9月19日(水) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでアントナン・ペレジャトコ監督の「7月14日の娘」を観た。
広島市映像文化ライブラリーで、アントナン・ペレジャトコ監督の「7月14日の娘」を観た。
二日目に観た「ジャングルの掟」と同じ監督で、声が印象的だったヴィマラ・ポンスに、存在感あるヴァンサン・マケーニュも同様に出演していた。
この映画も物語の筋を注意深く追わずに、場面場面の機知のあるくだらなさを楽しんで笑うだけだ。
経済危機により、バカンスの一ヶ月短縮されることが政府によって決定する話があり、そのことで示される人々の反応は、革命とストライキがどうしてもイメージから離れないフランス人という固定観念を、自虐的に表していて、国民性に対しての誇りと諦めが同居しているのがわかる。
バルカン半島の国の映画を数本観た時に、過激な演出やユーモアがあっても、土台には民族がたどってきたスラブ人らしい気質というか、情熱的ではあるが冷たい哀愁をどうしても感じてしまう。底抜けの明るさは見つけることができず、諦観主義へと細い糸をたどって結びつけてしまう。
ところがフランスの映画から受けるのは、どこか楽観的な調子が離れない。悲観して、嘆きがあるも、自由という誰もが憧れる気質が根っこからこびりついていて、それが発想の豊かさや、古代ギリシャにまで遡る個人という器の大きさと多様さを持たすのだろう。スペインやイタリアとは違う、とにかく冷たい目線を持ちながらも、好奇心がほとばしってしまい、こだわりが強くも、あっさりこだわりを忘れる恬淡な探究心を持ち備えている。
人生を生きるのに、他人への遠慮よりも、まず自分の欲が行動に出てしまう。迷惑をかけるとかではなく、自我が自制することを忘れさせて、熱っぽく、即興による選択と、無駄口がとまらない。
映画を笑いながら観ていると、日常はなんと生彩に欠けているのだと頭の片隅の小さく丸い映像に捉え、少しでも映画の中の生命力を持ち帰れるだろうと頬を緩ませて実感を得るも、映画が終了して30分もすると、気ままに笑った反動か、集中した神経の炎症反応か、なんて鬱屈した気分でいるのかと、口を半開きに呆然とする。
地中海に近い土地の夏の明るさ、瑞々しく清々しい緑の繁茂、若い男女の窓のすべて開いた加速する車内、露わな肌、今の日本人の自分には見いだせない、昔憧れたに違いないその光景に、今も静かに心はざわつく。それは知らない世界を想像して鼓動を強めるのではなく、もう取り戻せない時代の名残を今もつかめるような気がするも、頭ではもう味わえないと断定しているからだろう。これが老いた頭の働きだ。
いつだって元気でいたい。心身ともに明るさにみなぎり、どぎつい冗談を言い、派手に笑い、思い切り怒って、すぐに忘れたい。
そんな理想をこの映画を観ている最中に抱くことができる。
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