11月23日(土) 広島市中区八丁堀にあるYMCA国際文化ホールで「安浪狐・作『廣島ヒロシマ広島』」を観る。

広島市中区八丁堀にあるYMCA国際文化ホールで「安浪狐・作『廣島ヒロシマ広島』」を観る。


作:安浪狐(芝居屋台紺町稲荷堂)

演出:中沢徳人

キャスティングプロデューサー:深海哲哉

照明:金沢京子

音響:宗平亮

衣装・メイク:狸庵

出演:深海哲哉、木鳥モエ、如月叶、斉藤圭佑、龍侑令乃、石橋磨季、奥野てっぺい、渡辺裕人、あいこ、北木悠里、河原翔太、池田和将、中岡将司、まつはましん、田中暁弘


自分はカープファンじゃない。数年前はプロ野球シーズンの開幕が呪わしく思われるほど、毎晩の時間を奪い、勝敗でひどく不機嫌にされたが、広島に引っ越してきてから自分でも驚くほど関心が薄れた。中畑清さんが好きでDNAファンだったので、ラミレス監督になる前の乱気流のような降下でずいぶんと時間を無益に費やした。


カープという名を聞くと拒否反応がでる。それは巷で遭遇するポケモンGOほどの一過性の薄気味悪さと、これ以上ない具体例としての流行現象の代表に思えたからだ。強い時のカープでしか広島を知らない。


しかし古いカープを知る人の話を聞くと、まるで異なった印象を受けたことがある。カープがあることに疑いの余地はなく、広島に育った人にとって自然にあるものであり、その言葉はファンという形容に一切収まらず、当然という言葉がぴたりとあてはまる。他に選択肢など存在しない、そんな土着の宗教のように切り離せず、切り離すことを考えさえしない安定した一体感を古い人から知ると、はっきりと自分はカープファンではなく、この先も決してファンなどと名乗ることはないと表明できる。引っ越して来てそろそろ4年は経つが、広島弁をほぼしゃべらず、しゃべることもできない。もう遅すぎるのだ。カープファンだとアピールして、広島弁を使えば、偽物を演じるようで気分が悪くなる。自分は関東で生まれ育った人間であり、これはもはや変わらない。それは数年単位の居住歴で覆されるものではない。広島への愛着などのおもねりはなんら必要なく、嘘はつくべきではない。それが本物である基本の姿勢だろう。


そんなカープと広島についての自分の小さな理屈など、まったくどうでもよいと思わされる舞台だった。物語は原爆とカープの関係を、名はあるが、名もなき広島県民を例に描き出されていた。未来からやってきた人物と関わる一人の女性を軸に、その周囲の人々が描き出される。群像としての場面は、樽募金や中島町、野球好きの女の子、高校野球の兵隊があり、それらが関連して、中盤から終盤にかけて扇情的な場面を色濃く出して物語を紡いでいる。


装置は簡素で舞台も広くないが、登場人物は少なくないので、役者の芝居が主に情景を作り上げていた。台詞の多い深海さんは物語を回す役として休むことは少ないが、他の役者は休止が多く、一球入魂などとついつい野球に関する比喩が浮かんでしまうように、各場面に集中するような形に思われた。寓意や象徴を伴う混濁した表現は少なく、役者同士の直接的な芝居を主としていた。


その中で第一に挙げられるのが、奥野てっぺいさん(登場人物が多く仮に役柄と役者が間違っていたらすいません)と渡辺裕人さんの向かい合う場面で、奥野さんの重厚感ある声と古い新劇を思わせる存在感のある演技に、ベクトルさんの井上ひさしさんの劇でも軍人を演じていた渡辺さんが上手に対面していた。間違いなくこの舞台で、構成や台本を抜きにして、演技として観客を引き込む空気感は最も高く、この場面のあとの深海さんへと続く展開の推移と、放射能によって蝕まれた登場人物に潜む暗い面を照らす場面への集中力は高まっていた。渡辺さんの科白は根源的な恐怖を表した大袈裟なまでの動きではあるが、その緊張感は決して悪いものではなく、頭を抱える腕の瞬間的な動きと、頭部をつかむ手の広がり方などは、最近の人肉食の漫画などでも見かける苦悩の一種の表れとしてあるも、手塚治虫の漫画にも見かける苦悩の泣き叫びと足の伸ばし方は「火の鳥」や「ブッダ」にも見られるように、誰にでも待ち受ける深刻で逃れようのない夜の死を思い出させるものだった。実に素晴らしい躍動感と声量だった。これ以降二人の登場シーンのないのが残念なほどだった。


次に気になったのが、姿態として優れた資質を持ったあいこさんで、細身の体に着物姿が良く似合い、これは個人的な嗜好が分かれるかも知れず、人によってはふっくらした芸者を好むのもあるので一概に断定できないが、弱みと優しさを隠した突っ慳貪な態度がとても好ましく、吐き捨てるような台詞の言い切れる調子は関東の自分からするとエキゾチックに感じる関西弁の味わいがあった。台詞もよどみなく、関西弁に詳しくないから真偽は判別できないが、それらしくまくし立てる風情のある口調がきつくあるも流れるようで、鞭に打たれる性倒錯まではいかないが、張りのある調子が気持ちよく感じられる点もあった。年増の芸者はもっと男性によりかかる科があり、あんな刺々していては客も寄りつきにくいと思われるが、神戸から広島へやってきた背景をあとあと知れば、柔軟性に欠ける利口な弁舌も納得できる。顰みという言葉で形容できる味わい深い眉間に、きりっとした冷たく優しいまなざしが役にとてもはまっていたので、眼福を得るというか、被爆してから、健気な小間使いの北木さんとの凹凸の人間関係を感じるやりとりのあと、小首を傾げて息き絶える様は、抜け殻を引き立てる悲愴な構図にできあがっていた。


整った顔立ちながらアニメの声優のような明るい声が目立っていた如月さんも、前半の口論の場面では良い具合にトーンが変わり、笑わずにはいられない女の喧嘩を盛り立てていた。樽募金の三人の男性は風貌からして旨味があふれていて、それに加わるスーツ姿の男性は確かな声量と技量を持っていて、出番はそう多くなかったが身体表現が目立っていた。


大音声が観ている方にもおっかなかった斉藤さんは、被爆後に娘を背負って現れる場面の異様は突出していて、映画ではない芝居でこのように表現するのは観たことがなかったので、現実をすでに知っているからこその逃避する惚けた語り口は、やるせないものがあった。特に顔面と眼鏡の感じが良く、ここまでにそう大きく派手な衣装転換のなかった中でのメイクの大きな見せ所は、原爆投下後の場面を沈痛に塗りあげていた。


そしてどのように吐血していたのか不思議に考えてしまった、大きい目で感情を表していた木島さんに、最も比重が大きくも一人飄々とした難しい立ち所の役を演じていた深海さんのタブレット端末をいじる姿など、重要な登場人物が広島の過去をからめて祭りのような短絡的な賑わいにつながる今のカープで締めくくられたのも、今と過去に思いを馳せる爽やかで悲しい結末だった。


約2時間の舞台は確かに短くはなかったが、カープファンでもない自分でも集中力を欠くことなく観ていられた。あるのは広島の歴史で、桜隊やその他など、広島に住んでいなければ知ることのなかったであろう事柄が背景知識として絡み合い、フィクションかも知れないがノンフィクションでもある歴史のつながりに目は向けられた。


カープファンの賑わいを遠目にして、がさつなおっさんの話すきれいとは思えない広島弁に眉間に皺を寄せるも、決して否定的にはこの土地を見ることはできない。間違いなく、今から実家に戻れば広島をしつこく懐古する自分をたやすく想像できる。何度も書いていることだ。東京のラーメン屋よりも多く並ぶお好み焼き屋に、画一的なファッションが闊歩する本通り、ミーハーなほどタピオカに並ぶ雀の人達、カープグッズを得る為にエディオン(昔の名前は聞いても知らず)に行列を作る人々など、悪くない田舎臭さを持った幅の狭さがこの街に存在している。そんなのは大したことではなく、引っ越してきてまず第一に感じたこと、それは飲食店に入り、気軽に話せる人がいることに驚いた。決して小さい街ではないのに、優しく、親しみやすい人がいる、それがいかに自分の心に衝撃を与えたか。


広島に住んでいるからカープファン、そんなことは重要ではなく、余所者だけれど今の人生の中で最も好きな場所だと感じるのが広島だと、再確認することなく日頃から知っている自分をまた見る舞台となっていた。

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