6月7日(日) 広島市中区十日市町にある自宅で新国立劇場の巣ごもりシアターおうちで戯曲から「別役実『月・こうこう、風・そうそう』」を読む。

広島市中区十日市町にある自宅で新国立劇場の巣ごもりシアターおうちで戯曲から「別役実『月・こうこう、風・そうそう』」を読む。


読後にプロフィールを読み、このつかみどころが見にくい異様な作品の作者である別役実さんは、今年の3月に逝去したと書かれていた。おうちで戯曲の作品公開が止まっているので、これで仮に一段落となるならば、それ相応の内容だった。


「職場の教養」を昨日読んでいて、知識は人を高慢にして、地位は尊大にさせると書かれていた。3年前は文学座も青年座も知らず、今朝だってこの名だたる作家であろう別役実さんの存在を知らなかったくせに、何をどのように偉そうに感想を書くのだろうか。そう、知識がなくても不遜になることはできて、地位が低くても文章で威張ることはいくらでもできる。


全六場で構成されているこの物語は登場人物が十人ほどいて、つっかえることなく流れ去っていく自然な調子がある。前半は登場人物が舞台に表れる根拠を明確に示すことなく、忘れ去って思い出すこともかなわないようなやりとりで過ぎていく。老人の会話が多く、その対話の呆けた生々しさは体験から生み出されたような老衰があり、それでこそむしろに座る女の細かい謎が気にならずに通過するのだろう。


事実と解釈は異なるようで、ふと芥川龍之介の「藪の中」を思い出させる食い違いが会話のやりとりだけでなく、登場人物の様相にも表出している。「竹取物語」そのものが童話のような寓意を持っていることを感じさせるにしても、その怪しい残酷さを浮き彫りにするように「山椒大夫」の主題にメルヘンを加えて、冷たく、深刻な内容に化けさせている。


手塚治虫さんの「火の鳥(異形編)」のようで、ギリシャ神話が題材を持つ近親相姦や運命をまるまる描いている。忘却、因果、輪廻、交代という運命の流れに弓を引くが、それもまた運命というオイディプス王のごとく、血が垂れてしまう。


第三場に大事を見失うユーモアが描かれ、第四場に懐古するようなロマンスがあるものの、この作品全編に通底しているのは死を前にした無常な静けさだろう。プロフィールを読んでこそこのような感想は浮かぶにしても、晩年を迎えた人間に発露する諦念のような色調は、偉大なる作曲家の晩年作品を聴くような調子がある。ブラームス、マーラー、シベリウス、ショスタコーヴィチなど、輝かしい調子など消え失せて身を削ぐ哀切が表に出て、諧謔が痛切極まるように笑えず、暗さが漂い、それでいて透き通る人生観が宗教心の持つ存在の儚さを見つめるようだ。未来を描くのではなく、死後と過ぎていった人生を見つめるだけで、他人などかまわず死ぬ間際まで自問自答が繰り返されるような、あまりにあっけない命の消滅と代替が描かれている。


弱いものを殺す強さ、弱いもののほうが強い、負けるが勝つ、このような言葉は誰にでも使うことはできるだろうが、この作品の中では際だって強い印象を与えてくる。それは老年の作家の経験から打ち出された言葉であって、宿る台詞に魂があるからこそ、会話に関連づいて迫ってくるのだろう。


すべては繰り返し取り替えられる。生々流転が物語と情景の中で美しく過ぎていく、仮の終わりに相応しい作品だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る