8月11日(日) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでクリス・マルケル監督の「北京の日曜日」と「不思議なクミコ」を観る。

広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでクリス・マルケル監督の「北京の日曜日」と「不思議なクミコ」を観る。


「北京の日曜日」

1956年 フランス 20分 カラー Bru-ray 日本語字幕


監督・撮影:クリス・マルケル

ナレーション:ジル・ケアン


「不思議なクミコ」

1965年 フランス 54分 カラー 35mm 日本語字幕


監督・撮影・編集・ナレーション:クリス・マルケル

音楽:武満徹

出演:村岡久美子


今日から21日まで広島市映像文化ライブラリーでは「クリス・マルケル特集2019 永遠の記憶」が行われる。初日の2本立てのドキュメンタリー映画を観てきた。


「北京の日曜日」は、タイトルロールのリズムと中国語のフォント、それにイラストに、中国を知らない西洋人らしい先入観の期待の色が表れていて、冒頭のショットから色彩の世界に一気に惹き込まれる。デジタルでない、古いフィルムの柔らかく情感のこんもりする画面に、絵本をめくって話されるようなナレーションに、この映画は一種のおとぎ話だと世界が開ける。チェコやロシアのアニメーションを観るような優しいナレーションは、少し文学的な言葉と皮肉が交じるも、全編に懐古的な安らかさを持った詩情で語られる。中華的な音階とメロディーを持つも、オーボエやクラリネットの西洋楽器は途切れなく映像を彩り、共産主義真っ只中の中国の生活音を入れず、日曜日としての人々と文化を、イジー・トルンカの「真夏の夜の夢」のように現実から断絶するように、音と色で封じ込めている。日曜日には、平日の事など考える必要などないと納得させるように。だから党の大会らしい軍人や芸人のパレードも、音楽が異なったニュアンスに変えている。バッハらしい音楽にチェンバロが鳴り、女の子達の生活の中の踊りも、協奏曲で囲われてしまう。世界の日曜日で締められる北京の映像は、長くない一巻きの絵物語として優れて完成されている。


「不思議なクミコ」は、観終わり、久しぶりに画面の揺れに吐き気を覚えるほどの状態でぼやけ、高らかないびきで眠っていた爺さんの気持ちがわかるも、その呑気な寝息も内容と一緒になって自分を揺らすようだった。冒頭の古いテレビの中の台詞が、この作品に結論をつけていると、同意する気持ちだった。


灰色と黒のアメーバで形作られているような極めて見にくい字幕に、頻繁に動いて、まるで現代美術館にぽつんとおいてある映像作品のような音楽とカットの構成が、ひどく神経を逆撫でる。夏のことをうたう青空一辺倒の東京オリンピックではなく、辞退した選手に関する音声が挿入されて、国の威信をかけた大きなイベントだからこそ魑魅魍魎が潜むであろう出来事の一面を、髪の毛を一本抜くように見せている。


全編を通して曖昧模糊とした印象があり、それは日本という西洋人からしたら規律と野蛮が混合する理解し難いものらしいが、それ以外の、勤勉、寛容、親切、模倣癖、冷徹などの要素もあり、あまりに複雑でつかみきれない。それを、他の日本人と異なっているらしいが、日本人であるクミコの素顔を通して、コラージュするように音声と映像を組み合わせながら伝えている。


はっきりとわかることは、多くの日本人が自立した考え方をもっていないことだ。それは各国の統計の発表の音声に、クリス・マルケルさんのクミコさんへの質問と、その答えに表れている。上手な発音と、悪くない節を持ったフランス語で丁寧に答えるクミコさんは、直接の質問に対してはぼんやりと、とってつけたような骨のない内容であり、あとあとに質問をテープで答える箇所は、文学的な比喩と表現でもって、思慮と教養を持っているように思えるが、どうもこれも、借り物らしく聴こえてしまう。自分自身が借りた物で構築されているので、表現の選び方をそう感じてしまう。暴力や優しさに関する考え方を述べるも、それは日本的な教養から培ったものではなく、トリュフォーが好きで、達者なフランス語の能力が証明するように、あくまで西洋から仕入れた思想と表現のようで、波なんて言葉が出れば、ヌーベルバーグの映画に感化されて出来上がっているのではないかと思われる。


能の謡に、秋葉原のサトームセンがテレビCMで頻繁に流された頃を思い出させるビルの壁面の光の明滅や電飾が映像と組み合わさり、その当時の日本の経済と文化を象徴する。マネキンはどれも西洋人の顔で、広告にはどれも、二重の目に、高い鼻が書かれていると、クリス・マルケルさんは指摘する。


平安時代の顔のようだと自分の容姿を分析するクミコさんは、綺麗なロングヘアーで、ノースリーブからの細い二の腕を動かし、浅草寺の常香炉で髪の毛などに繰り返し煙をあてるカットがあり、そこに冷然と太鼓を叩く二重の女の子の顔が挟まれる。パーマのかかったショートヘアーの多い女性の中で、クミコさんは異なった容姿で存在している。


この作品で実感する日本人は、今もまるで変わっていない気がする。それは縄文時代あたりからそのままでは、と思ってしまう。大陸の文化をうまく取り入れていながら、自国の文化も形成していく。文字、器、絵、ただそれだけでも、カレーやカツ丼と同じ日本人が持つ、あまりに柔軟でありながら、頑固な国民性が見える。単にそれだけのような気がする。


昨日行った理髪店で、美容師さんが、今の美容院は店名に英語ばかり使うと言い、日本語の店名をつけると、床屋っぽくなると言っていた。西洋人の顔したマネキンばかり飾るのと同じだろう。ならば、そんな傾向に反対して日本語の店名をつけるこの理髪店は、一重で鼻の低いマネキンを飾るようなものだろうか。


ふと思い出すのが、今の職場に入社した頃、お客さんで“mother nature”という名のお店があり、FAXを見て、自分がこの名を「マザーネイチャーさん」と事務の女性に尋ねると、事務全体で大笑いされて、「マザーナチュレさんよ」と正式名称を教えてもらった。頭の中で、「広島を、グァンしま、と呼ぶようなものじゃないか」と理屈をつけてしまった。


不可解は、不可解だ。それをそのまま、技巧的に、この作品は見せてくれる。

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