9月19日(木) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでハトゥナ・フンダゼ監督の「西暦 2015年」とメラブ・ココチャシュヴィリ監督の「大いなる緑の谷」を観る。

広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでハトゥナ・フンダゼ監督の「西暦 2015年」とメラブ・ココチャシュヴィリ監督の「大いなる緑の谷」を観る。


「西暦 2015年」

2015年 10分 カラー Blu-ray ジョージア語 日本語字幕


監督・脚本:ハトゥナ・フンダゼ

撮影:ラウラ・カンスィ


「大いなる緑の谷」

1967年 87分 白黒 Blu-ray ジョージア語 日本語字幕


監督:メラブ・ココチャシュヴィリ

脚本:メラブ・エリオジシュヴィリ

撮影:ギオルギ・ゲルサミア

音楽:ノダル・マミサシュヴィリ

出演:ダヴィド・アバシゼ、リア・カパナゼ、ムジア・マグラケリゼ、イリア・バカクリ、ズラブ・ツェラゼ


「西暦 2015年」は、2000本以上の作品を生み出したとラストシーンで説明されるように、図書館やワインセラーのように円盤に保管されたフィルムが陳列されていて、ジョージアフィルム撮影所の現在の姿が映し出されている。ショートフィルムらしい沈黙と多角的なアングルは、無駄を省くべき尺というよりも、短い枠だからこそ余裕あるカットを使っているようにも思える。日常の時間が切り取られたこの作品はまるでこの映画祭の母体として、多くを語らずに、その歴史を遺跡として示している。


「大いなる緑の谷」は、上映後に感想が浮かばず、その夜もぼんやりともせず、次の日になって内容が思い出されてきた。それでも何かしら記憶を残しておきたいと、頭のそこらに浮沈する情景を繋ぐか、もしくは取りまとめようとしても、どこから手をつけてよいのかわからなくなる。それは散らかった部屋を前にして、どのように片付ければいいのかと立ちすくむのに似ているが、意味合いは異なり、あまりに広い大地を前にして動けなくなるのだろう。


馬鈴薯そのものが擬人化したような、畑仕事ではない牛飼いのソサナは、あまりに深く根を張りすぎた大木だった。それは護岸工事によって切り落とされる樹木と同じで、地球規模の気候による変化ではなく、その地域を支配する存在からの影響による、いわば時代の変遷に居場所を失くされる運命にあった。


妻の心は常に移ろい、牛と共に移動するも一定した谷にいるソサナは動くようでいて動かない。それは古くからの土地であって、先祖が拓き、牛に父親を殺されようともその牛を許してきた自らの土地だ。


あまりに印象的な映像ばかりが心を奪い、とりとめがなくなる。新しい村の建設が妻を奪っていく。重機に乗る男性や、野営となるテントも。そこにソサナは丘の上から石を転がす。


雇われ人がその場所を去る時に、大地から血を吹くようにあぶくと色の濃い液体が湧いている。そこに土をかける。息子と川で戯れていると、上流から汚れたものが流れてくる。それが牛をいなくさせる。


感動よりも、喪失させる作品だった。洞窟内の燃える空気、牛、先祖、火と女。別れの長いショットが目玉を掴んで首を引き抜き、妻も牛も失ったあとのソサナの目に、愛すべき煩雑さが失われてしまった浄化が表れてしまう。


守るべき土地と大地は、古代から人々の存続にあり、今も国同士の争いとしてある。ただグルジアという国となると、その意味合いはさらに深まる。ロングショットの雪の大地の中で、ソサナと戻ってきた雇い人の歩く姿と会話、その後の谷のショット。


傑作とは他人に決められるのだろうか。自分にとってまるで思うようにならずに、もどかしく立ちはだかっている。いくつものシーンが時間の経過とともに蘇ってくるが、見惚れるばかりだ。実際に涙がでることはなく、心の中で削られていく美しさに、彫像として屹立するのみだ。


光や風ではない、ただただ大地に沈んでいく、自分にとって愛さずにはいられない作品だった。

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