8月4日(土) 広島市中区八丁堀にあるサロンシネマでアンドレイ・ズビャギンツェフ監督「ラブレス」を観た。

アンドレイ・ズビャギンツェフ監督「ラブレス」を観た。


観賞後、映画の内容を詳しく知りたくなったので色色とレビューを読み、自分だけの考えを持てなくなる。


気になったのが、この映画に出てくる夫婦に怒りを覚えるやら、他人に対しての関心のなさに不気味な感じがするなどのコメントを観て、不思議に思った。


この映画に出てくる夫婦のやりとりは、結婚している人なら理解できてしまうはずだ。愛を一時的に見失えば、他人に対して責任のなすりつけ合いになり、感情的な喧嘩になれば、一つの言葉に対して素晴らしく狡猾に、相手の望むことなど徹底無視して、いかに自分の暴力的な欲望と相手を苛立たせる行為を、直感によって選ぶだろう。より事態を悪くさせることを好んで二人進めるのがまさに夫婦喧嘩だ。この途轍もなく精神と体力を疲弊させて、日常生活に陰を残し、何も良いところが見当たらない行為こそ、活きの良い夫婦につきまとう業なのだ。これを飲み込むのが愛であって、救いとなる嵐のあとの静けさもある。静けさではなく、無関心であれば、修復はできない。離婚することになるだろう。この映画の夫婦は反省と改善を見出すことはない、そこに愛がないからだ。


この映画の夫婦に怒りは覚えない。ここにもいたかと思うだけだ。前に住んでいたアパートの近くに、大声で喧嘩する夫婦がいた。一緒だ。違うのは、彼らは三年半の生活のなかで、何度も警察を呼ばれるほどの大声をあげていたわりに、依存かもしれないが、継続して生活していたから、もしかしたら愛があったのかもしれない。


最近、結婚は人生の墓場だという言葉を聞いたが、墓場にしてはあまりにも賑やかだ。人生の終着地のような意味合いがあるのかもしれないが、自分の中ではまったく墓場ではなく、海でしかない。それも地球上のあらゆる海だ。北極海のような冷たい嵐もあれば、南国の穏やかな暖かい海もあり、天気の良い日に巨大な波が綺麗に割れることもある。ちょっとした気象の変化に左右されて、海水温も変わり、濁り、澄むも、海であることは変わらない。そんな海を楽しめなければ、とても結婚生活の嵐など耐えられるわけではない。心を殺して、墓場のように静かにすれば良いのだろうか。そんな受動的な行為は好まない。全面にぶつかり続けないと、とても一緒になんていられやしない。


あらゆる無関心がこの映画に貫かれている。冒頭の雪の積もる森のシーンから冷ややかさは最後まで温度を変えない。手助けさえ冷たい。それは冷然とした分解作用の具象のようでもある。


観賞後の、暗くなるやら、後味が悪いやら、鬱になるやら、そんなようなレビューを信じない。映画に登場する人人は、平然とまわりにいる。あまりにも慣れきっているから、わざわざ映画で純度を高めて描かれても、不自然を感じず、むしろ自然で、ありきたりで、怒りや暗さは何も感じない。それは人間の持つ冷酷な一面であり、人間のあるべき理想をわざわざ映画に投影して義憤を感じることなどはしない。とっくにあきらめているからだ。倒した自転車を放ったらかしにする人間が普通で、直す人のほうが珍しく感じるご時世だ。広島市内の自転車専用レーンなどまったく無意味に思えることもある。無関心ではなく、あまりにも目が見えない。顕微鏡で自身を見ているから、他人が見えない。当然ながら、自分もその一人だ。


利己的であるのがほぼすべての人間だ。少しだけ無理をして、他人を考える能力を発揮して、時折何かできればいい。しかし、そんな慰めも通用しないと思わせるほど、この映画の表現する人間性の一面は説得力がある。自分の身近に関連しない情報はすべて無表情のまま過ぎていく。

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