2月11日(火) 広島市西区横川新町にある広島市西区民文化センターで「イチエンポッポフィルム上映会vol.31石井清一郎監督の『凪いだ、あの夏の日』を観て、プレパラートのコンサート」を聴く。

広島市西区横川新町にある広島市西区民文化センター・2Fスタジオで「イチエンポッポフィルム上映会vol.31石井清一郎監督の『凪いだ、あの夏の日』を観て、プレパラートのコンサート」を聴く。


脚本・撮影・編集・監督:石井清一郎

音楽・詩:小方祐馬/プレパラート

出演:有田賢生、Anne、井原武文、貢藤十六、廣瀬瑠花、みつふじひろあき、黒長未知子、黒長深優、黒長千笑、黒長雄大、越後佐知子、加藤尚子、松永恭平、爽田にこ


フェイスブックのシェアで見て、予定が空いていたので足を運んだ。映像文化ライブラリーで外国の映画や古い日本の映画は観るが、自主制作の作品をほぼ観たことがない。外国の監督によるショートフィルムを観たことはあるが、それらを自主制作と呼べるのかわからない。


観に行く前から考えていたのは、映画監督、演出家、建築家、指揮者といった1つの作品を創造するべく生まれたチームと密接なコミニケーションを持ち、先頭に立って描いていく立場についてだ。つい自分と比較してしまうが、中学生の終わりにHIPHOPのムーブメントが仲間内に発生した際に、MC、DJ、グラフティライターなどの表現の中で自分が選んだのは、ダンスだった。これには音痴といういまだに痛感するマイナスの才能があり、また、小学校で初めてもらった成績表の中で唯一最低で評価された字の汚さがあるので、消去法としてダンスになった。それに、体を動かすのは好きで、一番の理由は金のかからないことだった。MCも同様なのだが。


それから成人して、何に成りたいかと考えたときに、コンプレックスだからこそ憧れる音楽で何かしたかったが、気づけば文章を特技として持とうとしていた。単に読み書きが好きだったというのはあるが、別の理由もあり、ペンと紙という道具だけで行える簡潔さと手軽さ、いわば金と手間のかからない表現方法というのが大きなウェイトを占めていた。それにもう一つあったのが、始めてからある地点への終わりまで(趣味の範囲では)、すべて一人で完結することだ。これが性格に合っていたのだろう。


そんな経緯があるからこそだろう、普段何かを観て感想を書くが、常に引け目というか、コバンザメの立場を拭うことはできない。所詮感想など言葉の適当なジグソーパズルでしかなく、作品を生み出す本人の勇気と活動に比べれば、比べる価値もないだろう。常に書く本人がその偽りを自覚しているので、一番信用していない。


だから自主制作の映画を観て何が言えるのだろうか。予算の多くある環境と異なり、制限はより狭くきつい。その中でいかにアイデアを活用して表現するかが手腕なのだが、いろいろと考えてしまう。なにせ、すべてが自分にはとてもできっこない仕事であり、逃げるように文章を書く立場の人間がわかったようなことを言って、おまえはいったい何がわかり、何をしているのだと訊かれれば、無言の返答による何もなさを吐露することになる。それでも、一度逃げたらとことん逃げることが重要だから、映画を観た感想をやはり書きたくなってしまう。思いあがりだとしてもだ。


初々しい作品だと思った。自主制作映画を初めてのように目にする自分の観点と、初監督だという作品紹介に、ぎこちないと思える演技と男女の関係が混ざって、それらが物語の内容に波及して自然と不自然の境界がぐらぐら揺れているような印象を持った。映像文化ライブラリーの作品群が主張するリアリズムらしい暑苦しさや根性を持った魂はなく、鮮明でありながらフォーカスによるぼやけを持つ白と青と輝きが、物の存在の肌理をむき出しにする画面に表れながら、生活感のある録音状態と一緒により身近さを覚えさせる。それは家の近所がロケ地ということもあり、余所者でありながら空鞘神社の祭りにかすかな故郷を感じ、見慣れた対岸の風景にありありと、経てきた季節の実感が木々にまとう葉叢の状態から覗くようだった。


会話の間や台詞そのものにある種の不用心な様式的な固さがあった。それは不可解な現象に接する今の若い人間の浮遊感なのか、それとも冷めたようにみえる感情の潜みなのか判然できないが、古物には存在しない新しい関係性による実感なのだろう。もっとねちっこく、劇的な感情をより詰めこみたくなるのは、おそらく古い人間の形式的な欲望なのかもしれない。細い線が肉厚を描くライトノベルや太い眉毛の劇画とは遠いアニメーションにみる青臭さともいうべき触れ合いに親しんでおらず、宇品の港で相手の家に行ってもよいかと声を出す場面に対して、派手なリアクションや欲情をつい期待してしまうようながさつさは、そもそも新しい世代の感受性を備えていないことを証明するようだ。


監督がカメラマンということもあり、非常に柔らかいのだが全編に固定的な優しさが生き通っている。緑や白など、植物や町並みなどの自然なズームやロングショットは自分の好むところだ。編集のリズムや音楽の挿入するシーンや量に好みは分かれるにしても、その情景の持つ時間帯と叙情を的確に表している。


個人的に好きなショットがあり、大きな岩場を背景にした歩く二人の砂浜のカットや、ゆるく斜めに砂浜が線を引く性的なほど青い渚、それに風鈴が垂れる窓を開ける姿を近い斜めのアングルでおさめたカットだ。古い映画ばかり観ている自分の感覚が喜ぶ目新しさはないのかもしれないが、ああいうカットがあると安心する。


扱う主題と物語が新奇ではなくても、それをどのように描くかが大切だろう。自分よりも遙かにみずみずしく、若い感性で描いたこの作品の風情と距離感や、ピンクよりも白が選ばれた夾竹桃など、チラシの色彩から爽やかさと淡さを求めてきた要望に、そのままの印象を受け取ることができた。


そして上映後には、この作品の音楽として携わったプレパラートのライブがあった。まず耳とイメージを持っていかれたのがリコーダーの音色で、少し前にも回想したフランス・ブリュッヘンという人物が頭に蘇り、飾り気のない澄み切った音にバッハとは異なる様々な線の遠のきを感じた。人柄がそのまま出ているような音色は、まるでよどみなく、滅多に聞かない楽器の音色が実に素晴らしかった。グロッケンシュピールはエフェクトがかかっていたのか、単語はわからないがエコーかディレイのような効果を2曲めに感じたが、アンコールでより生の音を感じることができた。多くの楽器とパートを担っていた小方さんの声にポップスの持つ近寄りやすい感情の誘いを受け、楽曲と高い声に音源で聴くのとは異なる再現力のある叙情を感じた。特にコーラスが良く、3人での歌いが最も印象に残った。


ライブ後には監督自らによる出演者と関係者の紹介があり、この上映会へと足を運ぶきっかけとなった人と人の出会いと繋がりを確かめることになった。作品だけを観て感想を終えるのと異なり、この自主制作映画には過程に思いを馳せることも大きな味わいの一つだろう。割腹自殺した作家だっただろうか、小説の結末だけを求めて途中の景色を見逃すのではなく、そこに至る過程こそが小説の味わいだと、たしかそんな言葉があったはずだ。旅行に出れば何よりも楽しむのは、いつだって車窓からの景色だから、この映画の作られるまでの道筋も結果としてある作品同様に見逃せない生きた表現なのだろう。


フェイスブックのシェアの言葉を見た時からすでに予期していたのだろう。上映会に来る前に余韻の強く残る催しに参加したのも前菜のようなものだろう。一人で文章を書く自分からすると、とてもかけ離れた世界のように思える多くの人によって成り立つ仕事と作品は、やはり初めから諦めている手の届かない憧れのように見えてしまう。継続的な協調性と社交性の欠如か、それも自分の不利な才能などと浸っている面があるのだろう。自分で選んだことを知っているくせに。


純粋な友人関係、それも対等で信頼し合っている。おそらく、意識することなくそれに惹かれて、観てみたかったのだろう。人との縁でできあがった、とても良い上映会を。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る