3月17日(日) 広島市中区基町にあるひろしま美術館で「シャルル=フランソワ・ドービニー展」を観る。
広島市中区基町にあるひろしま美術館で「シャルル=フランソワ・ドービニー展」を観る。
1章:バルビゾン派の画家たちの間で(1830ー1850)
2章:名声の確立・水辺の画家(1850ー1860)
3章:印象派の先駆者(1860ー1878)
4章:版画の仕事
昨年ひろしま美術館で観たヴラマンク同様に、この画家も自分にとっては巨大な西洋の大美術館では見過ごされる部類に入る。仮にフランス絵画の特別展が日本の美術館であったとしても、多くの画家による少なくない作品が展示されるなら、やはり注意力を持たずに見逃されるだろう。
それは似たような作品が他の画家にもあって混同してしまい、例えば、印象派の画家で、モネはわかるが、シスレーとピサロの違いを気づこうとしないように、ミレーはわかるが、コローとドービニーの違いがわからずにいた。
その程度の関心しかないから、この特別展は1月から開催されているのに、来週に会期の終わりが迫ってやっと足を運ぶ次第で、ヴラマンク展に行くのと似た気構えだ。
だからこそ、ヴラマンク展を観た後と同じ感慨を持つことになる。わざわざ日本で特別展が開催される絵画史に名を残す画家の作品群だ。見どころは散々にあり、じっくりと観てへとへとになるほどに。
まずバルビゾン派と呼ばれる範疇による風景画の生まれた時代背景を知ることで、それほど関心を持てずにいた画題の土台を立ててもらえる。産業革命による資本主義の台頭、それに伴うブルジョアジーと呼ばれる資本家の出現、それら貴族とは違った庶民的な価値観に適合する芸術作品への必要、難解なアカデミックな作品よりも親しみやすいものが欲され、鉄道などの交通手段の発達もあり、都会人は田舎を求めることにもなる。展覧会の冒頭にそんな説明が記されていたので、作品への理解はスムーズに通される。
あとは自分の気になった作品を観ていくだけだ。
「リヨン近郊ウランの川岸の眺め」は、湾曲した狭い幅の川の白っぽい砂利の岸辺に人々が集まり洗濯をしている。岸辺は緑へと地続きしていて、木立に張ったロープに白い洗濯物が並べて干されていて、安穏な憩いが暗すぎず、やや明るい落ち着いた色調によってもたらされている。
「池と大きな木のある風景」は、画面の左右にヒマラヤスギのような銀がかった緑の葉を放散させる大きくない木立があり、細かい描線によりそれが画布の中で目立って膨らんでいる。
「ボッタン号」は、この絵を飾る縁の狭いチョコレート色の葉模様の額が、他の作品をはめる金地の分厚く装飾の太い額に比べて目立って異なり、三角の黄土の帆が立ち、小屋を持つ小舟は静かな川に係留され、画家が舟上で一人絵を描いている姿があって、右手前には小舟を漕ぐ別の人物もあるが、静謐な時間に満たされていて、まるで中国の昔の詩人が一人佇んで詩を詠じているような、自然に巻かれた仙人風の情趣さえあり、いかに画家がこの舟と共に過ごした生活を大切に、個人的にしていたかを、飄々とした自然の隠遁者の形で、額の効果に合わせて東洋風になされている。
版画集「舟の旅」15枚の銅の原版は、あまり観ることのないエッチングの原版がいくつもあり、その材質の光沢によってわずかに視点をずらしていくだけで照明からのスポットが水面のように敏感に反射して、細かく、柔らかく、かつ極めて豊かに刻まれた線が浮かび上がり、銅板の1つ1つが諧謔と親和に詰まった物語を有し、フランスの作曲家の水を映すような小曲集でもあるかのような一連となっている。それはブリューゲルのようにやけに怪物じみた魚や、三等身くらいの子供の姿を借りており、「ペレアスとメリザンド」のような象徴的な作品が生み出される前の、警句に富んだ地方の人々の生活感を持った作品群なのだが、扉絵だけは、フランス特有だけと断定してしまいがちな、この上なく素晴らしい植物の立ち姿で描かれた、涙がでそうなほどに美しい詩情と素朴に満ちた記憶の名残となっている。
途中、ナルシス・ディアズ・ド・ラ・ベーニャ、テオドール・ルソー、ギュスターヴ・クールベ、オノレ・ドーミエ、ジュール・デュプレ、ヴィクトール・デュプレ、カミーユ・コロー、フランソワ=オーギュスト・ラヴィエールの作品があり、同時代の画家の細かい違いを教えてもらえる。基調となる色、細密か、簡素か、荒々しいか、原初的か、そんな言葉で同じ範疇の仲間達を区別させてもらえる。
作品が後期になると、筆触は変わり、印象派への影響と、印象派からの影響が表れてくる。
「森の中の小川」は、まるで点描画のような線で色が置かれていて、水の反映もわからないほどに車の窓の水滴が色々に彩色されたような粒の氾濫となって森は描かれている。
「ヴァルモンドワの森の中」は、一目観て、この縦長は目玉作品の1つだとわかるほど、調和に富んでいる。森の中だが、若葉のような明度のあるいくつもの緑によって暗くならず、モネが好みそうなスカートの膨らんだ女性達が、一人は、画面を支える曲がった長い木立の根本に座り、その前には竿を持った女性が何かを釣り上げ、背後には枝のようなものを肩にかけているらしい女性がいる。アカデミックなら、「パリスの審判」にでも使われそうなふくよかな裸の女神になりそうだが、当時の衣類を着込んだ、余暇で森に遊びに出かけてきたか、それとも近くで生活する女性たちか、そこには惑わすような森の魔力は現出されず、豊かな自然の情感が健康的に描かれている。暗くなりそうな森の小川も、滋養に満ちた底の土を綺麗な水で透かすようで、たんぽぽの花を数枚散りばめたように黄色が置かれていて、春に蕾から早く咲いた梅や木蓮の花を遠くから見つけるように、空気の中ではなやかな色を存在させて画面に彩りをつけている。
リール美術館所蔵「オワーズ河畔、夜明け」とルーアン美術館所蔵「オワーズ川、朝の効果」は、ほぼ同じ構図の時間の推移を描き分けたような兄弟作品のようで、川辺で夜明けに祈りをするような牛達に人、そのあとに明るみが増して川辺の違ったところで牛達がその営みを続けるのと座る人、それぞれが澄んだ空気感と落ち着いた画風からはっきりと表れている。
「山間風景、コートレ」は、他の作品と異なり、大きな石が前面から画面を埋め、冷たそうな急流の水が厚塗りで飛沫をあげるように青っぽい白で描かれている。
「ケリティ村の入り口」は、淡さはなく、どの対象も物質を多く含んで描かれ、家は生えたように、石は体積を誇示するように、輪郭は明確に太く、低くたなびく雲は質量を吐き出すべく彷徨うように流れている。
などと、関心のなかった画家の時代変遷をいくつもの絵を観て知り、たったの数時間で、コローとの違いさえわからなかったものが、なんとなくわかるようになったから、こういう特別展は価値があると、ヴラマンク展の反省をするように思い知った。
ただ、観終わって、外に出て、ドービニーも好みそうな春を迎える青い空に白い積雲が浮かび、敷地内に植物も喜んで受け取る外光が白い建物に輝いている中を歩きながら、頭の中に、小さい銅板の扉絵が最も良かったと思い返してしまう。
それは、自分の気質と嗜好の証明書のように見えて、突き詰めることなくも、すべては好みでしかないと、静かに、いつまでも待っているようだった。
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