2018年1月 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでタルコフスキーの映画を観た。

 先週の金曜日から広島市映像文化ライブラリーはタルコフスキーの映画を特集している。土曜日に観た「僕の村は戦場だった」でアンドレイ・タルコフスキーを初めて知った。うまく説明できないが、この映画は自分の趣味に合い、強烈な喜びを見出した。調べればソ連の監督としてとても有名なのだ。何が良かったのか細かい点をあげてもきりがないし、説明できない。パンフレットの紹介には「長編監督作は7本と寡作だが、水、雨、光など自然を駆使した叙情的な作風により映像の詩人と呼ばれ……」とある。数行で説明するには充分な文章だろうが、こんなものじゃ評価し足りない。日曜日に観た「アンドレイ・ルブリョフ」は素晴らしい。約三時間の長さに、重苦しい内容が続く。宗教と大地に結びついたトルストイを想起させる物語と、細部まで徹底した映像にとにかく圧倒される。そして今日は「惑星ソラリス」を観た。やはりうまく説明できないが、人間として何が大切なのか。チラビェーク、ロシア語で人間、この言葉が何度も繰り返された。


 連休が続くと不安定になる。平日の自分は遠くに行ってしまい、もう会いたくないし、戻れるのかと不安になる。本や映画、音楽に没頭する時間が長くなると、現実生活との差異から歪が生じて、認識する焦点がずれたのか、それとも絞りがおかしくなったのか、周囲は変わっていないはずなのに、どうしてこうも見える世界は変わるのかと、どこに信用を置けばよいのかわからなくなることがある。水と静寂の多いタルコフスキーの映像を三日間観たことで、ある種の観点を一時的に受動することになり、中央図書館を出て少し霞んだ雨の中を歩くと、美術館を出た後に色彩や造形に先程までの時間の名残によって目を奪われるように、タルコフスキーの美に囚われていることを実感した。苔むした楠の太い幹やすっかり生色を失っていた丈の長い芝に水気が戻り、生命力と存在感によって色は太さを取り戻し、日光による映えではなく、存在そのものからの輝きが放たれていることを感じた。雨に打たれて痛々しいパンジーもそれはそれで良いのだ。満々に上流へ向かう本川の岸に降りて水面を覗けば、神秘的な緑が揺れて、見えない底へ向かうタルコフスキーの水が現実世界を閉じ、今は閉じていた目が開いているのだと自覚させた。七羽の鴨に、八羽の鴨、二つの集団がそれぞれ距離を置いて流れていく。成人には向かないが、乾いた自分の気持ちを潤すにはもってこいの雨だろう。


「惑星ソラリス」で愛と良心が語られていた。そんな話を誰かと日常生活でするだろうか。とある一言で傷つくことがある。自分もそれを誰かにすることはあるが、そんな時に自分は気づけていないだろう。良心があれば、そんな痛みを誰かに与えることをせずに済むのだろうに。

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