5月17日(日) 広島市中区十日市町にある自宅で新国立劇場の巣ごもりシアターおうちで戯曲から「長塚圭史『かがみのかなたはたなかのなかに』」を読む。

広島市中区十日市町にある自宅で新国立劇場の巣ごもりシアターおうちで戯曲から「長塚圭史『かがみのかなたはたなかのなかに』」を読む。


たなかの話に個人的に思い浮かんだのは、山田の物語だった。それもやはり不特定多数を司る名字によって生み出された物語で、もの珍しくないからこそ特定の概念を持つ多くの人に親しまれる名前は、不可解というか、不条理にもならないシュールな世界を生み出す土壌を持っているのだろう。珍奇でないからこそ、珍妙な世界を組み立てる材料になり得ると、この作品でも示されているようだ。


誰の台詞か記されておらず、同時の発声もあるので、初見での朗読では物語世界を瞬間としてつかみとるには困難で、うしろに戻っての再確認では劇の流れを切るようになってしまう。それでも登場人物は少なく、物語世界は台詞から知ることはできるので、後半に向かえば向かうほど内容は明瞭らしくなってくる。


詩句らしい形式に言葉遊びがあるので朗読していてリズムはよいが、子音と母音の組み替えによる妙味に誤魔化されて、ついつい読み間違えてしまうことはあるものの、それも言葉そのものを楽しむ要素としてあるだろう。「音のいない世界で」に登場する女性の一面を持つ無垢な少女らしい性格もあるので、この作家はこういう女性を造形する傾向があるのかと思ってしまうが、たった2作品を読んだだけではとても判断できないだろうし、意味のないことだろう。


戯曲の中にも人物は宿っているが、この作品は演出によって作品の味わいがようやく知れるのだろう。配役に広島でも見かけることのできる近藤良平さんがいるので、振り付けの傾向からどのような舞台となっているか、もちろんわからないにしても想像する楽しみは起こる。


対偶の世界の中で、外面と内面や、表裏と同一性などを拾い読むことはできるだろうが、やはり一読ではとらえがたい内容を持っているので、そのままの感慨を味わって、首をひねったり、指さして笑ったり、口に手をあてて怯えたりすればいいのだろう。音の配列をくすぐるこの物語は、耳と目で確かめずには何も言えないようなものだ。


子供と大人にひらかれた物語ではなく、この人の、真剣に攻撃してくる作品を読みたいとさらに思わせられる内容だった。

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