12月1日(日) 広島市西区草津南にある109シネマズ広島で「MET ライブビューイング2019-20 第2作 『マノン』」を観る。

広島市西区草津南にある109シネマズ広島で「MET ライブビューイング2019-20 第2作 『マノン』」を観る。


指揮:マウリツィオ・ベニーニ

演出:ロラン・ペリー

出演:リセット・オロペーサ、マイケル・ファビアーノ、アルトゥール・ルチンスキー、ブレット・ポレガート、クワンチュル・ユン


体調が観賞に合わないのもあったのだろうが、今日の作品は全編を通して集中することはできずに終わった。感動に貫かれて意識が引き込まれるのではなく、繰り返し遠退いてしまい、こっくりこっくりするような健全な眠気ではなく、背筋を伸ばしたまま画面が消えていて、気づけば眠っていたらしく再び画面が現れるという、軽い気絶を繰り返す観賞となった。


その理由はマスネの音楽とマノンの物語にあるように思えた。序曲から軽快なメロディが走り、幕が上がれば裕福な身なりの禿げた男が食事を求め、ついで友人の男と3人の華々しい身なりの女性が登場してフランス語らしい軽妙な歌い回しが続くも、この時点で長たらしく感じてしまい、こんな場面は必要かと思ってしまう。パリの富裕層というマノンが依存するように求め続ける豪華な生活様式が端的に紹介されて、物語は展開していくのだが、フランス語の歌唱とマスネの音楽に重たさは感じにくく、重厚な人間劇を求める好みとの食い違いが自分を退屈にさせていたようだ。


いくら物語の構造が破綻していても、音楽が格別に優れているならオペラは成立すると思うも、台詞がどうも詩的に感じられず、都合の良い上っ面のように聞こえてしまう。その台詞と動きが登場するまでの推移が唐突に感じる点があり、細かい人間心理を抜いて、一気にそこまで持っていくようなやや強引な展開を感じてしまった。出会いと恋の歌い回しでも、不自然を自然に思わせるのが大切なのに、不自然がそのまま不自然に見えてしまうという状態にあった。そこに壮大ではあるが諧謔的な旋律や音色が挟まれて、ふしだらというか、軽薄な印象が音楽から取れてしまい、真に心に迫ってくる音楽のしめやかさが弱いように感じた。


おそらく、すべて自分の感受性の無機能が台無しにしているのだろう。パリの社交界の豪奢な衣装や、階段や坂を巧みに使い人生の変転を示唆するような装置はやはり優れていて、コケットリーな歌唱と演技も大袈裟なまでのあざ笑いも立派にある。放埒で素直に自分の欲を求めて変わっていくマノンの演技と歌声や、純粋な愛に貫かれたデ・グリューの実直で熱っぽい姿など、細かい演技と伸びやかな歌声は格別の素晴らしさがあるのに、なぜか意識はすぐに消えてしまった。おそらく最も見ごたえのあったであろう第3幕の教会でのシーンも、舞台装置の転換を待つ間に目が切れてしまい、神に身を捧げたデ・グリューの登場と悲嘆で画面は覚め、すぐに切れ、次には胸元の開いたマノンの登場と2人のやりとりなのだが、まるで睡眠薬の断続のように、気付けば神から肉に叫ぶデ・グリューとベッドのシーンになっていた。なんて勿体ない見逃しだろうか。恋や迷いを語るアリアは受け付けなかったが、唯一画面に集中したのが第4幕の賭博の場面で、そこでは緊迫感のある劇の要素が強く発露していた。


「椿姫」は、小説でもオペラでも楽しめたが、「マノン」となると、小説もオペラもそれほど楽しめないのはなぜだろう。高級娼婦がどちらも登場するが、性格は異なるも、どちらも根は真面目な人間性を持っているのに。自己の欲求に忠実な女性よりも、陰から献身的な愛を捧げる女性の方が好ましいのか。おそらく違うだろう。


原因の多くは自分にあるのだろうが、フランス語か、マスネか、拒絶に近い睡眠を催す要素がどこかにあったのだろうか。もう一度観る機会があったら、体調を整えて観賞したいと、偏頭痛が残る頭で考えた。

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