2月13日(木) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで新藤兼人監督の「裸の島」を観る。

広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで新藤兼人監督の「裸の島」を観る。


1960年(昭和35年) 近代映画協会 96分 白黒 35mm


監督・脚本・美術:新藤兼人

撮影:黒田清巳

音楽:林光

出演:乙羽信子、殿山泰司、田中伸二、堀本正紀


まっすぐに心を打つ映画だからこそ、モスクワで賞をとったのかと思いこんでしまうほどだ。シベリアやジャガイモと結ぶつく強靱な肉体と忍耐以外に要るものはないと思える内容は、ミレーの「晩鐘」と同じような太陽と雲の生活があり、自然の中の人の営みが言葉を抜かして道具で描かれている。


オープニングから心を奪われてしまう。俯瞰する景色は地球のある一定の横帯の乾燥があり、砂漠とは異なるクロアチアの南部やヨルダンにある山と見える。もしくは房総半島だろうかと思うも、小舟のショットに変わって、自分の住んでいる地域である瀬戸内らしい島並が映る。


人間とは比べものにならない雄大な各ショットの凄まじい美しさは「イングリッシュ・ペイシェント」の俯瞰する砂漠に劣らない。およそ日本とは思えない生活風景は、効率という言葉を浮かべてしまえば発狂するに違いない労苦の重複で、山好きの基本的視点を持った上下からのアングルや、雲や大地を含めた原初の地球から変わらないと思われる神話的な時間を持ったロングショットは、小さいからこそ神格化されるほどの叙事詩に思われる。それはちっぽけな生命の活力こそがすべての源であることを感じさせるからだ。


自分にとって新藤兼人さんは脚本で作品に接することの方が多く、監督での作品はおそらく3本目だろう。常に感じるのは一定して良質な脚本力を持ちつつ、育った地域に根ざした愛着と主題への距離を保ち、監督となっても映像制作の技量が損なわれないことだろう。ピアノも弾けて指揮も素晴らしいという音楽家とは少し異なるが、作曲ももちろん可能とするような懐の深い映画作家としての基本の大きさを備えている。


実際この映画は巨匠らしい研ぎ澄まされた感覚と、演出、それに構図と編集を持ち、林光さんの一つの主題と変奏によるフルートとハーモニカーらしいリード楽器の繰り返されるメロディーにより、叙情性も持ちながら頑健な作品となっている。肩の重荷を踏ん張る足腰はたまらないが、つまらないしつこさはなく、少しずつ骨身に効いてくる執拗さだ。


少し前に観た乙羽信子さんは可憐な葵の上だったが、華奢な体を心配せずにはいられない肉体労働に従事している。殿山泰司さんの生活との同化はどうだろうか、もはや何も疑問を感じない。大変な役だ。


地球と人間が存在する限り永遠に繰り返される物語は、国と地域などの境界は問題にならない。それはギオルギ・オバシュビリ監督の「とうもろこしの島」と似たリズムの無言と農作業で、あの物語はジョージアの民族戦争の境界線の上での営みだったが、耕す本人はそれとは別のところで生きている。


意味もなくただ大地にしがみついて生きる。ただそれを示すことで、意味を見いだすことこそ生きることだということをみせるだけだ。

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