4月10日(金) 広島市中区堺町にある日本料理店「野趣 拓」のお弁当を食べる。

広島市中区堺町にある日本料理店「野趣 拓」のお弁当を食べる。


「パルコデッラパーチェ」さんでの食事が、最後の晩餐になるはずだった。キリギリスの生活ではいざという時に直面すると、冬眠ではなく、永眠してしまう。誰も外に出てはならぬ、そんな心震えるアリアでも歌われていたなら外出を控えていたが、やはり気が抜けていたのか、自粛要請と身内の奮起に影響されてようやく軽い腰を重くしようと思った。しかしそうなると、毎日何を書こうか。誰のためでもない自分の為の文章の投稿を切る気にはならないので、どうしようか考えて、30分後に解決したことを今日から始めようとすると、「野趣 拓」さんの弁当が来た。


感謝らしい弁当の横には、写真にはなき、ユアーズのたこ焼き、とりから、オム焼きそばがある。これでは、消した食欲が再び点いてしまう。嬉しい誤算だ。一人でおさまらない心意気が良いではないか、これだから、他の人に慕われて、必要とされるのだろう。性質の違いが少し羨ましくなるものの、家族であっても隣の畑だから、自分は自分の畑で作業しよう。


まずコゴミを口にして、波紋の鰹の風味がおせちを思い出させる。次に見た目の渦巻に、広響の苦心惨憺と見えぬ先の響きが聴こえてくるようだ。みずみずしいフキには葛飾のアパートの庭の芽吹きと見知らぬ人の薹づみの光景が、山椒の香り良い葉には三段峡への道筋が、蕨にはユアーズで買ってアク抜きを調べて手前味噌した下手な料理が思い出される。どれもそう、菜も、茎も同じ、素材の持つ風味を強く残して、弁当に春の息吹である苦味やエグミを持った生命が転がっている。そして若鮎の甘露煮に目は瞑り、顎があがる。香ばしく強い醤油の浸透に身肉は苦味をあらんかぎり発露させて、酒を浮かばせる陶酔が味わい深くデクレッシェンドしていく。


そして親しんでいるスーパーな惣菜を一気に平らげる。


日本では馴染んでいないイースターが西洋ではそろそろらしい。少し前のN響の放送では、渾身のエッシェンバッハさんによる指揮でマーラー交響曲第2番が演奏されていた。復活、誰もがそれを目指して、きんと暗闘している。


保身の為に外食は徹底して控えようと思った。とはいえ、我慢できずに買いに行くことは予期できていた。極端が今日も自分に怒りの火を点けて、頭脳をだいぶ消費させていた。


全か無か、そういう傾向がすこし自分にはある。外食を断つ、できないとはわかっていながらもそうしようと構えたが、弁当にゆらりと緩んで、きんではないきんを回すことも必要だと、わずかに中庸に位置できたようだ。


「今まで、敷居が高くて訪れることができませんでした」なんて言葉を持ち帰りのパンが生み出したのなら、自分も今のうちに、少し暖簾を高く上げた店を回れるかもしれない。たとえ生活環境が敷居をまたぐことを許さなくても、玄関口で手渡しされる思い出が、いつか新たに店を訪れる時の前菜となるならば、過去を話のネタに晩餐できるだろう。その時を待って、閉塞の中で希望を切らずに、明晰に。

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