第8話:遭遇
「火を消せ! 狙われるぞ!」
「大声を出すな!」
住民たちの反応には、ばらつきがあった。他人を蹴倒してでも、身を隠そうとする者。物珍しそうに、ぼんやりと眺める者。
事情を知らないカズヤは、後者と同じだ。しかしどうやら、危険な相手だというくらいは分かる。それでもそこまで慌てるのかと、不思議に思った。
日本でカズヤが目にしたことのある中では、二千数百メートルという山が最も高い。対していま見えている光の位置は、それよりも明らかに高かった。そんな場所に居る相手を、どうして怖れねばならないのか。
「しかし――俺は放っといていいのか?」
事情を聞こうにも、既に見張りは居なくなっている。逃げれば殺すとか言っていたのに、適当な扱いだと呆れた。逃げていく住民は大勢居るが、カズヤのことなど気にもしていない。柵近くに置かれた篝火も、まだ点いたままだ。
この機に逃走する案も、あるにはある。しかし柵を硬く結んだロープは、ワイヤーであるかのようだ。とても素手で、しかも縛られたまま、どうにか出来るものではなかった。手頃な大きさの石でもあればと探したが、それも発見するには至らない。
「ああ、めんどくせーな……」
ぶつぶつ言っていると、近くに人の気配を感じた。振り返ると、何者かが柵の入り口に立っている。見ればどうやら、ロープを解こうとしているらしい。
「クソッ。どれだけ硬く結んでるんだ」
「おい」
「待ってくれよ、いま解くから」
とうに逃げたはずのジュネだ。話しかけても、全力をロープに傾けているようで、視線を全く動かさない。ぎりぎりと軋む音が、どれだけ本気であるかをカズヤに伝えた。
「お前は逃げなくていいのか?」
その必死さが、ますますカズヤを冷めさせる。対岸の火事と言うが、あれはそんな距離でさえない。文字通りに、山一つ先くらいだ。
それが暢気な風に聞こえてしまったかもしれない。ジュネはちらとカズヤを見ただけで、なにも答えなかった。
「なあ。あれは、なんなんだ? あんな遠いところに居るのを、そこまで怖れる必要があるのか」
「……そんな風に言うなよ。お前を置いて逃げたのは、悪かったよ」
どうも厭味に受け取られたらしい。そのつもりはなかったが、なるほど彼はカズヤの身を案じて、戻ってきてくれたのだ。
そんな相手に、助かった、いい奴だ。と考えるくらいの感受性は、持ち合わせていた。
「いや、助かるよ。そういう意味で言ったんじゃなくて、本当にどうしてかと思ったんだ」
「あそこからここまでなんか、雷禍の翼なら一瞬だよ」
ジュネは機嫌を持ち直して、教えてくれる。しかし自分で言ったことに危機感を増したように、必死さが増す。
雷禍とは、翼を持った生物らしい。けれどもそんな速度で移動出来るとなると、ただの鳥などではないだろう。
こういう世界なら――まさか、ドラゴンか。いきなり?
小説でもゲームでも、ファンタジー世界の最強種と言えばドラゴンだ。普通そういう相手は、終盤近くとか魔王の側近とかだろう。
どうして昨日今日でこの世界に来たような、新米の自分が出会うことになるのか。
「クソ、あの女。すぐに死なれたら意味がないって言ったよな――」
「ああもう。ダメだ、待っててくれ。刃物を探してくる」
まだ見ぬ雷禍の姿を想像している間も、ジュネはロープと格闘していた。ほんの少し緩んだらしいが、解けるには遠い。
額の汗を拭うジュネを見て、カズヤは気付いた。どうしてそんな簡単なことをと、ジュネにも自分にも呆れながら。
「おい、そこの火で焼き切ってくれ」
「――ああ。賢いなお前!」
褒められても恥ずかしい。いいから早くしてくれと願うカズヤだが、ジュネももたつきはしない。彼からすると柵の反対になる、篝火に走る。
「火を消せと言ってるだろうが!」
派手な音を立てて、炎を抱えていた鉄籠が倒された。散らばった薪も、丁寧に踏みつけられていく。
ほとんど一瞬のことで、顔はよく見えなかった。しかし見張りに付いた誰かではなかったと思う。
その男は柵の中のカズヤに向かって、まだ文句を言っている。
「大きな音を出すなとも聞いたけどな」
偉そうな態度に、カズヤも憤りを隠す理由がなかった。
手を触れるのも叶わなかった物を、そう言われても知ったことか。人に言う前に、自分はどうなんだ。
誰しも他人の粗はよく分かる。今のカズヤもそうだった。
思わぬ反撃ではあったのだろう。男は、そのまま逃げていった。しかし怖れをなしたのではないと思える。もしもそうだとしたら、まだ山頂付近に居る雷禍に対してだ。
「いやあ……お前、よく言い返せるな」
「はあ? 腹が立つじゃないか」
「俺はダメだなあ。相手が本気で怒ってると思ったら、なにも言えねえや」
ジュネは無謀にも、柵の細い丸太で身を隠そうとしていたらしい。灯りがなくなっているのだから、どちらにしてもそれほどの意味はないのだが。
「そんなことはいい。早くどうにかしてくれ」
「あっ、そうだった。やっぱりなにか道具を探してくるよ」
柵を挟んで話す二人のすぐ傍で、木戸をノックするような乾いた音が、一つ聞こえた。
それがなにかは、視界の端に見えている。柵の丸太に、棒状の物体が刺さったのだ。
「おっ、ナイフだ。運がいいな」
ジュネが抜いたそれは、手の長さほどの短いナイフ。そんな物が、運のあるなしで飛んできてたまるかと思う。
しかしその持ち主は、現れる気配がない。
「よし切れた。とりあえず、俺の隠れ家に来いよ」
「いいのか」
扉を出ると、急に空が高くなった気がした。こんな柵など、視覚的にはほとんど障害にならない。それなのにだ。
手を縛るロープを切ってもらうと、伸びもした。
「早く。こっちだ」
「ああ」
今日というそれほど長くない時間の中で、誰かに急かされるのは二度目だった。どちらも他人から強要されたと言えば同じ。それはカズヤが忌避するものの一つだ。
しかし実際そこに含まれる意味は、全く異なっている。早くしろなどと誰かに言われて、カズヤが怒りを覚えなかったのは、遠く久しい経験だった。
「隠れ家って言ったか?」
「ああ。狩りの道具を置いてるんだ」
それは単に、道具置き場と言うのではと考えた。けれどもそういう否定的なことを、いまジュネに言おうとは思わない。
少なくとも、岩穴よりはましだろう。そんなことも考えつつ、急ぎ足でジュネのあとを追う。
どうやら、町の外に出るらしい。門にはかんぬきがされているものの、見張りが居ない。ジュネは慣れた手つきで、それを外す。
門が開いたところで、彼は山のほうを振り返った。カズヤも釣られて、同じ方向を見る。
「来たっ」
「え。雷禍ってやつか?」
ジュネの呻くような重々しい言葉に対して、その問いはいささか軽薄に響く。自身もそうと感じたが、命の危険に晒されたことのないカズヤに、それ以上は白々しい。
先ほど見ていた辺りを探すと、たしかに光は見当たらなかった。だからそのまま、視線を下げていく。
――居た。
もはや見上げる必要などない。町の向こうに、明滅する白い光の束が見える。
まだ幾ばくかの距離があるのだろう。彼我の間に、森林が横たわっている影も見て取れた。
「まずいよ。急ごう」
「あ、ああ」
光はまっすぐ、こちらへ向かっているようだ。時折、振り返りつつ、ジュネは足を急がせる。全力では走れないカズヤを、気遣っているのが分かった。
痛みを堪えられる限り、カズヤも走ろうとした。ジュネがどうこうという以前に、なんとなく危機を感じ始めていたからだ。
カズヤの耳に届く、不気味な音。雷に特有の、ゴロゴロという音。
それが往年のパニック映画のBGMのように、恐怖を掻き立てていく。
「これか?」
道を逸れて草むらに入っていくと、小さな小屋があった。中の広さは、さっきまで入っていた柵よりも狭いだろう。
「そうだよ。入って」
入り口に扉はない。ござのような物が吊るされているだけで、ジュネがそれを捲ってくれる。
と。
突風が襲う。二人の背後、町の方向から。
見るとすぐそこに、光の渦があった。低く唸るような、太鼓を打ち鳴らすのにも似た音を撒き散らす。
眩い光は、数え切れないほどの雷であるのも分かった。
――いや、まだ遠い。先にある森を抜けていない。木々の生えるすぐ上を、舐めるように、町の何倍も広い範囲を照らしながら近付いてくる。
「来た……」
正真正銘、目の前を通り過ぎようとした時。そのカズヤの呟きは、目の前に居るジュネにも聞こえなかったのは間違いない。
薄いテーブルを、平手で思いきり叩いたような音。あるいはドラマや映画などで聞く、拳銃の音。それらを、すぐ耳元で鳴らされたかのようだ。
耐えた鼓膜を褒め称えたくなるほどの、高い破裂音。それが幾重にも重なり、相乗してまた甚大な轟音となる。
聞こえたと思い、耳を両手で押さえた時には、光は既に通り過ぎていた。巨大な鉈で、大地が割られているかのようだった。
激しい光の槍が眼球を刺し、目の前の全てが白に塗れた光景は、天使を名乗った女を思い出す。しかしそれでさえ、今はなにも感じないほどに呆然とした。
「今のが……雷禍、なのか」
「そう、みたいだ……」
もうその光は、向かった先の山を登っている。視界に占める面積は、ぐんぐんと小さくなっていく。それは今日、カズヤが下ってきた山だ。
航空ショーなどで見る、戦闘機の速度に匹敵するかもと思う。
幸いに、雷禍は町を通らなかった。カズヤたちからすると向こう側を飛んだのだが、こちら側であれば間違いなく命はなかった。
絶対の死、などと生温いものではない。一人や一匹、一つの物など歯牙にもかけない、問答無用の滅び。滅亡そのもの。
カズヤは、ジュネと二人。その場に崩折れ、震えて泣き咽ぶしか出来なかった。
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