1月19日(日) 呉市中央にある呉信用金庫ホールで「2020くれニューイヤーコンサート~南欧イタリア・スペイン古の旅~」を聴く。

呉市中央にある呉信用金庫ホールで「2020くれニューイヤーコンサート~南欧イタリア・スペイン古の旅~」を聴く。


指揮:横山奏

ギター朴葵姫

管弦楽:広島交響楽団


ロッシーニ:歌劇「セヴィリアの理髪師」序曲

タレガ:アルハンブラの思い出

ロドリーゴ:アランフェス協奏曲

ヨハン・シュトラウスⅡ世:ワルツ「南国のバラ」

レスピーギ:リュートのための古風な舞曲とアリア 第3組曲

ビゼー:「カルメン」組曲より

アンコール

ディアンス:タンゴ・アン・スカイ

ヨハン・シュトラウスⅡ世、ヨーゼフ・シュトラウス:ピチカート・ポルカ


ある人はとある女性ピアニストのファンだと聞いたことがあり、ちょうどその演奏家の公演があった日に、パクキュヒさんのソロリサイタルもあった。どちらも聴きたいが迷った末に、会場を理由にラジオで知ったギター奏者を聴きに行った。その結果、自分はピアニストではなくギタリストのファンとなったのだ。ちにみに同日にあった公演は、アリス=紗良・オットさんだった。


演奏会が始まるまでに途中となっているバタイユの「目玉の話」を読み、マドリッドとセビージャを舞台としたおぞましい話に戦慄した。闘牛士と司祭の惨たらしい死と、今日の演奏会の舞台となっている偶然の関連に、暑さ以外はまるで異なった趣を感じた。


軽快なロッシーニにドン・ファン伝説のある美しき街を感じさせられ、小説の狂った熱気を消化してもらったようだが、紡がれる弦の音色はやはりスペインやイタリアの乾きのようだった。


タレガの曲は、独奏曲しか知らない自分には管弦楽の相性に違和感を感じてしまう。短絡的なイメージで言えば孤独と哀愁のギター曲という印象があるので、そんな哀調の響きはオーケストラの音に失われてしまう気がした。埋没する中を探るようにではなく、広いホールに響くギターの焦点を欲してしまった。


ロドリーゴの曲では、小説の舞台となった血なまぐさいマドリッドはまったく忘れて、白さがどこにもないまぶしい空へめがけるようなヴィブラートの乾いた弦の響きが冷たかった。金属よりも、有機的な丸みを感じさせる豊かなギターの音色はおさえが利いていて、あくまで自然に奏でられるような慈しみがあった。第2楽章の入りで鳴り響いたコールアングレの物憂さは空気を変え、ギターもより深い哀感を帯びるようだった。ひけらかそうという意識の見えないパクキュヒさんは、裾の長いきらびやかな赤いドレスを着ていて、左足を一段高く乗せてギターを抱える姿は、それだけならば想起することはなかったはずだが、静かな表情を目立って変えることなく伏し目のままギターを奏する絵図は、大げさだとわかっていても、ダ・ヴィンチの「ピエタ」像を思い起こさせた。慈愛の静けさに包まれていて、一人超然とギターを奏でる姿は、小説の中で陵辱された司祭が思い浮かんだ。内面と神聖を持つ姿は、修道女のような慎み深い演奏で、このまま彫像にあってもなんらおかしくない存在だった。


それでいてアンコールはより表現の凹凸がわかりやすい、スケールの大きさをこなしてしまう。自分はこの人のファンだが、それは可愛らしい姿かたちだけでなく、今日の演奏でもひしひしと感じられた人間としての格好良さを備えているからだろう。ただかわいいだけの一面ならば惹かれはしない。そこに本物の技量と、凄まじい芯の強さを感じられ、この存立しないように思える性質が同居する多面性こそ、稀な魅力なのだろう。前の演奏会で質疑応答があり、今はまっているもので、カメラの話があり、デジタルよりも複雑に思えるフィルムカメラを持って、狙うショットの為には何時間でも待てると嬉々と話している姿に、落語風にいえば、ずいぶんとすごいのがいたもんだ、と驚いてしまった。この人のたたずまいと演奏を目にしていると、おそらく優しい人なんだろうと思ってしまう。それも弱さからくるつられてしまう優しさではなく、驚異的な忍耐力が示す鬼のような意志の力を逆さにした、本当の優しさを備えているように思える。だから「ピエタ」像のマリア様に見えてしまうのだ。


後半の曲もそれぞれ風趣が異なり、ヴィブラートの振動する歌うようなシュトラウスに、グリーグのような艶と潤いを持った北欧と錯覚するレスピーギに、揺れの少ない賽の目のようなビゼーと続いた。目的はパクキュヒさんだが、各パートを緊密に描き、劇的ではなく、あくまで音楽的に増進させていたビゼーを聴くと、この先をいくらでも描ける指揮者だとつくづく感じた。おかげで、スペインの太陽が生む狂熱の奔騰をジプシーの踊りで味わうことができた。


プログラムと一緒にもらったパンフレットには、3月に東広島でパクキュヒさんのギターリサイタルとあり、これは予定が合うだろうかと家に帰ってカレンダーを調べると、すでにその公演の予定で埋まっている。チケットもなく、パンフレットもないのに一体なぜだ、目玉につままれたような気分でいると、かすかな記憶がよみがえってきた。もしかしたら、ぴあか、そう思ってログインすると、支払い済みの発券されていないチケットがあった。


そういえば、呉の公演を購入する際に、おそらく買ったのだろう。昨年の自分なんて忘れてしまうが、どうやら考えていることは同じだったらしい。

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