マル

秋都 鮭丸

始まりは夏だった

 始まりは夏だった。鳴りやまない蝉の声に、地平線がゆらゆらと揺れていたのを覚えている。もう落ちかけた陽の赤が、空一面を染めていた。

 そんな中で、こいつは分厚い毛布にくるまっていた。路上の端に縮こまった段ボールは、アスファルトの熱で今にも溶け出しそうなほど。捨て猫と呼ぶ他ないほどの捨て猫に、私はうっかり立ち止まった。思えばこれがいけなかった。

 恐る恐るその毛布を払うと、黒い毛玉が姿を見せた。その猫はぬいぐるみのようにぐったりとしていた。生きているのが不思議なくらいだ。急いで連れ帰り色々と施した。水を与えてみたり、牛乳を与えてみたり、鰯を目の前でぶら下げてみたり。その猫は微かな反応を見せ、次第に回復に向かっていった。もうきっちり立ち上がり、ぴんぴんして歩き回り始めたころに、その口は不自然に動いた。

「助かったよ」

「そうか」私は思考を介さず返事をした。「そりゃよかった」

 さて、散らかった部屋を片付けるか。そう視線を動かしたとき、ようやく思考が追い付いたらしい。私はそのまま石像の如く停止した。

 喋った?

 いやいやまさかそんなはずはない。私も熱にやられて幻聴でも聞いたのだろう。そう思い直すことにした。そうさ、そうに違いない。無理矢理自らを取り戻そうとする私に、さらなる言葉が降りかかる。

「おや」

「今更驚いたのかい」



 そんなファーストコンタクトから早半年。風はすっかり凍てつき、澄み渡る空が肌に痛い、そんな季節が巡ってきた。こいつは相変わらず私の部屋に居座り続け、こたつの中に潜む丸クッションと化している。私が突っ込んだ足を、邪魔だと言わんばかりにくすぐり倒す。いっそこたつを閉まってみれば、私のいない間に自力で引っ張り出してきやがる。ここの家主は私だぞ。そんな主張も意に介さず、そのふわふわな尻尾をゆらゆらさせて知らん顔するのだ。

 こんな悠々自適な居候、さっさと追い出したいものだ。私がその旨を口にすると、決まってこいつはこう返す。

「何を、君には返さねばならぬ恩義がある。それを返さぬまま、おいそれと立ち去るなんて、できかねるなぁ」

「その返す恩義をどれだけ積み重ねる気だ。お前がケツでも振れば満足だ。そら行け」

「それじゃあ満足しないね。恩義を返すって行為は、恩義を受けた側が満足するためのものでしょう?」


 その日はしばらくぶりの雨が降った。外に出るのも億劫になり、水滴の垂れる窓ガラスを眺めて暇を潰していた。

「なんとも不毛。なんの益もないなぁ」

 毛玉がのそのそこたつの中から顔を出してこちらを見る。私はそれを一瞥して投げ返す。

「液ならガラスの向こうに溢れているだろうに」

「なら向こう側に行くべきだと思わない?」

「お前はまずこたつの外側に出るべきじゃないか?」

「極楽から逃げるなんて馬鹿のすること」

「じゃあ、この雨に飛び込むなんてのも馬鹿のすることだろう?」

「あ、こら。ずるいぞ」

 猫のひげがひくひく動いた。

「ずるいもんか。理論通りだ」

 むーっと頬を膨らませ、猫は再び極楽に潜った。どうやら反論できなかったらしい。すん、と黙り込んでしまった。


 窓ガラスから滲む冷気が、じんわり身体に染み込んでくる。どうしようもなく寒くなり、いそいそと窓から距離をとった。

「お邪魔するよ」

 こたつの中にするりと足を差し入れる。中にこもった極楽の温度が、私を先から暖める。

 やがて毛玉にぶつかる。冷えた足先を押し付けてやると、こんにゃろっ、と中で声がする。そのまま足をくすぐるもんだから、思わず声をだしてしまう。

 渇いた部屋に響く笑い声。


 始まりは夏だった。

 終わりはいつだろう。

 こなければいいな。


 吐いた息は白く、窓ガラスを少し、曇らせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

マル 秋都 鮭丸 @sakemaru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る