序章

意識が薄らと現実に戻ってくる。


瞼の向こうにある日は眩しく、窓の外では昼の喧騒が響き渡っている。


布団の中はあたたかくて、いつもの倍以上休んでいたように心地がいい。


ふと、手のひらにマシュマロのような感触が伝わり、まだ夢の中にいるように思った。


微妙に固い部分が気になって指先で転がしてみる。


【???】

「ひゃっ!」


腹部に衝撃を感じ、ベッドから転げ落ちた。


このとき、ようやく目が覚め、誰かが俺を蹴落としたということを理解した。


【将人】

「うぉっ…いってえぇっ……」


床を這うようにしながら、ベッドの上を覗く。


ベールを纏うようにかけられた布団と、美少女のあられもない姿。


脚部の白い肌は日の光を受けて艶めかしく輝き、舐めてみたいという欲望を脳裏に走らせる。


少しだけ太い腰回りに肉付きのいい臀部は、どんな感触がするのか気になってしまう。


そうして、さっきまで触れていただろう乳房は、いかにも肌触りがよさそうだ。


彼女を見ていると気が狂ってしまいそうだ。


そんな寒気がしながらも、やっぱり見てしまう。


乱れた白銀のショートヘアーは、とてもいい香りがしそうだ。


そもそも俺には女の知り合いはいないし、可愛らしい顔つきをまじまじと眺めると、やっぱり見たことはない。


筋の通った鼻立ち。


やわらかそうにふくれた唇は、独特の艶を持ち心を魅了する。


眠たそうな瞼の間に湛える紺碧の瞳は……


【将人】

「あっ!」


相手が寝ているからいいと思ったものの、起きているとわかれば話は別だ。


途端に今まで見たものを忘れたい罪悪感に駆られて、目を逸らす。


【???】

「ん……んや……」


【???】

「あ、おはようのゃ」


『のゃ?』ってどこの方言だろう?


【将人】

「お、おはよう……」


【???】

「ご主人? どうかしたかのゃ?」


こんなかわいい子に、『ご主人?』って言われて、思わず振り返る。


ずり落ちた布団から露出した肌の艶はいかにも扇情的で、寝起きに瞼をこする姿にドキンとする。


欲に駆られた目で見つめていても、彼女はなにも知らない様子で明るく笑った。


俺に見られていることに嫌悪していないらしい。


ピーンポーン!


しまった! そういえば今日は注文した映画の円盤が、届く日だった。


劇場で見てから買うことを決め、発売まで半年くらい待った作品だ。


届いたら速攻見たいと思っていた。


今日見たい!


だけど、目の前の見ず知らずの女を放っておくのは、ヤバイ気がする。


さっきからずっと笑っているが、逆になにを仕出かすかわからない不安がある……


ピンポン! ピンポン!!


【???】

「ご主人、呼ばれてるのゃ?」


だから『ご主人』ってなんのことだよ?


居留守を装うためにそんなこと大声では訊けない。


【将人】

「ちょっと静かにしてろ!」


彼女の唇が指にぷるりとした感触を残す。


女の子の唇ってこんなにやわらかいのか……


が、途端に牙の刺さった鋭い痛みが走った。


【将人】

「痛いっ!!」


【???】

「静かにするのゃ!」


【将人】

「いや、お前が噛むからだろ!?」


【???】

「静かに――」


【将人】

「いやいや、もう大丈夫だから!」


【将人】

「それで、お前は……」


シルクのような輝きを持つ肌が目に飛び込み、

思わず目を背けた。


【???】

「ご主人、どうかしたのゃ?」


なんていうのか、心を弄ばれているみたいで、

彼女のあどけない発言が気に食わない。


【将人】

「う、うるせえ! とりあえず服を着ろ!」


【???】

「服? そんなものないのゃ?」


【将人】

「はっ? なんでないんだよ?」


【???】

「普通は着ないのゃ」


【将人】

「はぁ? 意味わかんねぇ」


しかし、このままでは一向に話が進まない。


それどころか、あと数分すれば理性が崩壊しそうだ。


【将人】

「あっ、そういえば!」


【???】

「お、終わったのゃ?」


彼女の声に反応して振り返ると、

思わず卒倒しそうになった。


【将人】

「うぉぁっ!」


黒いメイド服に身を包んだ彼女の姿。


今まで見たすべての物の中で最も美しく、

最も扇情的だ。


殊に彼女の白銀の髪と、黒いメイド服、

白いレースという組み合わせは素晴らしい。


シックな装いをしつつも表情や身長は幼く、

そのギャップがまた堪らない。


余計なことをしてしまっただろうか……


心のブレーキが軋みをあげている。


全体を見ていたが、胸元に視線を絞ると、

大きくも小さくもない程よい曲線が際立って……


【???】

「ところでご主人、なんでこんな服持ってるのゃ?」


【将人】

「い、いや……知るかよ!」


【???】

「シュン……」


【将人】

「あ、あぁ……いや、うん……お前に着せるためだ」


なんて軟派なことを言ってみるが、

そもそも彼女は何者かさえまだわかっていない。


何故かうれしそうだし……


【将人】

「それはそうと、お前は誰だよ?」


【???】

「誰って……うーん、なんだかこれ邪魔だのゃ」


話しの腰を折りつつ、

鬱陶しそうにカチューシャを外す。


ポンッ!!


【将人】

「うぉ! 耳生えた!!」


ふさふさの産毛に包まれた尖った耳……

そしてメイド服。


思わず唾を飲み込んで凝視してしまう。


【???】

「んゃ? ホントだのゃ!」


彼女が手のひらで尖った耳を弄んでいる間、

俺はなにか思い出しそうで記憶の引き出しを探った。


【将人】

「あっ! 思い出した!!」


【将人】

「ジンジャー! どこだー!?」


【???】

「のゃぁぁぁんっ!」


媚びた声をあげながら彼女が抱き付いてくる。


【将人】

「うぉっ!」


【将人】

「ちょっ、お前じゃねぇよ!」


【???】

「ん? なに言ってるのゃ?」


【将人】

「だから、ジンジャー」


【???】

「のぁぁぁんっ!」


ギュッと俺を抱き寄せると、

じゃれるように体をこすりつけてくる。


腕に触れる胸のやわらかさが心地よく、

モチモチの柔肌が頬ずりしてくる。


まるで、猫のように……


【将人】

「あれ! ちょっと待て!」


彼女の肩を掴んでじっくりと観察する。


白銀の髪……紺碧の瞳……猫の耳……


【???】

「ようやくわかったのゃ?」


【将人】

「う~ん、うん……えっ? ホントに?」


【ジンジャー】

「ホントだのゃ?」


【ジンジャー】

「私だのゃ?」


【将人】

「ホントに? マジで? 命かける?」


【ジンジャー】

「ウソじゃないのゃ! ご主人!!」


【将人】

「なんだよ『のゃ』って!! ニャンだろ普通!!」


【ジンジャー】

「そんなこと言われても知らないのゃ!」


【将人】

「違う! ニャンだ!! 言えなきゃ認めない!」


【???】

「のゃん?」


【将人】

「に・や・ん!!」


【???】

「ニ・ヤ・ン!!」


【将人】

「ニャン!」


【???】

「のゃん!」


【将人】

「うぉぉぉ! なんでそうなるんだ!?」


【???】

「難しいなゃん」


【将人】

「おっ! もうちょっとだ! がんばれ!!」


【???】

「なゃん、にぁん……うーん……にやん……」


【ジンジャー】

「……にゃぁ~……にゃん?」


そのとき、すべての感情が彼女へ集中する。


怒りも悲しみもじれったさも、

全て含めて彼女を祝う喜びに変わる!!


【将人】

「ジンジャーが、言えてる!」


【ジンジャー】

「やった、言えたの、にゃん!」


慣れないゆえに言葉に詰まるのもかわいらしい。


だけど、彼女は無事に自分のアイデンティティを、

取り戻したのだ。


しばらく二人で抱き合い、よろこびをわかちあった。


その後で俺は当初の問題に戻る。


【将人】

「まぁ取りあえず、座ろう」


【ジンジャー】

「にゃん!」


【将人】

「ところで、ホンット~に、ジンジャーなのか?」


【ジンジャー】

「まだ疑ってるかニャン?」


【将人】

「そりゃな……どうしてこんなふうに?」


【ジンジャー】

「ご主人、いっつも言ってたにゃん?」


【ジンジャー】

「お星様に三回祈ると、願いが叶うって」


と、彼女が珍しくちゃんと答えているのに、

俺はその耳を注視していた。


彼女の言葉の抑揚に合わせてピクリピクリと動く耳。


猫じゃらしに釣られる猫はこんな心持ちなんだろう。


触りたくてウズウズする。


【ジンジャー】

「ご主人……どこ見てるにゃ?」


その声の調子とともに耳がしょげる。


そんな様子を見ていると俺まで退屈になった。


【将人】

「あ、あぁ。すまない」


【ジンジャー】

「だから、お願いしたにゃん!?」


耳がピョコンと立ち上がり、踊るように動く。


やっぱりこんなもの見せられたら我慢はできない。


ゆっくり、ゆ~っくり手を伸ばす。


パシンッ!


【将人】

「痛っ!」


【ジンジャー】

「今の話、ちゃんと聞いてたかにゃん?」


【将人】

「あぁ、もちろん……それで、この姿に」


と、油断させ、一瞬のスキを突く!


パンッ!


凄まじい反射神経でまたも俺の手のひらを弾く。


が、嫌がっていない限り、

俺は諦める気になれなかった。


【将人】

「オラッ!」


【ジンジャー】

「右! 左! アッパーカット二回!!」


【ジンジャー】

「にゃぁぁぁ ! エイドリにゃーん!!」


ロボットなのか生身のボクサーなのか……


【将人】

「わかった! もう触らないから、

ツッコミに困ることはやめてくれ」


グゥゥゥ~。


【ジンジャー】

「それよりご主人、お腹空いたのにゃ~?」


えっと、なんというのか、自由すぎる……


【将人】

「はぁ、わかったわかった……」


と言って立ち上がるが、

はたしてなにを用意するべきだろうか?


体は人間だが、体質は猫のままだったら、

キャットフードしかあげられない。


だけど、あの姿でキャットフード貪られても……

まるで俺が倒錯者みたいだ。


ためしにキャットフードを鳴らしてみる。


ジャラジャラジャラ!


袋の中で粒の跳ねる音に反応はするものの、

食べようという気は起きないらしい。


【将人】

「そうなると、人間の食べ物か……」


流石に女の子にカップ麺は扱いがアレだろうし、

母さんが送ってきた物を漁ってみる。


【将人】

「鯖の味噌煮か……飯も昨日のがあるし」


キッチンへ行って昼食を準備していると、

ジンジャーが物々しい様子で近づいてきた。


【ジンジャー】

「ご、ご主人! トイレはどこだにゃ?」


【将人】

「トイレ? ならそこに」


指さした先には猫用トイレが。


【ジンジャー】

「にゃっ! し、知ってるにゃん!?」


【ジンジャー】

「ご主人、ニヤニヤしながら見てたにゃん!」


【ジンジャー】

「恥ずかしくて二日くらい便秘だったにゃん!」


【将人】

「女の子なんだからそういうこと言うな」


【将人】

「そっちだ」


【ジンジャー】

「にゃにゃにゃ」


こんなに自由奔放だと、

外に出たら危険な目に遭いそうだ。


服もメイド服以外も、あると言えばあるんだが、

巫女だったり……


今日は家から出ないとして、

いずれは買い物とか行かなきゃならないし……


そこでふと思考が立ち止まる。


【将人】

「なにを考えてるんだ……俺は……」


一緒に行く機会があるみたいな言い草じゃないか。


それを思ってみると、べつに苦ではない。


むしろ、女の子と買い物をしたり、

行楽地に出向くなんて夢みたいだ。


デートプランを一緒に立てたり、

計画通りに進まなくて喧嘩したりも楽しみだ。


だけど……

俺はその先が想像……したくない。


【ジンジャー】

「ご主人? 頭なんか抱えてどうかしたかにゃ?」


そんなに長い間考えに耽っていただろうか?


ジンジャーはもう戻ってきていた。


【将人】

「……いや、なんでもない」


不思議そうに首を傾げるジンジャーは無邪気に笑う。


この笑顔の前では、

どんな不安も消えてしまうから参る。


【ジンジャー】

「それよりご主人……あげたいものがあるのにゃ」


指をクイックイッと曲げ、もう片方の拳を近づける。


【将人】

「なんだ?」


小さな拳に視線を集中させ、開かれる瞬間を待つ。


【将人】

「なんだよ、早く見せ――」


視線をあげたその時……


【ジンジャー】

「ちゅっ!」


彼女の唇がふわりと額に触れる。


熱がじんわりと皮下に広がり、様々な神経を巡って、

やがて心が不思議なぬくもりに包まれた。


しばらくなにも考えることができず、

彼女のやさしい笑顔を見つめる。


【ジンジャー】

「えへへっ……おまじないだにゃ!」


【ジンジャー】

「ご主人、色々と考え過ぎにゃ」


【ジンジャー】

「そんなんじゃ、早死にするにゃ?」


その言葉に一瞬だけドキッとさせられる。


もしかしたら、俺が不安なのはそれかもしれない……


【ジンジャー】

「んにゃ? ご主人、もう一度してあげるにゃ!」


その言葉に甘えたかった気もする。


でも、一時の恥ずかしさが勝った。


【将人】

「あぁ、いいって。大丈夫だから」


いや、恥ずかしいよりあとからやってくる切なさが、

堪らなく恐ろしいからかもしれない。


素直な気持ちで、してもらえばよかったのに、

断っておいてまた俺は不安に思っている。


【ジンジャー】

「イヤかにゃ?」


だけど、彼女の心配そうな表情だけは見たくない。


【将人】

「いや、そうじゃなくて……」


そんな顔するなよ……


君の笑顔がないとダメなんだ……


言えるはずもない。


今日初めて言葉を交えた相手に対して、

どうしてこんなことが言えるもんか。


沈黙だけが互いの耳にこだまする。


こんなときどんなことを言えばいいんだろう……


自分が不安だと思っていることを打ち明ける?


それはなんだか情けないし、

余計に彼女を苦しめてしまうかもしれない。


【ジンジャー】

「う、うぅ……」


【将人】

「あーもう」


やめてくれ……泣かないでくれ……


どうしたら笑ってくれる?


いつもみたいに……


今にも零れそうな雫に触れようとして手を伸ばす。


親指が雨に濡れたように冷たくなる。


凍えそうな彼女をどうしてもあたためてあげたい。


静かに顔を寄せて、

震える彼女の額にキスを残す。


これぐらいしかできない自分が情けなくて、

それでもこれが今の俺の精いっぱいの気持ちだ……


【ジンジャー】

「んぅ……んにゃん……」


雲の切れ間から差し込んだ日が照らすみたいに、

当惑しながら泣き止む。


雨上がりに爛々と輝く白いアネモネのように……


少しだけ恥ずかしそうに赤く染まる。


【ジンジャー】

「えへへ……うれしいにゃん!」


そう、この笑顔だ。


猫のときだって彼女はこの笑顔で、

俺を支えてくれた……


【ジンジャー】

「ご主人! ニヤニヤしてるにゃん?」


【将人】

「なんでもねぇよ!」


【将人】

「まったく、さっきまで泣いてたくせに……」


【ジンジャー】

「にゃんか言ったかにゃ?」


【将人】

「なにも……はぁ……もうすぐできるから待ってろ」


【ジンジャー】

「はいにゃん!」


トタトタとかけていく。


その後ろ姿を見ているとなんとなく寂しくて……


彼女は今もここにいるのに。


その次の不安ばかりが見えてしまう……

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る