9月20日(木) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでテンギズ・アブラゼ監督の「祈り」を観る。

広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでテンギズ・アブラゼ監督の「祈り」を観る。


1967年 78分 白黒 Blu-ray ジョージア語 日本語字幕


監督:テンギズ・アブラゼ

原作:ヴァジャ・プシャヴェラ

脚本:アンゾル・サルクバゼ、レバズ・クベセラバ、テンギズ・アブラゼ

撮影:アレクサンドレ・アンティペンコ

音楽:ノダル・ガブニア

出演:スパルタク・バガシュビリ、ルスダン・キクナゼ、ラマズ・チヒクバゼ、テンギズ・アルチバゼ、オタル・メグビネトゥフツェシ、ズラブ・カピアニゼ


昨年の夏に特集されたセルゲイ・パラジャーノフ監督の作品を観た時もそうだったが、古い日本映画と異なり、フィルムに映されるのは馴染みのない要素が多く、舞台、小道具、人々の衣装のどれをとっても容易に言葉として出てこない。髷や着物などのように直接に変換できず、民族衣装としてひとまとまりになってしまう。それは映し出されるショットや編集、物語の構造も同じで、日本映画の持つ文法と異なり、一体何を映し出しているのか把握できない。


映像美だけに耽溺するばかりで、物語の難解さは脇に置いて味わった過去の経験を踏まえてこの作品を観ると、やはりパラジャーノフの作品をスケールにしてしまう。ヴァジャ・プシャヴェラの詩から映画は始まり、男性と侵食された岩肌が映り、ティルトアップされていく。それだけでこの作品の世界は風呂敷を広げられて、題名が何を意味するかを求めていくことになる。


この作品の上映後に、岩波ホールで44年間勤務されたはらだたけひでさんのアフタートークがあり、グルジア映画の公開に努めてきた知識と経験、それらを培ってきたグルジアへの多大なる愛情から含蓄ある言葉が記憶に覚まされて結ばれていた。そのなかで、「放浪の画家ピロスマニ」のゲオルギー・シェンゲラーヤ監督との出会いの話があり、そこで「グルジア映画を知るなら、グルジアという国を知らなければならない」というような言葉をもらったとあり、それは日本映画などを知るのとは少し意味が異なると言っていた。


冒頭の岩肌だけでも、自分はこの言葉をあとあとに結びつけた。アルメニアの首都エレバンからバトゥミに向かうワゴン車の中で観た景色は、どれもが映画の景色を味わう土台となっており、朝方の凍りついた一面雪の景色のあと、長い坂と曲がる道を下って谷に入ってから、右に奇岩がそびえていた。この経験があるとないとでは映画への味わいは異なり、奇岩からカッパドキア、カッパドキアでの初期キリストの隠れ家や壁画、グルジアにキリスト教を伝来したカッパドキア出身といわれる聖ニノ、グルジア正教の影響、メスティアで泊まった宿のオーナーの名前など、旅行の経験が無数に結びついてこの映画へと向かっていく。


前景に丈の揃った草むらが輝き、後景にコーカサスの山々が天を開き、白いドレスの女性が歩いてくる姿は、「風の谷のナウシカ」で追憶する黄金の麦畑の風にそよぐ穂先と似た情緒を持っている。これからは一つ一つのショットが優れた映像美として個性を持ち、パラジャーノフ同様に物語を抜きにしても十分に味わえるだろうが、この作品はあれほど映画としての文法を逸脱しておらず、まるでポリフォニーかと思わせる重厚なセリフと、皺の刻まれた民族の顔が語る物語によって、もととなる詩の世界を微かながら、そして深遠として味わうことになる。あまりに映像と編集が鮮鋭な美しさをもっているから、重要な動機を持ったクラシック音楽は素晴らしくも、品位を落とす余計な存在に感じてしまった。もっと使用を控えて、民族的な音楽のほうが好ましく思えてしまった。


だからこそ、イスラムの民族が敵対する異教徒を墓場で殺害するシーンで、「ラー・イラーハ・イッラッラー・ムハンマド・ラスールッラー」という信仰告白であるシャハーダも混じえて歌われているのは、グルジアの文化の長い年月が表れていて鳥肌がたった。土台となっているのは紀元前からあるポリフォニーであって、そこにイスラム文化が根づいて歌われているのは、決して曲げない、変えないではなく、あるべきままを残した姿なのだ。


このキリストとイスラムのそれぞれの村が描かれていた舞台は、はらださんが言うにはヘヴスレティ地方らしく、ここでも昨年来日して広島にも来たジョージア国立民族合唱舞踏団「ルスタビ」の記憶が思い出された。この公演のなかで剣と盾をぶつかりあわせて文字通り火花を散らした「剣舞パリカオバ」があり、「血の復讐」に関わるこの踊りこそがこの地方だそうだ。


作品を構成するどれもが他の映画には見られない独自の表現にあり、これにも、昨日と一昨日の作品でも受けた民族としての誇りを感じることになった。それは、何千年も多民族の侵略と戦ってきた苦難の歴史としてあるグルジアの独自性として、その土台となる、まさに土地への執着が息づいている。奪いに来るものには徹底して戦う気概が、文字、音楽、気質に表れている。それは山岳地帯で、地図上では狭くみえるも、驚くほど異なる文化を持ったそれぞれの地域によって作られるグルジアという稀な国の中に共通する性質だろう。


高潔な人間のあるべき姿が描かれる。立派な相手は敵といえども辱めることなく讃え、客人であるならば、家に入れてしまったとしても主人としてもてなしをする。そうすれば、村の者から村八分にされ、敵と一緒に殺される。それらと、女性の首が括られるシーンは、特に映像が響いてくる。そう、グルジアの映画はコーカサスの山々によってロングショットが特別な効果を表している。


難解な映画もはらださんのアフタートークで説明をつけられた。グルジア人が誇りにする代表的な3つの要素に、3人の偉人、各年代の映画作品の特徴にソ連との関係、とある映画監督の身内とハイジャック事件の繋がり、素晴らしい映画作家とカメラマンの消失、そしてこの「祈り」のアブラゼ監督の身辺の話など、明確な年が記憶から浮かび上がり、実感を持って話されていて、グルジアに関してなんと素晴らしい図書館が頭の中にあるのだと、好奇心を満たし、促す内容に、こちらまで能力が引き上げられたように思い違いするほどだった。


トーク終了後に、閉館するわずかな時間にテーブルに置かれたはらださんの絵本を手に取り、「フランチェスコ」をぱらぱら読んでいると、静謐な絵に、もっと余裕をもってこれらの絵本を見たいなと思っていると、近くにいたはらださんとすこし会話をすることができた。


その一つに興味深いのがあり、ヘヴスレティ地方のビールの話で、ワインだけかと思ったらビールもあると驚いた。ムスリムなのにお酒を、と思ったら、どうやらアルコール分はなかったらしい。どんな味わいか詳しく聞きたかったが、時間はそんなになかった。


ちなみに、家に帰って今日の映画の原作である詩人の本を探すと、「祈り─ヴァジャ・プシャヴェラ作品集」を見つけ、はらだたけひでさんのイラストに、 児島康宏さんの翻訳だった。そして去年の「ルスタビ」公演の冊子を読み返していると、創立者のアンゾル・エルコマイシュヴィリさんへのインタビュー、「文化の大国・ジョージアをたずねて~おもてなしの心と民族の誇り~」のページもはらださんだった。

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