私が彼の前に座る理由

空閑漆

私が彼の前に座る理由

 空席の目立つ小さな喫茶店。机を挟むように椅子が二脚ずつ並べられ、店の角にはおざなりに観葉植物が立つ。彼はこの店を好んでいたのか、いつも私は連れてこられた。そして、その日の予定を二人で決めるのだ。学生同士、お金がない中で理想の予定を話す私と現実的な彼。結局は決まらない事が多く。長居出来て安価な店を彼が選んでいたのかも知れない。

 彼は人前で私と腕を組むのを恥ずかしがった。私としてはお互い好きなのだから腕を組むくらい当然だと思う。だから手を取り合って歩くのも、隣に座るのも自然なこと。しかし、彼は私が隣に座ろうとすると、対面の席を指差し言うのだ。


「話す時は向き合ってた方がいいだろ」


 側に居たいという私のアピールも空しく、彼は対面にいるように私に言う。電車に乗った時もそうだ。彼は私に座らせ、吊革を掴むと見下ろすように前に立つ。隣の席が空いていようと対面することのメリットを並べられる。理屈じゃないんだと思いつつも私はいつも妥協していた。意図的に彼がそうしているのを感じていたから。

 彼は私が横にいる事を嫌がる。違う。彼は私が前にいる事を強要する。そして、その理由を彼は決して言おうとしない。


 付き合い始めてから二年が過ぎ、二人とも社会人として働くようになっていた。仕事以外でも眼鏡をかけ始めた彼に『真面目君になちゃって』と、揶揄していたのが懐かしい。

 学生時代のように毎日会えずにいても、二人の仲はそれなりに続いていた。余り笑わない彼だったからこそ、ふとした時に見せる笑顔がとても印象に残った。


 年が経つにつれ、彼は出歩くことを嫌うようになった。なかなか会えず、出会えても彼の部屋。イベントの日だから、今日は記念日から、と事あるごとに彼を外に連れ出そうと試みたが、すべて失敗に終わった。彼も悪いと思っていたのだろう。部屋にいるときは隣にいても昔ほど前に座れと言われなくなった。

 なぜ彼は私を前に置きたいのか。どうして出歩く事が嫌いになったのか。彼に何度か聞いたことがある。それらしい答えが返って来たけど、確信じゃないと思う。感覚的にそう感じた。

 大事にされていると感じていても、それが本当なのだろうかと疑問が浮かぶ日が増えた。もしかしてと考え出せばキリがないのに、いつも考えてしまった。いつしか、私の中に別れと言う文字がチラつきだす。


 喧嘩というのは、軽い冗談から始まる。彼の後を子供のように付き纏う私。彼は狭い部屋を逃げ惑った。隣にいた彼が席を立ち戻って来た時に対面居座ったことが始まりだった。


「何で逃げんのよ。久しぶりに会ったんだから隣にいたっていいじゃない」


 少し不機嫌な感じで詰め寄ると、彼は戸惑った表情を浮かべる。この表情で私はそれ以上、先に行けなくなる。


 口数の少なくなった彼に私は不安を感じていた。どうしたらいいのか、どうすべきなのか。友人に相談し、一人で悩み、解決する事なく涙を流す。涙と一緒に不安が流れ出てくれたら、どんなに良かっただろう。

 思いは皮膜となって私に張り付く。薄い重みが私を不安にさせた。はっきりさせたい。でも、それが怖かった。それでも時は経ち、先に進むしか道はなかった。私の中で圧し潰された思いは言葉となり、恐怖や不安が怒りに混ざる。


「どうして、あなたはいつも私を前にいるのよ。恋人なら私が横にいてもいいでしょ! それともあなたの横はもう誰かの場所なの?」

「お前以外にいる訳ないだろ」


 彼は大勢の前だと中央にいるタイプではなかったし、少し近づき難い雰囲気の時もあった。それでも大学時代は密かにモテていたのを私は知っている。


「じゃあ、なんでよ」

「なんとなくかな……」


 いつもの喧嘩なら、このまま有耶無耶のままに終わっていただろう。でも、その日は違った。


「もしかして、別れようとか思ってんのか?」


 私は彼の顔を真正面から見た。冗談とも真面目とも言えない表情で彼も私を見ていた。


「バカじゃないの」


 私は呆れた表情で言う。分かれという言葉を聞いたことでそれは現実実を帯び、急激に寂しさが溢れた。


「本当にあなたって……」


 言葉が続かず目が潤む。これまで喧嘩がなかった訳じゃない。それでも、何とかしようと頑張って来た。不安もあったが、いずれ結婚するのかもと漠然と考えていた時もある。そんな子供じみた考えの私が嫌になった。思っていた以上に彼との距離は開いていたのだと、涙が零れた。

 さっきまで戯れ会っていた事が嘘のように、部屋は静まり返っていた。


「このまま……」


 別れるのかなと嗚咽混じりに言い切る前に、彼の小さな声が音を立てる。


「掠れて見える。まだ時々だけど」


 彼の言っている言葉が解らなかった。平静を保とうとしたのか彼は大きく息を吐く。それでも、声は震えていた。


「目の病気なんだ。視力もだんだん落ちてきている。将来見えなくなるかもしれないってさ」


 彼は他人事のように言った。しかし、それが冗談でない事は彼の声で分かる。信じられない思いで私は彼へ顔を向けた。


「何よそれ、一度も言ってくれなかったじゃない」

「何度も言おうとしたさ! それで、別れると言われても仕方ないと思っていた。でも、お前を失う事が怖かったんだよ」


 彼は何かを耐えるように強く自分の手を握りしめる。


「ちゃんと見えてる間に、お前を見ておきたかった。暗闇の中にあっても鮮明に浮かぶように。お前の姿を、お前の表情を見ておきたかった」


 彼は顔を隠すように震える手で覆った。彼が泣いてるのを見るのは初めてだった。私が悩みを抱えていたように、彼も悩みを抱えていた。それが、違う悩みだとしても、私が悩んでいたように彼も私の事で悩んでいた。


「自分の事しか考えていない我儘な人間だって自覚している。このまま付き合っていても俺はお前の負担にしかならない。だからさ、もう別れよう」


 彼は涙の伝う顔で笑みを浮かべた。それはたまに見せる笑みとは違い、彼を弱々しく感じさせた。



 何時ものように空席の目立つ喫茶店に私は来ていた。四人掛けの席の一つに彼を座らせた私は、対面の席に腰を下ろす。


「隣に座ってもいいぞ」

「いいの私はここで」


 照れくさそうに言う彼に私は笑顔で答えた。


「見えてるんでしょ」

「もちろんさ」


 私が対面に座った事が解ると、彼は皺の増えた手を伸ばす。私も両手を伸ばし彼の手を包んだ。

 握り返す彼の温もりが私に幸せを感じさせた。

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