5月2日(土) 広島市中区十日市町にある自宅で新潮名作選百年の文学から「葛西善蔵の『青い顔』」を読む。

広島市中区十日市町にある自宅で新潮名作選百年の文学から「葛西善蔵の『青い顔』」を読む。


この作家はまったく知らない。この本に載るだけあって有名でないわけがなくても、知らない。とても新鮮なことだ。顔写真を見ると、ラップしそう、真面目そう、商売がうまそう、などと適当なことを思い浮かべられる。青い顔ではない、精悍な顔つきをしている。


短編小説としての体裁を持ち、“またK分署から来いと云つて来たので、行つて見ると、昨日とは別な、若い学校出らしい警部が出てゐた。”という書き出しから、小説舞台の多くの情報を提示している。それから『』による会話文と地の文によって、『“A館から昨日の告訴状を取下げ──”、“──急に婆さんが病気に──”、などに物語の前後関係が表されている。


それから三日前の出来事の振り返りとなり、()を使用しての主人公の“彼”の仕事状況が挟まれ、遠回しの会話文から賃貸料の滞納が示唆されてから、住まいの状況が地の文で端的に説明されると、再び会話文の連続で婆さんの具合の悪さが話されて、婆さんの商売と生活事情も述べられる。


そんな具合に適切な情報を順々に提示していきながら、“『どうかして金をこしらへて引越したい……』彼はそのことを思つてゐた。”という放棄に近い逃げ腰の姿勢が表れて“彼”の個人としての感情が初めて登場する。


それから“転”としての場面転換となる警察からの呼び出しがあり、小説始めの内容へとつながる展開となっていく。“──家人等ノ言フ所ニ依レバ、三月三日午後十時頃右寺島おすえガ頭痛不快ニテ臥床中、止宿人山崎某ハ酩酊シテ其枕元ニ入リ来タリ、長時間ノ談話ヲ仕カケ、且患者ノ頭髪ニ手ヲ掛ケタリトノコトナリ。勿論斯ノ如キ行為ハ脳溢血ノ直接ノ原因トハナラザルモ、間接ノ誘因タラザルコト無シトハセズ云々──”という診断書は、近頃はカタカナを使用した文章が少ないから、個人的に楽しめる箇所となっていた。


だんだんに“彼”の切迫した状況が浮かび上がっていくのだが、それに反して事態はすみやかな収束をみせていき、冒頭に話されていた“──あんな全く根も葉も無い虚構(うそ)ごとの告訴状なんか出したやうな訳で、──”という言葉に行き着く。それでも“彼”は“婆さん”の死による催促を怖れていることが“『婆さんはよく承知してゐる。俺は婆さんの病気には関係は無いのだ。婆さんは俺を怨んでなんかゐやしない……』併し何としても死神に頭髪に手をかけられてゐる婆さんを考へることは、怖ろしいことだ。残酷なことだ。”という恐怖にとらわれた利己的な人間観念の吐露によって描写されている。


その間に郷里の貧しい老いた父に心苦しい無心の電報を“──フカウデキタ六○エンタノム──”という文言で送り、それの対照や寓意として“婆さんのたつた一人の姪だと云ふ女も、電報で北国から出て来た。”という言葉で繋げられている。


結局この物語は若人につきものの放埒と反省に、戒め、それに世間の同情を扱った小話となっていて、傘屋の主人という見知らぬ爺さんが立会保証人となって“『……実は、こんなことを申しあげては誠に失礼な話ですが、またあなた方のやうな学問のお有りになる方から見れば、何をこの年寄が馬鹿なことを云ふかとお思ひになりませうが、実は私はこの間から、あなたのことをお年もお若いのに何と云ふ顔色のよくない、青い顔をしてゐらつしやると、ほんとにお気の毒に思つて居りました。実は私は少し変つた方でしてな、私は天理教の方を信仰して居る者ですが、つまり何ですな、私達の方から申しますと、そんな風にお顔色がよくないと云ふやうなことにしましても、つまり平常天の理に反いた生活をしてゐるからだと云ふんですがな、……また今度のやうなことで不時の心配ごとに遭ふと云ふのも、つまり平常にどこか天理に外れた行ひをしてゐる報ゐだと、まあ斯う云ふ風に考へるのでしてな、それでどうかして平常から天理に適つた生活をしたい、天理に適つた行ひをしたいと、まあ斯う云ふ風に考へて居るのでございます。兎に角たいへんあなたのお顔色はよくありませんやうで……』”とお節介だが助けとなる長い文章によって物語のおちをつけられる。


そのあとの地の文には、“うるせぇぇ糞爺”なんて言葉の出ない率直な感謝が続いて小説は閉じられている。


つい構造的な分析をしてしまうように、特に個性の目立つ文体でもなく、切れのある一文があるわけでもないが、爺さんの長い説教は大きなかたまりとしてのしかかってくる。漢字よりも平仮名の目立つ文体の中で、懶(ものぐさ)げ、悪辣、叮嚀(ていねい)という言葉に引っかかった。


私小説か、それとも他人を材料にした小説かわからないから、このあとこの作家について調べようと思う。見知らぬ作家の文章はまっさらな心持ちで読めるから、あとあとの見解の間違いに苦笑して、照らし合わせる面白さが必ず残る。

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