4月3日(水) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで吉村公三郎監督の「暖流」を観る。
広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで吉村公三郎監督の「暖流」を観る。
1939年(昭和14年) 松竹(大船) 124分 白黒 35mm
監督:吉村公三郎
出演:佐分利信、水戸光子、高峰三枝子、徳大寺伸
80年前の映画となると、もはや気が遠くなる。映像文化ライブラリーに通う前だったら、話はまず合わない、いかにもつまらなそうな、興味の持てない親戚の爺さんのような距離だ。
ところがこの爺さんから一度面白い話を聞かされ、この得体の知れない老人にも、昔は自分と同じように若い頃があり、似たような悩みと、ありがちな若気の至りによる失敗などがあると知ると、途端に親しみがわき、理解できるのだと気づき、興味を持てるようになる。
その興味があれば、もはや古い人物や映画はつまらない存在ではなく、豊富な物語を持った歴史的な、実際に生きている情報の堆積物となり、若さからの刺激とは違った、理智と含蓄に満ちた知恵を授けてくれる。
今日の映画も、聞こえにくい粒のぼやけた音声に、見づらい傷だらけの画面と、まるで老人そのものの意識から直接伝えられる映像と音源のようだが、それに慣れてしまえば、いかな物語が存在しているか知れる。
そこに存在するのは、人情、心情、情動の機微で、西洋の個人的で直接なぶつかり合いではなく、顔で笑って心で泣く、そんな体裁を繕うことの美意識が突き詰められた日本の女性の、優れてしとやかで、いたいけな姿があった。
昔にだって、井戸端で旦那や近所の悪口をささやきあい、今だって、カフェで、職場で、同僚や知り合いの粗をけなしあったりしているだろう。そんなありがちで、笑えはするが、きれいではない振る舞いなどのないことの美しさを、水戸光子さんと高峰三枝子さんが演じている。
膝をついて座る、手をつく、頭を下げる。どんな言葉、動き、一つだって洗練されていないものがない。あくまで映画の中の演技かもしれないが、作り物ではなく、これほど自然に演じられるのは、上手さと、当時の生活文化の水準の高さにあるのだろう。
奇を衒ったショットなどほとんどなく、会話の場面も固定されたショットがまだ続くのかと思う時もあり、平凡に思える構成だが、物語の展開は実に素晴らしい配分で、男と女のやりとりの場面は必然と意識は吸い込まれて、表情の動きに集中される。
後半は、順々に繋げられた話が盛り上がり、丁寧に意味が膨らみ、白と黒のコーヒーカップを使ったわかりやすい暗喩の演出などがあるも、とても好ましく同情を誘い込み、ショットとカットはより磨きあげられて、終盤へと向かう。
台詞、動作、どれも、良い時代の良い物が抽出されている。俳優さんの味わい深さは、やはり昔は凄い。美しいというのは、非常に難しいものだと知れる。
なんだか夏目漱石の小説を思い出した。人情溢れるじゃなく、人情に震える良い作品に会うと、すぐに夏目漱石へつなげてしまう。
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