9月21日(土) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでミヘイル・カラトジシュヴィリ監督の「スヴァネティの塩」を観る。
広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでミヘイル・カラトジシュヴィリ監督の「スヴァネティの塩」を観る。
1930年 49分 白黒 無声 Blu-ray 日本語字幕
監督:ミヘイル・カラトジシュヴィリ
脚本:セルゲイ・トレティアコフ
撮影:シャルヴァ・ゲゲラシュヴィリ、ミヘイル・カラトジシュヴィリ
「スヴァネティの塩」は、徹底したソ連のプロパガンダ映画だろう。音がないのにうるさいくらいのこの無声映画は、ショスタコーヴィチの楽曲でも合わせればさらなる威力を持ち、一生涯を通じて記憶につるはしを打ちつけてくるだろう。
とはいえ汗の輝く裸の背中と、集団による働き蟻のような工事は、日に焼けた炭鉱夫のように目のぎらついた精悍な顔のズームによる叱咤激励は、ラストシーンに向かう長くない時間にあり、多くはスヴァネティ地方の、グルジアで最も山と塔の写真が有名であろうウシュグリ村の生活を映している。
題名からすると岩塩でも取れるのかと思っていたら、山だからこそ塩がない。それを解決へと導くソ連の公共事業による、すべての道はモスクワに続く政策が結果としてピリオドを打つのだが、それまでの長々としたウシュグリの生活そのものを誇張した映像が類稀な生命力を持っている。
ドキュメンタリータッチの作品だが、昔の映画らしい速度による動きに、無声だからこそ繰り返し挟まれる文字によるセリフが内容を忠実に伝えていて、ただでさえ濃い映像の密度が常に叫びをあげ続けている。細かいカットによるテンポの早いモンタージュがしつこいまでの塩への渇望を訴え、まさしくロシアらしい尺を持っていて、いつまでも会話が続きまだ終わらないのかと日本人のスケールで測ればくたくたになるドストエフスキーの執拗さに、チャイコフスキーの楽曲が持つ上下に逆巻く暴風がテンポを上げて馬の疾走や人々の動きに移し代えられていて、悲劇のシーンによる哀悼を感じさせる雰囲気は、ショスタコーヴィチの茫々とした暗い響きを備えている。
繰り返し言いたくなるほど、この映画は記憶につるはしを打ちつけてくる。特にグルジアの文化を好む人にとっては、ウシュグリの生活からスヴァネティ地方が説明されていて、稀有な民俗をこれでもかと色濃く味わえる。砦の代わりとなる塔、その塔を作るための過酷な石切のシーン、大麦の刈り入れ後に板の脱穀器に乗る編みものをする女性、それを引く子供、7月の突然の降雪、それに慌てる村人、手を擦る子供、人手が足りないと嘆く。塩がないと様々なカットに挟まれて説明し、汗も、尿も、産後の赤児をまとう血も、塩を持つと、家畜がべろべろなめる。山の下から塩を運んでくる者達は、見たこともない苦難の映像のあとに、雪に道を塞がれて死亡する。葬式は祭として行われ、妊婦は不浄として隔離され、その間に一人で生んだ赤児は、塩が理由に犬に何かされたのだろう。葬式と出産、それに牛と馬への風習、水を欲しがる妊婦に水をがぶ飲みする村人達、これらが対照に組み合わされた息を呑む編集は、まさしくソ連の質量だろう。その後の、大地に母乳を与えるシーンは、一体どの国の人間が発想できるだろうか。まさしく大地を尊ぶソ連だろう。
一つたりとも無駄がなく、薄いカットは存在しない。モノクロ映像でも圧倒的な自然のウシュグリの風景は変わらない。そしてボリシェヴィキの光る労働風景も同様だ。これは間違いなく最良の映画だろう。
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