2月 広島市中区加古町にある広島文化学園HBGホールで「平和の夕べコンサート」を観た。

 昨日、ギドン・クレーメルを観に行った。偉大な演奏家が広島に来るというので、昨年から楽しみにしていたこの演奏会は、少しだけ不安を抱いていた。五六年前にサントリーホールで観たギドン・クレーメルはベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を弾き、大物をほとんど観たことのなかった自分はその音色に感嘆したが、近くにいた観客は加齢による腕前の衰えを指摘していた。こんなに良かったのに……、以前はどれほどのものだったのだろうと思った。今回はどうだろう。観客の指摘が頭に残っていて、今回は歳による陰りを初めて自分は観るのではないだろうか。その不安通り、ギドン・クレーメルの演奏は最高水準のものではなかった。疑問を頭に抱えながら演奏を聴き、ひどい恐れに襲われてしまった。歳を重ねることの恐怖が確かな説得力で自分に掴みかかっていた。前半のプログラムは心から喜びを覚える演奏だったのに、後半のプログラムはどうしてこうも自分を不安に落ち入れさせるのか。わかりやすい明暗が前半と後半に配置されていて、ギドン・クレーメルの音楽性を受け継いだクレメラータ・バルティカのベートーヴェンの弦楽四重奏曲第十一番に、これからの将来を期待させるリュカ・ドゥバルグの可愛いらしく知的な若さに溢れたベートーヴェンのピアノ協奏曲第二番で、今日はとても良い演奏会だと心が弾んでいたら、後半のシューマンのヴァイオリン協奏曲は、この日の演奏会に合わせて前日は早めに就寝し、午後の演奏会前に三十分ほど仮眠して眠気に襲われないように疲れを削ぎ落としていたのに、強烈な微睡みに自分を引きずり込んでいく。前半は一音一音を味わえたのに、後半はぼやけた全体像の中で意識を失っていくようで、まるで、痴呆のように時間が進んでいた。芸術は、表現は何を伝えるべきだろう。素晴らしい音楽性を、活力と美に満ちた、生きる意味を見出す説得力のある、自分をごまかしきる瞬間だろうか。それだけではない。考えさせるのも生きた芸術の一要素だろう。まるでマルセル・デュシャンの便器を観るように、クレーメルの演奏は圧倒的な芸術で自分に問いかけてくる。アルゲリッチとクレーメルの録音によるベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第九番を何度聴いて自転車で十六号線を全速力で走ったことだろう。トルストイの「クロイツェル・ソナタ」も自分の中ではクレーメルとアルゲリッチでしかない。そんな切れ味鋭いクレーメルのヴァイオリンはいかに凋落してしまったのだろうか。晩年に書き上げたシューマンのヴァイオリン協奏曲をなぜ選んだのだろう。最初はベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲がプログラムだったのに、どうして変更したのだろうか。伝えることがあるのか……、ないわけがない。あんな乳白色な協奏曲は、やるせなく、悲しく、それでいて必死な第三楽章のヴァイオリンの音色は、どうしてこうも心に響いてくるのだろうか。昔知り合いが、人生はもがくことだと言った。たしかに突き詰めれば生きることはもがくこと以外の何物でもないだろう。気づけば生まれてこの世界に存在し、死へ向かうまでに一体何をするのだろうか。救いは存在しない。死があるのみ。それなのに、何を必死に自己の存在を、誰に、何に証明するためにもがくのだろうか。呆気にとられる自己の存在の小ささ、希少性のなさ、必要性の皆無、世界からするとなんて驚くほど無意味な存在だと気づいて、一体、どう生きていけばよいのだろうかと、友人の言うもがきは広がっていく。しかし、クレーメルのヴァイオリンはもがきだろうか。老いて、以前のような演奏はとてもできないと本人は悟っているのに、どうして演奏するのだろうか。音楽が好きだから。その理由がないとはいえない。もがきには違いないのだがもがきがないのだ。若いからもがく、老年だからもがかない。いや、もがく人間は死ぬまでもがき続けるのだ。ここ最近、二つの媒体で釈迦の入滅についての話を聞いた。悪魔との対話後、入滅までの三ヶ月の意味についてだ。それは弟子のアーナンダに身を持って教えるため。少し聞きかじっただけでは説明できない。ただ、人はいずれ死ぬことを伝えたらしい。この演奏会の前置きのような役割で釈迦の入滅の話を聞かされたようだ。まわりで歳を重ねたことにより身内が体を壊し、機嫌が良くなった人もいれば、家庭に影のかかった話を聞いた。歳をとるのは嫌だと話を聞くし、自分も心からそう思う。105歳の美術家・篠田桃江さんの記事を中国新聞で読んだ。「なんだかこの頃、私の意識は昨日と今日の違いがなくなってきました。時間全体が大きく一つに溶け込んでいて、区切りが明確ではありません。昨日のこと、一昨日のこと、あるいは、今日のことが、一緒に存在しています。自分が、時間のない空間にいるような感覚です。つまりはボケてきた、ということなのでしょう。……」この部分がひっかかり、クレーメルの演奏を聴いている間に、まるでこの言葉を微かに味わっているような感覚に陥った。オーケストラと指揮者に包まれて演奏されていたこの時間の進行はクレーメルの時間軸のなかで回転していて、聴衆は彼が意識して表現したのかはわからないが、彼の内部に取り込まれて、彼の精神を直に感じ取らされていた。まるで釈迦によって人はいずれ死ぬ、わたしも例外ではないのだと教えを受けるアーナンダのように、驚異的な切れ味と伸び、技巧で人々を魅了してきた偉大な演奏家が、衰えた現在でもって伝えるべきことは何かと演奏する姿は、自分は完全に履き違えているにしても、強烈な、偉大な演奏家の表現力、それは正真正銘の芸術でもって自分に問いかけてきた。もがきは変わらないだろう。老いたくない、衰えたくない。毎晩、深夜、寝る前に襲ってくる恐怖を和らげる作用はない。意識は簡単には変わらない。けれど、今日、太陽がすこしばかり暖かい日差しを見せていた昼下がりに、退屈な毎日の仕事の中にいて、一階入口の出荷の荷物に一人で送り状を貼っている時、山を越えて降ってくる風花の画面遠くの折り鶴タワーの上空に浮かぶ積雲の晴れ晴れしさと、空の青さは、すこしだけもがきを緩めてくれるみたいで、夜に死にたくはない、死ぬなら昼間、白い積雲が壮大に埋めるような時刻がいい。死に方は抜きにして、こんな気持ち良さなら死んでもいいと思える時が良いと思えたのは、クレーメルの演奏の効果が根強く自分の中に巣食っているからだろう。

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