1月19日(日) 広島市中区大手町にある牛丼店「松屋 広島紙屋町店」でシュクメルリ鍋定食を食べる。

広島市中区大手町にある牛丼店「松屋 広島紙屋町店」でシュクメルリ鍋定食を食べる。


依頼と使命、そして調査ということで、失われた味を求めて松屋に来た。最近見聞きするグルジスタンキュジンだというシュクメルリの記憶だ。


どこかで食べたことがある、そんな言葉は昨年末のカラスの糞被害を助けてくれたトム・ヨークを思い出させる。いまだ誰かわからないまま、記憶の底に沈みかけているが。


週に一度は映画前に来るすでに馴染みとなっている松屋に来て頼む。カレーとビビン丼を一回ずつ頼んだ以外はすべて牛丼なので、定食を頼むのは初めてだ。


ぐつぐつ煮えた鍋に手を出す前に、味噌汁を飲む。この時点で入り口は違う気がするも、そこは松屋スタイルらしくてよい。味噌汁を抜いてしまえば、肝心なアイデンティティを捨てて追従したことになる。


ニンニクが漂う鍋にスプーンを入れて、口に運ぶと記憶がよみがえってきた。それは仕事場での自分だ。


発送する商品を検品する役目の自分は、ときおりミスをする。商品の入れ忘れ、数の間違えなどだが、ハンディのデータと自分のサインを確認するも、ちゃんとチェックされた痕跡がある。しかしお客さんからのクレームがある。自分を信用していない自分だがお客さんもしっかり疑うので、きっちり見た形跡があるのに、何でだろう、おかしいなぁ、不思議だなぁ、と思うも、やはり間違えているのだ。それは簡単なことで、しっかり見たはずなのにという考えがある時点でもはや過ちを犯している。なぜなら、本当に見たならその時点で間違いに気づいているからで、見ていないから気づいていないのだ。


チキンとサツマイモが泡吹く白いソースの揺れているのを前に、食べたことがあるかも、そんな言葉の問いに答えが出た。食べたことはないだろう。きっと食べたはずは、食べていない。なぜなら、食べたら写真を撮り、記憶に残すのが妻だからだ。なにせ旅行で出会った食事と人に関しては記憶力が断然上なのだ。自分のほうこそ覚えていないことのほうが圧倒的に多く、関心が記憶力を大きく左右するとはいえ、基本としての能力がやはり自分よりも高いのだ。それに最近のトム・ヨークの事例がある。答えの出ない疑問は、間違いの可能性が高い。疑って悪いけれど。


本当らしい記憶としてのぼってしまったとしたら、それは昔に葛飾で作った家庭料理で、やたらニンニクを入れて作った鶏肉のシチューこそ、松屋で提供されるコーカサス料理に近いだろう。こじつければ。それか、ロシアかどこかで食べたつぼ焼きだろうか。具はキノコだけれど。


大いなるニンニクとチキンの脂という網にとらわれたこの料理は、鼓動を失った心電図のように一定しており、その他の味が混在していてもはやまったく見えない。そもそも、グルジアで鶏肉を食べた記憶がない。はちゃぷり、ひんかり、そして牛か豚のはるちょばかりだ。


この松屋のシュクメルリが日本人に馴染み、だれかがこのメニューを自分の店に取り入れ、日本のカレーのように日本のシュクメルリになれば面白いのに、そんなことを考えてしまう。


答えを断定することはできないが、グルジア料理と言うよりも、日本の家庭の味のようなシュクメルリだった。

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