3月 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで「シャンソン・バラエティ」を聴く。

 いつかの土曜日に映像文化ライブラリーでレコードコンサート「シャンソン・バラエティ」があったので行ってきた。


 シャンソンという言葉を聞くと、まずエディット・ピアフを頭に浮かべるが、実際にこの人の歌っている曲は一度か二度しか聴いたことがない。古い、先入観によるシャンソンを期待してみると、選曲・解説・対訳をなさっていただいた戸坂律子さんは「シャンソンといえばエディット・ピアフのようなイメージをお持ちの方が多いと思いますが、──シャンソン──、フランス語で歌うことはすべてシャンソンという単語でくくることになるので、今日は幅広い意味でのシャンソンを聴いていただこうと思います」と始めて、現代のフランスポピュラー音楽十六曲を、スクリーンに映した対訳で意味を汲みながら、良好なサウンドで鑑賞していった。


 はじめは、頭痛のする今の状態で椅子に座り、対訳を見ながら音楽を聴くだけで、はたして二時間を我慢できるだろうかと思ったが、歌詞と曲調がどれも興味深く、当然選曲にもテーマがあり、ポピュラー音楽特有の扇情的でわかりやすい音楽表現に心から楽しむことができた。酒場で一夜だけ目にした女性を歌った良い意味で古臭い曲や、自分の恋心を認められなかったが、素直に受け入れようとする女性の心の曲、アラブからの移民によるアラブの曲調を取り入れた曲、パリの自転車少年達を軽業師に見立てるのもあれば、自転車に対しても交通ルールの厳格なパリにおいて、昨晩のレストランの食事風景を思い返し、積極的でない男性へのもどかしさと繊細な距離間に悶々としながら一方通行を逆走する女性を描いた曲など、前半八曲のプログラムだけでも多彩に富んでいた。


 後半の選曲は、アメリカの感謝祭を皮肉ったスペイン人の曲や、インドの陋習とでもいうスマンガリ(婚礼前の女性が持参金を得る為に三年間劣悪な環境の繊維工場に働く)の曲、パリのカフェにいる父子の日常、言葉少ない父を思う娘、友人である亡くなった踊り子を哀悼する曲等等、歌われる主題は多岐にわたる。


 現在のフランスはヨーロッパの多くの国々がそうであるようにマルチエスニックで成り、ベトナム人、中国人、アフリカンの黒人、アラブ人など様々な人種が共生しており、現代のフランスポピュラー音楽は、そんな出自の異なる人人の影響を受けて多様な面があると、今回の選曲の一端から受け取ることができた。ふと最近の日本のポピュラー音楽はどうだろうと考えた。ほとんど知らないが、有名な曲だけ少し知っている人気グループなどはどうだろうか。日本らしいといえば日本らしいので、悪くはないだろう。ただ昔の歌謡曲の方が音楽性は高かったのではないだろうか。クラシック音楽の影響はもちろん、ロシア風、タンゴ、フラメンコ、ジプシー音楽の影響を受けた曲も聴いたことがある。迎合的ともいえるが、昔の方が進歩的に世界の音楽を取り入れていたのだと思う。それが良いか悪いかは別として、グローバリゼーションという言葉に古色がでてきた今になって、やけに今の日本が閉鎖的に感じるのはなぜだろうか。情報は簡単に手に入るのだから、実学を求めて移動し、アラブ要素を取り入れたポピュラー音楽でも出てこないものだろうか……、なんて考えてしまう。


 十六曲のなかで、特に気になるのが二つあった。一つ目はミッシェル・ベルナールの「マリア・スザンナ」で、この曲は、ある日転入生としてやってきたロマ(ジプシー)の女の子が、その風変わりな格好により一人の女の子に鮮烈な印象を残し、夏にはまたどこかへ旅立ってしまう曲だ。戸坂さんいわく貧乏人のピアノであるアコーディオン、これに奏でられた典型的といわれるシャンソンの範疇にあるこの曲は、ジプシーの旋律と哀愁に漂い、クラリネットに奏される箇所は同じ流浪の民であるユダヤ人を想起させ、終わりにかけてのテンポの高まりは、スラブ的ともとれる。それはたがいの民族に切っては切れない歴史的なつながりがあるのだろうと疑問を持たせる。女性の声が強く、とても情感豊かな曲だ。


 もう一曲がテットレッドの「iditente」。これはフランス語の身分証明という単語のつづりが少し置換されて誤字になっているが、それにはフランスで生活している移民への社会的制約の強制によって、混乱する彼らの困惑と憤りの一端が表れてのことだと解釈できる。曲それよりも、戸坂さんの挿話が印象にあり、戸坂さんはこの曲をパリのバタクランで生で聴き、それからその場所で銃乱射事件があったので、実際に訪れた場所で凄惨極まる悲しい事件が起きたことに、ひどく心が痛んだそうだ。この話を聞いてすぐに自分は広島のアステールプラザで仮に乱射事件があったらどうだろうと置き換えてみた。バタクランよりも事件は胸に迫ってくるだろう。


 多くの国、多くの場所を訪れていると、その分だけ知己が増えるようなもので、自分の思い出に関わるものにひっかき傷ができると、その事件に対して何も縁のない人に比べてたやすく焦点は定まり、情報は心に飛び込んでくる。アンテナは広く、多く設置されていて、敏感に電波をキャッチすると、想像力はすでに用意された思い出のキャンバスに顔料と油分を加えて生気を蘇らせる。


 それではアンテナの設置されていない場所での出来事には依然として無関心のままだろうか。その通りだと思う。ただし、自分に余裕のある時、時間に追われていない時は、下地のない場所の事件を身のまわりにあてはめてみれば、物事はずいぶんと輪郭を持って自分に訴えかけてくるものだ。


 ビートルズのグッズを店内に飾るカフェの階段を降りている時に、壁に貼られていた「イマジン」のポスターを見て、ああ、その通りだと唾を飲み込んだ。想像力の欠いた人間はつまらないものだ。世間、職場、日常において、この能力を休ませている人人は配慮に欠けている。言葉は薄っぺらく、ウィンカーは出さず、横断歩道は効果を持たない落書きでしかない。改善はなく、反省を持たない。


 とはいえ、こんなことを書く自分に想像力はあるのだろうかと疑問も浮かぶ。あるだろうが都合の良い時にしか使っていない。偉そうに人人を批判するなら、その想像力を発揮してみればいい。そうすれば少しだけわかる。人人は想像力を使っているが、事細かに使う余裕がないのだ。偉そうに非難する自分はどうなのかと置き換えてみれば、必然と他人に対しての愚痴の言葉は止む。

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