9月24(月) 広島市東区東蟹屋町にある東区民文化センターで演劇企画室ベクトル第22回公演「黒い十人の女」を観た。

東区民文化センターで、演劇企画室ベクトル第22回公演「黒い十人の女」を観た。


オリジナル脚本:和田夏十

上演台本:ケラリーノ・サンドロヴィッチ

演出:鏑木悟道


最前列の席で、方形の舞台のほぼ角に近い位置で鑑賞する。役者さんがじかに見えてしまい、視線が合う時は、役の裏の本性が見えるような気がした。もう少し後方の、高い位置で観ることができたらと思う場面が何度かあったものの、観てみたい位置でその舞台を全部観ることはできないから、無理な要求を自分の中にしていると思った。


黒い十人の女性を観ていると、一対一で会っている時は気を使ってくれて、なんだか優しく感じの良い人が、数人の固まった集団では突然性質が変わり、他人をだしに笑いをとったりして、調子に乗って攻撃してくる人が頭に浮かんだ。


登場する多くの女性がこういう性質を持っている気がした。当然誰にでもこういう性質はあり、こういう性質をうまく使いこなす人ほど社交上手で、口も態度も滑らかに合わすことができる。そう、合わせ上手な人なのだ。


登場する女性達は、浮名を流す優しい男性に惹かれたにしても、その男性と他の女性との関係を噂で知っていて、自分もその関係の一人になれることで流行にのるような気分で満足し、いざその男性を独り占めにできる機会があっても、その男性のブランドに盲目していただけで、周囲からの評価が下がってしまえば、とても独り占めしたいような者ではなくなるのだろうか。


黒い十人の女のほとんどは、大衆性の権化のような気がした。流行に移り、周りを基準に揺れて、観点は自己から生まれず他人からの借り物で作られている。それが和を崩さず、周りと同調しようとする日本人の持つ国民性の表れだろうかと、飛躍させたくなってしまう。


この舞台の帰り道、的場町へ向かって陸橋を渡っていると、向かいから歩いてくる赤いユニフォームを着た人々と無数にすれ違い、線路沿いを見下ろすと、物凄い赤いうねりに怖気を震った。


広島に越してきて二年は経過した。ちょうど越してきた年にカープが優勝したから、それまでのカープファンを自分はあまり知らない。それでも話を聞くことがあり、話にのぼるのは、前はチケットを簡単に買えたと。


この日の舞台で女の人達と交わり、女の人達に打ち捨てられた風松吉のように、カープもいつか飽きられて、チケットを並ばずに購入できる時が来るだろうか。必ず来るだろう。しかしそんな時に、黒い十人の女のほとんどはチケットを購入するだろうか。面白くなければ購入しないだろうか。


弱ければつまらない。男も意気揚々と仕事をこなしている時は強く、魅力を持っているのだろうが、そうでなければ一体なにが良いのだろう。


浮かれた不倫では愛情などないのかもしれない。弱った時に手を差し伸べるのが愛情であって、黒い十人の女のなかで手を差し伸べようとした女性は、愛情ゆえに存命しておらず、実際に手を伸ばしたのは、風松吉とは違った性質で多くの男性と関係を持つ女性で、死んだ者が見えて、その腕には包帯が巻かれているというおぞましい締めだ。


広くない舞台に、多くの登場人物、少ない小道具、細分化されたチャプター、刻まれた話が結ばれて、気味悪く舞台は閉じる。その分、舞台後の挨拶で役者さんたちの見せる充実に満ちた素顔が、神経を落ち着かせる。


黒い女が十人でも、百人でも、千人でもあまり変わらないだろう。一人はなかなか見つけられないらしい。何に基準を置き、他を観るのか。高架から見れば、赤い人々は全部同じに見えてしまう。自分だけの視点を持つのは、本当に難しい。

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