音楽、映画、美術、舞台、食事、文学、観光についての体験感想文集
11月30日(土) 広島市東区東蟹屋町にある広島市東区民文化センター・ホールで「第七劇場による 小さな大人と大きな大人のための名作シリーズ 『赤ずきん』」を観る。
11月30日(土) 広島市東区東蟹屋町にある広島市東区民文化センター・ホールで「第七劇場による 小さな大人と大きな大人のための名作シリーズ 『赤ずきん』」を観る。
広島市東区東蟹屋町にある広島市東区民文化センター・ホールで「第七劇場による 小さな大人と大きな大人のための名作シリーズ 『赤ずきん』」を観る。
原作:シャルル・ペロー、グリム兄弟、ほか
構成・演出:鳴海康平
出演:木母千尋、小菅紘史、三浦真樹、ほか
子供向けの劇かもしれないが、第七劇場の芝居なので足を運んだ。
ホールの舞台上に客席が設営されていて、広い空間を間近に芝居を観る形となっていた。薄く白いカーテンが幕の役割をなしつつ、隠すことなく透ける向こうに現実の一線を越えたおとぎ話を見せては、開かれて、形象のはっきりした芝居も繰り広げられた。
脚色された「赤ずきん」は、自分の知っている物語と少し異なり、母子の関係性に狼も加わり、勧善懲悪のような単にやっつけた話には収まっていない。そもそもおとぎ話は寓意性を備えた残酷な薄気味悪さを持っているが、今日観た芝居には狼とおばあさん、それに赤ずきんも対峙するおどろおどろした劇空間はあっても、そこにはもっと密な他者との関係性がクローズアップされていた。母親の怪物芝居、父の喪失、家事仕事に追われて失う娘との向き合い、狼との木苺拾い、その過去の忘却、などなど、長くない芝居時間に各要素が関連して浮かび上がらせているのは、人は都合良く自分の時間にあり、他者は繊細にそのことを気にしているという、他者との関係性で逃れられないわずかなずれが、大きく人の心を左右しているということだ。そんな観点を持つと、おばあさんも赤ずきんも、なぜ狼に気づかないか考えてしまい、外観の違いなどたやすく気づきそうなものだが、そうならないのは、人は他人をそれほど気にして見ておらず、少し違ったところがあっても心に入らない、そんな一面を狼という形で皮肉っているようにも思えてしまう。
赤ずきんを食べ、狼の腹から救い出すくだりは説明だけにとどめられていた。子供向けの劇ならば、痛快に持っていくことのできる場面でもあり、呑気に寝ている狼に諧謔の要素でふざけることはできるかもしれないが、そういう点は見あたらない。そんなのは他の劇やエンターテイメントで楽しんでもらえればいいと決然としているように、子供向けのこの舞台は芸術性の高い劇空間がみなぎっている。お父さん、お母さん、おばあさんを演じる役者だけが子供に親しみやすい雰囲気を発しているが、二人の赤ずきんは発声からしてコメディ要素のない緊張感のある深刻な音を含み、神経的な表情も多い。ケーキを作って運ぶシーンなどはとてもおもしろいが、それらを抜かした地の芝居は真面目にできあがっている。それは単なる笑いで誤魔化すのではなく、グリム童話のような不思議な魅力を持つ魔物の恐ろしさで、子供に、人生は怖いところだから間違わないで生きることを伝えるようだ。
遊びで怪物を演じる母が娘を襲う動きや、仮面をかぶったような声で紳士らしく話す狼のテーブルに乗る動きなど、同じ旋律が繰り返されるような効果があり、様々な和音や旋律などに見られるうような純然な身体表現が緊密に絡み合い、疾走感とは違うがぐいっと引き込む独特のリズムは赤ずきんと狼のベッドに一緒に座るまでの一連などに第七劇場特有の演劇表現を感じることができて、これを味わいたいがために子供向けの劇にでも足を運ぶのだろう。
俗っ気は感じられず、気楽に笑えるのは一人の役者の周りのみだ。子供向けにしては高尚に思える形となっているが、大切なのは本物を体感することなのだろう。子供におもねるのではなく、簡潔に親しみやすく、姿勢を崩すことなく接していた舞台だった。
そして、あとあとチラシを見て“小さな大人と大きな大人のための名作シリーズ”とあり、くどくどしく子供の劇と書いている自分の間違いに気づいた。
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