らないが、数回観た文楽ではこのようにおいおい泣くことが多くても人形だからこそのバランスがあり、これでいいのだろうと思いはするものの、どうも集中力を欠いた状態ではくどすぎるように思えてしまう。


以前、金町にある葛飾区立中央図書館でモーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ」を借りて観たことがあり、オペラ舞台ではなく、オペラ作品を軸に映画の物語のような撮影構成となっていて、ひどく退屈したことがあるのを思い出した。長方形の舞台というよりも、四面のような立体的な空間に置いての劇となり、カメラワークは巧みに焦点を当てて、まわりこむように移動したりする。そもそも、音楽のすばらしさを味わう耳がなく、愚劣としか思えない物語に一切の同調を持てなかった。今日観た作品も、女にだらしない男によって子供も奥さんも不幸になる情けない話という観点をもってしまい、男女間の結びつきや情けをまるで解さない味気ない心情を自分が持っていると自覚していた。


間違いなく、もっと体調が良ければ息の長い演技や運びを楽しめただろう。とはいえ、そんな状態であっても、岩下志麻さんの二役には目を奪われた。眉毛の書かれていないおさんの顔を美しいと思ってうつらうつら観ていたせいか、終盤に小春と同一人物ではないかと疑ったが、まさにそのとおりだった。その判断は姿態というよりも、泣き叫ぶ演技の鋭さが手がかりになった。それは一昨日の純粋な女の終盤の悲嘆の深さと同じであって、父親に連れて行かれるおさんの喚き様は、他の女優さんとは異なるひきつった深さがあった。それが小春の嘆きと同じレベルだったのだ。


まるで戦隊もののようなポーズをとる終盤の黒子に、そもそも登場する意味はあるのかと何度か思ってしまったが、何度も観ればこの作品の味がわかるのだろう。オペラ作品はやはり舞台で観たくなり、人形浄瑠璃もやはり舞台で観たいという、経験がないからこその面白みのない視点が自分の目につきまとっていた。


公平な観賞ではなかったのが残念でも、岩下さんの演技と、文楽や歌舞伎の持つ大げさな演出は味わえただろう。などといっても、ずいぶん勿体ないことをしたという気分は拭えない。

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