11月 広島市中区中島町にある平和記念資料館で「第十二回国連UNHCR難民映画祭2017広島会場」に行く。

 二週間以上前に第十二回国連UNHCR難民映画祭2017の広島会場へ行ってきた。難民という状態に置かれている一人ひとりの異なるストーリーを、映画を通じてお伝えする、という目的で開催されているこの映画祭は、広島では今年が初めての開催だそうだ。いくつかの作品が二日間上映され、「神は眠るが、我は歌う」と「とらわれて~閉じ込められたダダーブの難民~」という作品を観た。


 「神は眠るが、我は歌う」は、ラップやロックでイラン政府による抑圧や弾圧に対してのプロテスト・ソングを歌い、懸賞金をかけられ、ドイツへ難民として逃げたイラン人ミュージシャンに焦点をあてた作品だ。シャヒン・ナジャフィという名の音楽家がどんな性格を持ち、どうして反政府や反イスラムの曲を歌い、どのような道筋をたどって難民となり、どんなに不安で孤独な生活を送っているかが描かれている。この音楽家が難民という言葉で形容されるよりも、まずこの人間の類まれな音楽としての才能と、それに付随するのか、それともされているのか、強烈なエネルギーに驚きを覚える。イラン人だから、難民だから、ではなく、元々の素質として何かをつくる奔放で我の強いアーティスティックな性質を備えており、こういう種の人間は他の国のどの人種にもいるものであって、普通ではない少数の人間の一人としてどこにいても目立ってしまう可能性を否定できない。恐れるよりも自分の信念に忠実に動くこの人は、ドイツへ逃れてからも音楽家として立派に活動している。同国の人間が同じように活動するのが当然難しいように、外国人が別の国で芽を出すのはずっと困難で苦労が多いのに、この人はドイツ人や同郷の仲間とバンドを組んで活躍し、やはりイスラムを風刺するような作品を作り、懸賞金の額を増加させてしまう。せっかく他の国に住めているのに、わざわざ身の危険をさらすような行動をせず、落ち着いた曲を作って活動すれば良いのにと、臆病ではなく、理性的に考えれば誰でも思うだろう。イランという国は世界にある多種多様な国の中の一つで、その政治形態なども特殊な一つの在りかたとしてみれば、組織から爪弾きされてドイツに来たのだから、そこで安穏と暮らせばいいのに、どうして相容れない組織に向かって吠え続けるのだろう。こんな疑問を抱く時点で、シャヒン・ナジャフィという人物とイランという国について無知であり、信念を持ったことのないことを自分に証明してしまう。映画のなかでプロテスト・ソングを歌う理由を細かく説明されているわけではない。シャヒン・ナジャフィは小さい時、コーランを詠唱していて、神に仕える道に進もうとしていた。そんな彼がなぜこうなってしまうのか、そこには生まれ住んだことのない人間には決して会得できないイランという国におけるイスラム教の在り方が深く関係している。


 イランに二度行き、イランという国の特色を少しだけ味わった自分は、トルコにあるコンヤという宗教色の強い都市で、イランから難民として移り住んだ親子の家に泊まらせてもらったことがあり、そこでクルド人難民の知り合いの会食に参加させてもらい、自分のなかで難民という言葉に立体的な小さな枠をはめて朧気ながら形をつくりあげた。そんな経験からシャヒン・ナジャフィの性格の推移、どんな見地を持っているのか推し量ってみるものの、所詮専門的な知識のない自分に何がわかるというのか。彼はイスラム教に愛想を尽かしたのでは、という陳腐で短絡的な結論ぐらいしか浮かんでこない。しかし、映画の終盤に、彼が「神はいないのではない、ただ眠っているだけだ」と話すくだりで、ふと、遠藤周作のすこし前に映画化された小説「沈黙」が頭に浮かんだ。あれは日本という国、風土、幕府からの弾圧のなかキリスト教を布教する為に来日した宣教師の棄教までを描いているが、眠りと沈黙、どちらも静かに息を潜んでいる。イスラム教とキリスト教、難民と棄教して他国に暮らす人、様々なキーワードが浮かびあがり、それぞれを結びある種の解釈を生み出す。


 どちらの言葉も、単に、浅薄に神を信じている人からは出てこないだろう。映画を観る少し前にヒロシマ美術館で活版印刷についての展示があり、マルティン・ルターの初版のドイツ語訳の聖書を観ていて、また、嫁が「ルターはすごい!」と何度も口にして昔の旅行で撮ったルターの部屋の写真を見せてくれたので、こんなことを考えてしまった。シャヒン・ナジャフィのしていることはマルティン・ルターのしていたことと通底しているのではないだろうか。免罪符による教会の腐敗にはルターの考えるキリスト教の本質との差異があり、イスラム共和制というイランの体制にはシャヒン・ナジャフィの考えるイスラム教の本質との差異がある。より多くの民衆に布教する為に活動した人間と、風刺ばかり流伝している人間では反対の活動をしているように思えても、体制に対しての反動を根っことして見るなら、ある意味、彼は現代のマルティン・ルターの一人ともいえるのかもしれない。


 次に「とらわれて~閉じ込められたダダーブの難民~」だが、これはイランのミュージシャンとは違い、特別な才能を持っているかもしれないが、多くを眠らされている一般大衆に焦点をあてられている。難民という言葉を聞けば、まず想像を当てはめるのがこの映画に登場する人々だろう。舞台はケニアのダダーブ難民キャンプ、ここはソマリアの内戦から逃れてきた人々による世界最大規模の難民キャンプで、人口は推定30万人だが、専門家の話によると60万人はいるのではないかという大きさだ。小さい時に難民としてやってきて二十年近く住んでいる男の人の話を軸にしながら、難民キャンプの実態、抱える問題を専門家の視点で説明しつつ、特徴を解説していく。映画の題にあるとおり、とらわれて、閉じ込められたことがこのキャンプの大きな問題であり、ソマリア内戦が泥沼化して国に戻れないことが大きな要因となっている。内戦が長期化して長年にわたりキャンプに住み続けているので、キャンプ内で結婚して、子供が生まれ、子供が育って次の世代の子供が生まれてくる。暫時的なキャンプの役割を超えて、古い世代にとっては愛着のある故郷のような土地になっている。他国のとあるキャンプでは難民が外にでて職に就くことを奨励しているのに、ダダーブではケニア政府がキャンプ内の難民を自由に出れないように法で定めているので、難民はわずかな配給をもらいなんとか暮らしていくしかない。だから多くの難民は第三国への難民申請を希望するのだが、なにせ人口が多いうえに、難民申請の承認には時間がかかり、例えばダダーブ内で国境なき医師団の拉致事件が起きれば、派遣されてきた難民申請に携わる人々は治安が戻るまで自国に戻されることになり、その間は難民申請が滞ってしまい、それが数年にもわたって影響を与える。そもそもケニア政府が難民キャンプをなぜ封鎖しているのかというと、そこにはケニアとソマリアの歴史があり、簡単に説明すると、ケニアは農業を主体にしてきた民族で、ソマリアは放牧をしてきた民族の違いがあり、ケニア人にとってソマリアは、専門家の言葉を借りると、先入観として中国人は商売が上手だから中国人には来てもらいたくない、と同じ理由で、ソマリア人が自分達の街に来ると商売を奪われる、このような偏見があるらしい。それに加えてケニヤはキリスト教徒、ソマリアはイスラム教徒という決定的な違いがある。彼らを外に出してしまうと、民族の軋轢、そこから新たな内戦が勃発して国に動揺を起こす可能性がある。飛び火するのだ。他にも理由はあるのだろうが、これらの主要因が左右してダダーブキャンプは映画の名のとおり監獄のような場所としての特徴を有するに至っている。こんな監獄に二十年近く住んでいる男性は、小さい時にソマリアからダダーブに家族と一緒に来て、それから数年して父親が亡くなり、なんとか家族を養わなければと思い、一人キャンプを抜け出してナイロビに行ったものの、小さい彼は騙されてホテルで数年間ただ働きすることになり、なんとかそこを抜け出して再びキャンプへ戻ってくると、タイミングの悪いことにその間に家族はアメリカへの移住の申請が通っていて、彼一人キャンプに残って家族はみんなアメリカへ行ってしまう。再会を約束するもそれから何年も申請が通るのを待たなければならない。待つ間に友人は第三国への移住が決まり、祝福しつつも、嫉妬や妬みを含んだ言葉もにじみ出てしまう。そんな彼にもようやく申請が通り、物心がつかずにいた弟が大学生になっているような年月を経て家族とアメリカで再会し、ダダーブとまるで違う清潔な住宅の床に座って食事をしたあと、車を運転しながら「これからは自分で職を探さなければいけない、ダダーブと違ってここでは自分で食べていかないといけないからね。働いて給料をもらい、税金を払って生活していくんだ」このような内容の言葉を嬉しそうに話す。無為というのは、働く為に生まれてきたものものにとって、自然に反することであり、これほどない拷問と苦痛をもたらすものはないのだろう。ダダーブで長年住んできた彼にとって、自立した生活というのは、憧れを通り越した渇望するほどのことだったのだ。


 たった二つの映画から難民について少ない知識を得ることができるのだから、他の作品を観たらどれだけ理解を広げることができただろう。難民という言葉は、なんだか厄介で、非常に人道的な義務を強いてくるような圧迫感を持ち、もちろんただの言葉だからそれ自体には何の意味も持たないともいえるにしても、他国のニュースで繰り返し流されているのを嫌でも耳にして目にすると、自分ならどういう立場をとってこの問題を取り扱わなければならないかと責任感の湧くところがあり、事の大きさにどう対処していいのか、最善の解決など見つかるはずがなく、冷たいようだが難民を無視するという手段に陥っている自分がどうあがいても存在しており、若い時に接する選挙という言葉と同じくらい、へんにとっつきにくく、優等生ぶった単語に嫌気が指して、難民、かわいそうだねくらいの、対岸どころか、深海の甲殻類に視点をあてる以上の距離をつくっていた。長期旅行をしている最中にニュースを頻繁に聞き、ちょうどその頃にウィーンにホームステイしていて、現地に住む人の確かな意見を聞いて、冷徹かもしれないが、島国の自分に非難などとてもできるわけがないと思うことがあった。シリアからの難民のニュースにどれだけの視点を持つことができただろうか。たいした数ではなかった。いつも難民という言葉に想像力を湧かすことなく、ニュースの映像とありきたりな意見が頭をよぎるくらいだ。


 トルコで出会った家族は、自分にとっての難民という単語の範疇には入らない。寒いコンヤの街、街中を漂うソバ(石炭ストーブ)の香り、最低限の調度品しか揃っていない広い部屋、火事になるかと思うくらいに焚かれたわれわれの寝室のソバ、暖かさが身に染みるのは部屋の温度と心遣い、おもてなしという言葉が空疎に感じる彼らの歓待は、難民という言葉をなんら言い訳しない人間としての崇高な態度、それは義務ではなく彼らの国の文化が育んだ尊敬すべき人間としての美しい振る舞いだった。イスラム圏の人々は、日本の歓待がちっぽけに思えるくらい、おせっかいな人情でおもてなししてくれるのだ。そんな彼らは自分の持っている難民には似つかわしくなかった。


 アフリカへボランティアに定期的に行っている人が、種まきという言葉を使っていた。これは、自分にとって大した経験ではなくても、他の人にとっては新鮮で何かしらのきっかけを持つ経験かもしれないから、専門的知識はなくても体験で得たことを人々に伝えて欲しいということを、種まきという言葉で総括した言葉だ。平和という言葉があまり好きではない。平和の為に活動するという時点で、自慢ばかりする知り合いの近くで一日を過ごすような心苦しさを覚えてしまうのは、人間という性質に諦めているからだろう。悲観的な人間の持つ性向として、希望的観測をすると外れた時の落胆が大きいから、常に最悪を想定して生活するのと似たものかもしれない。しかし、種まきという言葉を知った時から、片意地張った自分の肩の荷が降りたというか、そんなにどちらかに偏った考えを持つ必要はなく、徹底した平和活動、完全な無関心、どちらに偏ることはしなくても良いのだ、自然に、自分の内から出て動くままを尊ぶべきであると知り、たとえそれが中途半端な中庸であるとしても、それは自分にとって悪い姿勢ではないと頷くことができた。


 今回の難民映画祭を観に行く理由も大したものじゃない。ちょっと興味があるから行っただけだ。会場で募金箱の前を通る時に、やはり葛藤した。インドの貧しい子供たちの繰り返しやってくる物乞いに慣れて決然とした態度で望むのと違い、ぬるい日本の環境にあらわれた募金箱は本当に自分を戸惑わせる。けれど募金はしなかった。頭ばかり動いて、倒れている自転車を自然に立てるような反射作用はなかったからだ。一家族との体験、二つの映画からの知識、それだけでは募金箱に金を投じるだけの作用を自分に及ぼさなかったが、来年に広島で再び映画祭があるのならおそらくそこへ出向くだろうし、別の機会に難民に関する話や経験を得ることがあるのなら、自分はまた変わってくるだろう。自然に募金箱に手を伸ばすくらいになれたら、少しは自信を持てているのだろう。

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