卑弥呼は百済人説

 三国時代の魏国は、倭国の宝を求めて朝鮮半島まで進軍した。宝は、不老長寿の妙薬と皇帝を象徴する翡翠の勾玉。勾玉は、交易交渉であっさり手に入った。しかし、不老長寿の薬が見つからない。交渉をした邪馬台国の卑弥呼は、勾玉を出すことはできたが妙薬のことは分からなかった。魏国の使節は、不死の妙薬を求めて大阪の境まで足を延ばしている。


 魏国が、朝鮮半島に進出した時代、百済は攻め落とされていない。魏国は百済を侵略するために来たのではなく、倭国とつながりを持つために百済と交渉した。その代表が卑弥呼だった。彼女はシャーマンで、美しい女性だった。この時魏国は、欲しい宝の一方を手に入れることができた。皇帝の証たる翡翠の勾玉だ。これで、曹操は、天下を取れる。しかし、不老長寿の妙薬は、無かった。


邪馬台国は、魏国に翡翠の勾玉を二つ差し出すだけで、多くの利益を得た。魏国は1つでもすごいのに2つも出した邪馬台国を一国と認めて交渉を粘り強く行っている。その交渉を取り持つ百済に行くために魏国は、高句麗を滅ぼした。そして百済に向かう道中に平壌と漢城(ソウル)という砦を作って百済への道を作った。卑弥呼は、魏国が求めるもう一方の不死の妙薬の話を知らなかった。もしかしたらあるかもしれないと魏国の使節の気をずっと引いていたと考えられる。卑弥呼は百済人だったので、こういう言い回しができたのではないだろうか。勾玉一つで、戦争をするに足る馬を手に入れられる。邪馬台国は、翡翠の勾玉と引き換えに、馬を大量に手に入れた。こんなおいしい話を逃がすわけにいかない。


 魏国の使者は、シャーマンである卑弥呼の交霊の言葉に不死の妙薬があるかもしれないと希望を得て、大阪の堺市まで足を延ばした。ここは当時、ウガヤ天皇が治める地で、いろいろな言い伝えがあったからだ。


 なぜ魏国は、倭国に不老長寿の妙薬があると思っていたかというと、大陸に住んでいた倭国人が長生きだったからだ。大陸の人間は肉食で、肉ばかり食べていた。肉食なので大柄で、力は強かったが短命だった。それに比べて今でもそうだけど、身長は低いものの倭国人は長生きだった。魏国のトップになった身長の低い曹操が、この秘密を欲しがらないわけがない。

 長生きの秘訣は、簡単に言うと大根とかの野菜もバランスよく食べていたからだ。その頃、もう米食中心だった倭国人は、主食の米飯のおかずとして、魚も野菜も肉も適度に取っていて、長生きだった。海と山が近いという日本の自然環境と、野菜も食べろというウガヤ天皇家の教えがそうさせていた。しかし、魏国の人々の目には、奇跡にうつった。今でこそ80歳まで生きるのは当たり前だが、当時の大陸の人々の平均寿命は40歳ない。それなのに、日本も平均年齢50歳ぐらいだったことだろうが、80歳がゴロゴロいる。それも平民に多いのだから驚きだ。八百万の神、逸話が出るわけだ。これが出た当時の日本の人口が八百万人だった。

 卑弥呼は、シャーマンの交霊術で、魏国と交渉した。だから魏国は、日本に特別な宝があるのではと思い込んだ。


 魏国の使者が堺市まで足を延ばしたのに慌てた邪馬台国の幕府は、これ以上使者を東に行かせまいと、貰った馬を使って、ウガヤ王朝の領地だった近畿一帯を奪った。なぜなら、勾玉の生産地は蝦夷(首都であり生産地は新潟)で、ここまで行かれると、自分たちが相手にされなくなるからだ。たった2個で、大陸の巨大国から、巨万の富を得たが、日本の事情に精通されると、底の浅はかさがばれてしまう。使節には、これ以上進んでもらいたくなかったというのが正直な所だろう。大和国は、元々ウガヤ王朝と敵対していた。侵略をしたくて馬も手に入れた。機は熟したが、首都の大分を攻めないで、近畿に足を延ばしたのは、こういう経緯があったからではないだろうか。


 邪馬台国が、後の大和王朝なのは裏付けしやすいだろう。魏国との交渉の代表に選ばれた卑弥呼がシャーマンなら、全てのピースが綺麗にハマる。シャーマンは相伝で、家督は、女しかなれなかった。だから、立場は一族の長という立場になる。魏国の望みの半分を出せた邪馬台国は、卑弥呼の占いと祈祷で、不老長寿の話を煙に巻いた。百済は、倭国で台頭した邪馬台国=大和王朝と姻戚関係を結んだ。シャーマンの家督の関係で、姉が卑弥呼、弟が大和の王となった。それは、後も変わらない。つまり卑弥呼が天皇家と結婚したことになる。ウガヤ王朝を滅ぼした大和王朝。しかし、名士であるウガヤ天皇家を滅ぼすことはできなかった。そんなことをしたら、日本中が敵に回る。だから、天皇家を大和王朝の象徴として残した。卑弥呼は、その天皇家に輿入れした。百済人であったシャーマンである卑弥呼は居なくなり、倭国の皇后となった。名誉は天皇家、実権は大和王朝。これが、今の体制の始まりだ。


 後に、中国の使節が日本に来たとき、大和朝廷幕府は、境の仁徳天皇陵近くに使節を上陸させ、首都を訪問させている。世界最大の古墳で使節の度肝を抜いて自分たちに好奇の目を集中させるためだ。それも首都は、天皇の代が変わる度に遷都している。中国使節団が勾玉を作っているのが蝦夷の人で、直接交渉できるという真実に近づくのをごまかす為だ。勾玉がほしかったら、幕府を通せという話。卑弥呼は皇后になったため、卑弥呼というシャーマンは居なくなった。

 古代の葬式は、皇后が仕切り、モガリの式を行った。(古事記から見る古代の葬式)モガリとは、鳥を生贄として、八日八夜遊んで騒ぐというもの。これは、死後人間の霊が鳥に移るという信仰に由来する。日本人とは違う文化だ。これが行き過ぎて、垂仁(すいにん)天皇のころになると、死者に仕えた者たちを集めて、全員生きたまま陵のまわりに埋めた。まさに大陸文化。彼らは、何日間も死なないため、うめき声が聞こえた。やがて死んで腐っていくと、犬や鳥が集まってそれを食べたとある。モガリの神髄なのだろうが日本に馴染むものではない。これを憂いた11代目垂仁天皇が、人を埴輪に置き換えた。モガリは、大陸の肉食の人たちの伝統だろう。百済と大和王朝のつながりの深さを感じさせられる。古代の皇后が取った葬式は、日本人にはなじまない内容だった。

 後の世に、新羅が百済を攻めたのに対して、大和朝廷は、663年当時では最大限の3万の兵を白村江に送った。しかし新羅に味方した唐軍13万に敗れて、大和朝廷幕府の力は失墜。天皇家が代わりにしりぬぐいをすることになる。この時、百済の王族は日本に逃げて定住している。親戚だったのだ。百済人は日本人となった。


 天皇家は今でもそうだが、男系で嫁に制限はない。家系を紡ぐために、側室も多くいた。天皇家は、今でも途切れることなく続いている。

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