4月12日(日) 広島市中区十日市町にある自宅で新潮名作選百年の文学から「徳田秋声の『和解』」を読む。

広島市中区十日市町にある自宅で新潮名作選百年の文学から「徳田秋声の『和解』」を読む。


この小説は徳田秋声の略歴に内容が説明されていて“「和解」は同郷、同門の泉鏡花との長年の不和が、鏡花の弟斜汀の急死によって一時解消されたことで成った作”とある。


泉鏡花は数作品読んだことがあり、思い出深く、またとても好ましく思っている作家だ。初めて接したのがパリの安宿で、暖房の効かない凍えそうな冬の夜に宿の本棚を調べていたら「春昼・春昼後刻」があり、試しに読んで奇矯な文体に幻惑された。それから「照葉狂言」や「高野聖」などを読んで特別な位置を占める、唯一無二の存在となったのだが、徳田秋声の作品は、はたして読んだことがあるだろうか。自然主義作家が嫌いなわけではないが、田山花袋や島崎藤村は覚えているものの、徳田秋声は……、覚えていないなら、読んだことにはならないだろう。


尾崎紅葉門下の有名な二人の作家の暫時の仲直りが描かれたこの作品を読んで、TやM、Kなどの情感もなにもない名前で実際の人物があてはめられており、名前を持った登場人物も少なからず登場する。昨日読んだ森鴎外に比べれば約二倍の分量となる十一ページとなり、頗る大人数と思えるほどで、より無駄のない小説作品とするなら数人削っても差し支えないと思われるほどだ。


小説の構成も、六節に分かれていて、場面説明と発端となる人物の登場、次に不安の陰、病気の進行と物語の主題提示、物語の順序良い発展、来訪、そして友誼の懐郷と余韻で終わる。自然主義らしい健全とした描写で話は進み、衒ったところや突飛な点は少なく、癪な修辞技法もほとんど見られない。泉鏡花と同門とはとても信じられない飾り気のない文体だからこそ、とても気心が合わないと瞬時に飲み込める。だからといって無駄がないといえば、そうとは思われない箇所もいくつかあるが、それこそが小説の持ち味とも思える気の長い表現描写なのだろう。


小説の初めに“壮士”という慣れない単語が登場し、続いて“お巡りさん”や“小島弁護士”、“防禦策”なんて単語が続くと、闘争の時代の物語だと知れるようだ。


当時を知れる面白い単語として“東京社交舞踏教習所”があり、いわばダンスレッスンのスタジオということで、“師匠”という単語が“先生”に変わってしまったという落語のマクラが思い出された。


登場人物として繰り返し比喩を使われたのが浦上ドクトルで、“幼児のやうな柔軟さをもつた彼──”、“ドクトルはモダアンな少年雑誌の漫画のやうに愛嬌があった。”、“ドクトルは操り人形のやうな身振りで出て行つた”と、それほど段落の離れていない中で続けて使われていて、あまり上手いとは思えないが、連続して使われることでちぐはぐな人物だと念を押されるようだった。


細かいところを探せば、“悉皆”という単語が三度使われていたり、チフスが“窒扶斯”と書かれたり、“犀利”や“宿怨”という単語が泉鏡花の描写で使われたりしている。


Tの病気の進行や、息を引き取ったあとの描写には、ロシアからもたらされた自然主義らしい簡潔ながら克明さがあり、冷たい温度を感じる無常観が息づいていて、ここらはさすがの力量だと思わせられる。


しかし、なんといってもKという名前をつけられた泉鏡花との関係が描かれる箇所こそ味わい深さがあり、Kの弟であるTと“私”は白髪染めしているが、Kは白くなってきたという対比をつけたり、“O─先生の息のかかつた同門同士の啀み合ひでもあつた。”という直接の説明もあるが、実際に対面すれば、“「──自分で遣るといふ気になるといいんだが、大きい事ばかり目論んで、一つも纏らないんだ。」私もそれには異議はなかった”などのTへの共通の観点があったり、“私は微笑ましくなつた”などの率直な嬉しさが出ていたり、“怜悧な少年の感覚に、こわい小父さんが可笑しく見えるやうな類だと言つて可かつた。”などの一目置いていることを比喩したりと、嫉妬や憧憬など、素直に儘ならない感情の一端が、やはり自然と描写されているところが目についた。


文学好きならば、どうしても泉鏡花と徳田秋声という実際の人物のやりとりに旨味があり、この小説はそれこそが自然主義らしい、事実をありのままに使った生きた材料を料理しているので、“K─と私とは、むかしこの辺を、朝となく夕となく一緒に歩いたときの気持を取返してゐた。生温い友情が、或る因縁で繋つてゐて、それから双方の方嚮に、年々開きが出て来たところで、全然相背反してしまつたものが、今度は反動で、ぴつたり一つの点に合致したやうに──それはしかし、考へてみれば、何うにもならないことが、余儀ない外面的の動機に強ひられた妥協的なものだともいへば言へるので、いつ又た何んな機会に、或ひは自然に徐々に、何うなつて行くかは、容易に予想できないといふ不安が、全くない訳ではなかつたけれど、しかし半目の理由は、既に私の気持で取除かれてゐたので、寧ろ前よりも和やかな友誼が還つて来たのであつた。何等抵触する筈のない、異なつた二つの存在であつた。”という箇所は、滋味の詰まりきったそのままの吐露だろう。


“「ちよつと行つてみよう。」K─が言ひ出した。それは勿論O─先生の旧居のことであった”なんて文章は青春の睦み合いが生み出した爽快な箇所であり、泉鏡花も好きだが、自然主義こそ自分の性情に向いていると思っているので、そのままに心が騒いでしまう。


ただこの小説の最後に、“当味”という広辞苑にない“あてみ”という漢字の使われているのが、やはり見事だと思う。これこそが、Tという人物が瞬間結びつけたどうにもならない同門の徒の、志向の違い、軋轢、妬み嫉みなどを超えた、近しき間柄の、誇り高い敬愛が表されているだろう。

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