第5話 人から森へ
リュシーが涙目で俺を見ている。父親の拳骨で、たんこぶでも出来たのだろうか。
両手で頭頂部を押さえている姿は、いつもの強気に反して弱々しい。父親には頭が上がらないようだ。
ちなみに俺は死んだふりの最中である。仰向けに寝そべり、助けを求めるような視線は耳だけを動かして知らんぷり。
「聞いているのか!」
「はいー! きいてるます!」
「聞いています、だ!」
父親が言い間違いを逐一修正していくので、俺も勉強になる。普段の会話で困らない程度に話せるようになったが、丁寧な言い方は良く分からない。リュシーも勉強すれば良いのに。
朝食後は森で黄色に追われて来い、という父親の指示に真っ青な顏をしたリュシーは、食事も喉を通らない様子だった。
足元からリュシーを見上げる。
「リュシーは森に入った事、無いのか?」
「私もリオも無いよ……大人でも帰ってこない人がいるんだよ? 行くわけないじゃん。」
「そうか。」
「そうか、って。死ぬかもしれないのに! あんただって森に捨てられるのに!」
「そうか。」
「何で、そんなに落ち着いて!」
「リュシー。」
立ち上がり、体毛を揺らめかせながら言う。やはり吹き出すと少し疲れるが、人間を黙らせるには有用なようだ。
「俺が、どこで生きてきたと思ってるんだ?」
「ど、どこって……。」
―――――――――――
久しぶりに戻ってきた森は、2か月経ったが変わりない。
かなりの臭気を放つリュシーから出来るだけ離れるようにして、リードを引く。子ども思いの父親だ、朝食を食べずに赤い実をすり潰してリュシーに持たせたのだろう。
「近づくなよ、臭いぞ。」
「しょうがないでしょ! 怖いんだから、離れないでよ!」
「あ、そこ緑いるぞ?」
「え? どこどこ? いない?」
「おーい、置いてくぞー?」
「ま、待ってー!」
森で騒ぐなよな。リュシーから距離を取ったのは、森の匂いを嗅ぐためだ。
森で生きてきた俺にとって、今の森は静かすぎる。森の入口付近にいないのならともかく、ずいぶん進んできたはずなのに青や緑すらいない。そして、ニオイがしない。
青は鳥やネズミなどの小さな動物、緑は人の腰くらいの大きさの動物だ。見えない、という事は無い。1日くらいならニオイは残るはずだ、それが全くないとなると……いつからだ?
「ぬーん……くさぁ!」
「追いついたぁ、ほれほれー。」
汗でベトついたリュシーが俺を捕まえてくる。汚い、臭い、重いという素晴らしいステータスを持ちやがったな……。
前足で押し退けつつ現状を説明してやると、周囲を見て「そう言えば静かだね。」と呟いた。
「森で大きな音を出しても良い事は無いぞ。強い奴に気づかれるし、弱い奴には逃げられる。」
「う、騒ぎ過ぎって事?」
頷くだけで返すと、リュシーは顔を寄せ「分かった。」と小声で言った。臭い……リュシーの名誉のために言うが、口臭ではない。
手持ち
俺だけならどうにでもなるが、リュシーは足も遅いし、力も無い。青以下。黄色を探す事さえ厳しいんじゃないか? もう息が上がってるしな。
ガサガサと草をかき分けながら森の奥へ進んでいく。獣たちは、かき分けて進まない。
追われた時、確実に追いつかれるからだ。
緑鳥が頭上高く飛び立っていく様子を見送り、リュシーに問いかけた。
「リュシー、親父さんからもらったアレ構えとけ。」
「う、うん。」
茂みから顏をのぞかせると、リュシーの身長ほどの段差があった。そして……。
良く知っている魚のいない川だ。飲もうとすると逆に飲まれる川。どこにも続いていない川。
近づかなければ問題ない。
リュシーが構える金属棒に目をやる。杖代わりにされた哀れな棒には、いくつもの緑石と2つの黄石がはめ込まれていた。村には不釣り合いな代物。それを娘に持たせる意味とは。
「本当、無駄に手が込んでいるな……その棒。」
「ぜー、はあ。お父さんが持ってけって言うから。」
「ニオイと言い、その棒と言い……。」
「な、何?」
「はぁ。」
「何!?」と戸惑うバカ娘に、ため息しか出ない。親父さんガンバレ。
とりあえず流れない川には近づくな、と釘を刺して川から離れる事にした。黄色もいなかったしな。
後ろを向く過程で、ゾワっとした。視界の端に膨れ上がる水面が見えたのだ。気づかれる距離では無いはず。
なるべく自然を装い、リュシーを押しながら言う。大きな音を立てるなよ……。
「あ、そうだ。バカ娘。」
「自然に
「見た事があるのは何色までだ?」
「え? 緑、かな。空を飛んでいる緑鳥だけど。」
「そうか。歩きながらで良い、落ち着いて聞いてくれ。」
チラっと後ろを見ると、緑色の草食動物が丸飲みにされる所だった。後ろ足をバタバタとしている。良かった、俺たちには気づいていない。
このまま離れてしまえば、とリュシーを押し——真後ろに、いる。
リュシーが数歩、前を歩いている光景がやけにゆっくりと見えた。
全身の毛が逆立つ恐怖を感じる。これは、白じゃない。
ふわりと俺の後ろに降り立つ音で気づいてしまったリュシーは、それを見て戦慄する。
目を大きく見開いたまま胸の前で金属棒を握る姿に、俺は声が出せない。
ズン、っと湿り気と共に重みがのしかかる。全く歯が立たず地面に押さえつけられてしまった。
自分が食われる立場だと以前は思ったが、今はリュシーもいる。考えろ……。
いつ気づいた? いつ近づいてきた? どうする? どうすれば逃げられる?
必死で目と頭を動かして策を考える。
尻もちをついたリュシーは戦えるようには見えない。周囲には赤い実が成る木ばかり生えている。
ドロっとしたスライムのような無色透明の粘性生物は、赤い実の臭いが嫌いだ。
だが、俺は赤い実を食べていない。フンは意味が無い。
「いや、いやぁ……。」
「る、るしぃ。」
目をつぶってしまったリュシーの持つ金属棒の黄石が、淡く黄色に光り始める。リュシー……
粘液に埋もれていく体で何度か呼びかけると、揺れる瞳が俺を捉えた。
「撃で、るしぃ! ゴボッ!」
「……。」
声を荒げる俺を飲み込んだ粘性生物が、
金属棒の緑石が粘性生物へ向け、風を起こし臭気を浴びせる……が、外側を舐める風では怯まない無いらしい。やっぱこいつ、白より強い。
リュシーは金属棒を俺の方に向け、震えていた。いつの間にか広がっていた粘性生物が、足元や頭上から這いよっていく。動いてくれ……。
リュシーも絡めとられてしまうかに見えたその時。金属棒の先端から光が弾けた。
壁に激突したような衝撃を受け、俺は意識を失う
――――――――――
全身に痛みを感じて起きると、扇状に抉られた溝に寝ていた。離れた所にリュシーがへたり込んでいる様子が窺える。まだ頭がガンガンするぞ……。
粘性生物は、と周りを見ても所々に半透明のブニブニがあるだけだった。
まさか倒した? リュシーが?
足を引きずりつつリュシーの近くへ寄ると、俺に気づいたようだ。放心してたな?
「ありがとう、あと……どうすんだコレ。」
「あはは……初めてだったし、ほら、お父さんのだから。」
「言い訳は要らないから、謝っとけよ。」
「……はい。」
はぁ、折角の杖が先端から大きく損傷している。黄石は、こんな事になるんだな。気をつけよう。腰が抜けたらしいリュシーをそのままに、周囲を警戒するが何もいないな。
疑問に思ったことを聞いてみる。
「それにしても、森に娘を一人で送るのは当たり前なのか?」
「当たり前、ではないよ。森で追われて来い、って言うのは頭を冷やしてこいって事だもん。門の近くにいれば門のおじさんたちもいるし。」
「じゃあ何で森に入ってきたんだ?」
「……えへ。」
このバカ娘。
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