9月20日(木) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでウジェーヌ・グリーン監督の「ジョゼフの息子」を観た。

広島市映像文化ライブラリーで、ウジェーヌ・グリーン監督の「ジョゼフの息子」を観た。


18時上映開始、18時職場退勤、雨、徒歩、長靴、15分遅刻。


この15分間を知らないことが上映後も響き、逆算する羽目になる。それを楽しめる人は良いが、新学期が始まり、何も書かれていないノートに授業の内容を丁寧に書き、その教科の一年間の授業すべてを完全に記そうと試みるも、ある時、風邪を引いて学校を休み、授業を受けられずにその時間の分だけノートに抜けが生じると、友達にノートを見せてもらって写す気にもなれず、ノートへの書き込みは何一つしなくなる頃があった。一つでも逃すと、まったくやる気がでない。


ずいぶんと柔軟になったつもりでも、そんな気質がいまだ残っているので、映画の冒頭を少しでも見逃すと、映画そのものを観る気になれないが(当然、誰かからあらすじを言われるのも同様で、旅行をするにも、なるべくガイドブックを見て先入観を持たないようにしたい)、そんな完璧を求めて生きることよりも、少しでも映画を観れることに焦点をあてて、遅刻することがわかっていても、自身の性質に反抗して、食らいつくように抜けを受け入れるつもりだったが、やっぱり映画の理解に冒頭は欠かせないと痛感する。


ここ数日間観てきたフランス映画とはまるで毛色が違う。速射砲のように言葉が連打されることはなく、激しい場面はあったが、それも抑制が利いていた。登場人物の会話は不気味なほど秩序を持ち、生真面目な人同士が丁寧にキャッチボールをするように、順序よく、ゆっくりと、受け手が取れるような配慮で会話がなされる。同時にカメラも真正面から人物を映す。目を逸らしたくなるほどまっすぐに、それがこの映画の道徳観を表している。


この映画は宗教色が強い。教理問答ではないが、哲学に通じる考え方と物の見方が散らばっている。各チャプターの題も聖書からとられていて、それが寓意的に映画の内容を反映する。このやりかたは、ジェームズ・ジョイスの小説「ユリシーズ」のように神話を現代に反映させる手法を思い起こさせる。カラヴァッジオのアブラハムが息子のイサクを殺して神に捧げようとする場面の絵画が映され、父が子を殺そうとするのではなく、子が父を殺そうとするが、あの絵のように天使が止めに現れただろうか。


眠気が募り、欠伸に侵されるリズムが映画を流れ、まるで初めて聴くブルックナーの交響曲のように退屈にも感じるが、意味深いセリフもあり、登場人物の心の動きは善良であり、それはまるで神に向かうよう作られた至善の機械に操作された人形のように空々しくも受けるが、悪いことではない。


キリストと血のつながらない父親ヨセフが、警察からの質問によって完成する。それはアブラハムの行為を逆さまにしたことによって生じた事件の解決で、このエンディングへのまとめ方は、善で、理想郷で、雲の雄大なノルマンディーの潮の引いた晴れた海岸を背景に、未来のあるエジプトへの逃亡となったのだ。


「カラマーゾフの兄弟」で、アリョーシャを好まず、イワンを好む人には、この映画は合わないだろう。自分はアリョーシャが好ましいから、この映画も好ましく感じられた。

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