第5話:町へ
冷たい空気が頬に触れる。エアコンの冷風や、冷蔵庫の冷気とは違う。言ってみればただの風のはずなのに、誰かの指が触れたように感じた。
「う……」
「ちょうど起きたね。目覚めは、いいほうかい?」
見慣れたマンションではなく、岩穴の中。独り暮らしのはずが、焚き火をつつく男が居る。
そんな一瞬の混乱はすぐに治まって、目の前の光景が現実になったのだと思い出した。夕食を買いに出かけたはずが山賊に襲われ、臭いスープを飲まされたのだったと。
「ゆうべのスープがまだあるけど、食べられそうかな?」
マシェの兄。もう一人の男よりも、かなり優しげな顔をしている。
ぼうっとそんな印象を感じていたカズヤは、深く考えずに頷いた。しかしすぐに、それが臭いスープだったと思い出す。
いらないと言おうとしたが、もう目の前に器が突き出されていた。機会を逸して、渋々と受け取る。
「ええと……」
周りを窺う振りをして、スープを顔から遠ざけた。すぐ先に、焚き火とは違う白い光が差している。日光だろうか。
「ああ、マシェとマクナス? 悪かったね、なにも蹴飛ばさなくてもいいだろうに」
「蹴飛ば――なるほど」
どうやら気を失ったのは、それが原因らしい。マシェではなく、もう一人の男、マクナスにだろう。
あの男の気性は荒そうで、逆らっても得はなさそうだ。それなら、放っておくほうがいい。苛つく気持ちを、損得の勘定で押さえ込む。
「二人で水を探しに行っているよ。そろそろ戻ると思うけど」
「水?」
「君は、酒を受け付けないみたいだからね」
探すということは、川などがあるかも分からないらしい。どうしてわざわざそんなことをと、不審に思う。
スープの器を遠くに置いたり、むせているのに酒を飲ませたり。その嫌がらせのような行為と、釣り合いが取れない。
そういえばこの男は、すぐ近くまで来て、器をしっかり持たせてくれた。
「あんたが探しに行けと言ったのか?」
「いや? マシェが行くと言ったんだ。まあ確かに、マクナスは無駄な労力だと言って、僕は頼むと言ったけどね。ガイルの革、というわけさ」
男はそこで、ひとしきり笑った。きっとガイルの革というのが、笑える逸話かなにかなのだろう。
しかしカズヤには、なにが面白いのか分からない。
「――もしかして、マシェが意地悪をしたと思っているのかい?」
笑いが治まって、男はカズヤの表情を窺っていた。それからおもむろにそんなことを言われて、なんと返したものか言葉を見失う。
人の良さそうな顔をして、聞きにくいはずのことをはっきりと聞く。カズヤは、こんな質問を受けたことがなかった。
「いやまあ――」
「ははっ。君は正直だね」
正直者。そう評されたのも、初めてだ。貶したのでないのは分かるが、喜べはしない。
カズヤに取ってそれは、思慮が足りず世渡りの下手な人間を指す。
「あれは僕とマクナスの言ったことだよ」
「あんたまで?」
「ああ、僕はグラーディオ。グランと呼んでくれていい」
名前など、どうでも良かった。こんな見ず知らずの自分に、嫌がらせしかしない連中となど、これ以降を共に過ごすつもりはない。
「君の手が届く範囲には近付くな、と言ったよ。たしかに僕がね。ただそれは念を押しただけで、彼女もそうするつもりだったと思うよ」
「そりゃあ随分と嫌われたもんだ」
「当たり前だろう。僕たちは、君を知らないんだから。実は君は、行き倒れた振りをしているだけの野盗かもしれない」
他人の親切心を利用した犯罪は、日本にも多くある。その理屈は、カズヤにも理解しやすい。しかしそれと同類に思われていると知って、怒りが湧いた。
罪に問われるようなことなど、なにもしていない。万が一、知らずにしていたとしても、会ったばかりのこの男に責められる理由はない。
「俺が、そんな悪さをする奴だと? ひどい言いがかりもあったもんだ」
怒りに任せて言うつもりが、急遽として語気を弱めた。
グランは、カズヤと同じような体格をしている。そのために侮っていたが、昨日の山賊たちを思い出したのだ。
あれらもやはりカズヤと同じか、むしろ小柄な者たちも居た。
それでも、気安い動作で蹴られたり小突かれたりしただけで、カズヤの身体は山賊たちの間を翻弄させられた。
彼をボールにして、キャッチボールでもしているかのようにだ。
「……うん。どうやら君は、この辺りの人間ではないようだ。それに少なくとも、僕たちのような平民の身分でもない」
勢い弱まっても、悪態には違いなかったカズヤの返答。それきり少し黙っていたかと思えば、グランはそんなことを言い出した。
「どうして分かる――」
「まあ色々とね。取りあえずその、世間知らずな話し方かな」
「世間知らず、ね」
「すねてくれるのは構わないけど、質問には答えてもらうよ。君はどこから来たんだい?」
口調も含めて、優しげな物腰は変わらない。しかし「知ったことか」と撥ねつけにくい、押しの強さがある。
大学の教員でも、こういう話し方をする者が何人か居た。それらを残らずカズヤは嫌っていて、例外なく他の学生からの人気が高かった。
「そんな奴と話してもムダだ」
岩穴の入り口から、大きな声が響いた。見ると、ゆうべ剣を抱えていた男が、岩陰から姿を覗かせたところだ。
「やあマクナス。手間をかけたね、水は見つかった?」
「それもムダなことだったな」
「見つからなかった?」
マクナスは睨むような一瞥をカズヤに向け、顎で後ろを示す。
彼の後ろから、マシェも姿を見せた。風呂敷のように何かを包んだ布を、両手で持っている。
それは地面に置かれ、開いた中からたくさんの木の実がこぼれ出た。カズヤに見覚えのある物はないが、野いちごのようでうまそうだと思える物もあった。
「たくさん採ったねえ」
「綺麗な泉もあったのよ」
彼女は例の革袋を、腰に二つ提げていた。どうやらそれに、水をたっぷり汲んできたらしい。
一つだけでも、一リットル近くはあるだろう。それが二つと、たくさんの木の実。重いだろうし、こんな岩穴があるような場所では歩きにくいに違いない。
「どっちが世間知らずだ。女にこれだけ持たせて、男は手ぶらって」
「へえ。そういう気は回るんだな」
いかにも見下した、皮肉たっぷりの笑い。マクナスは木の実を鷲掴みに持っていって、壁際で食う。種や皮は、周囲に撒き散らした。
「気遣ってくれて、ありがとう。でもマクナスの手を塞ぐと、剣を握れないから」
「ああ――」
それはその通りだった。どんな相手が居るのか知らないが、剣でしか対話出来ない相手が、荷物を置くまで待ってくれるはずもない。
「はい。この水袋は、しばらくあなたが持っていていいわ」
近付けられただけで、冷気を感じる革袋。それがすぐ鼻先まで差し出された。
「今日は警戒しないのか」
「ええ。あなたは用心しなくても――」
言いかけたマシェが、口ごもる。少し迷うように、視線を兄に向けた。グランが黙って頷くと、またこちらへと帰ってくる。
「悪い人じゃないみたいだから」
「それはそれは」
なんだか分からないが、本来言おうとしたこととは、別の言葉に差し替わっているようだ。
しかし聞いたところで、正直に答えるはずもない。カズヤはただ、冷たい水を喉に流し込んだ。
◇◇◆◇◇
太陽が決まった方角から昇って、真上辺りに来れば昼というのは同じらしい。カズヤの常識と違うのは、彼らは昼食をとらない。
「やっぱり、どこかの貴族のバカ息子か」
「いやどうも、貴族でもなさそうだよ」
「それなら、でかい商人の坊やか。どのみち、なにかやらかして追放されたとかだろうが」
昼メシは食わないのかと聞いただけで、そんな会話がなされた。あの岩穴を出てから、歩きづめなのにだ。
道は概ね、なだらかだ。時に荒れた場所もあるが、緩やかな下りの山道が続く。おかげで怪我をしたカズヤでも、なんとか着いていくことが出来た。
なにも食べていないわけではない。朝の木の実が残っていたので、四人ともそれを食べた。
パンもあると言われて、アンパンほどの厚みを持った、煎餅のような物もなんとか腹に入れた。しかしこれでは、安い食堂のランチにも満たない量だ。
腹が減ったと思えば、すぐにでもインスタント食品のある暮らし。それに慣れたカズヤには、なんともひもじい。
そもそも、町までは近いと聞いていた。そこまでは案内してもらわないと、カズヤが困る。だから気に食わないこの連中にも、耐えているのに。
「ねえ。カズヤは、どこから来たの?」
すぐ後ろを歩いている、マシェが聞く。年ごろはカズヤと変わらないだろうに、長い髪を後ろに縛って、化粧っ気もない。
カズヤが外国人の顔を思い浮かべると、映画女優などになる。それと比べると、目立って美しいということはなかった。
それにお節介だ。息を上げているのは分かるだろうに、どうして話しかけてくるのか。そう思わないではいられない。
「さあな。言っても分からないだろう」
「――そう。そんなに遠くから来たのね」
貴重な酸素を使って、なんとかひと息で答えたのに。マシェはそれだけで、あっさり質問を切り上げた。
しつこく聞かれるのも鬱陶しいが、それなら最初から聞くなと思う。
「もう近いが――休憩するか」
なにが気に入らないのか、マクナスは舌打ちしつつ言った。
彼の見ている先には、川がある。もう水袋をほとんど空にしていたカズヤには、僥倖としか思えないのに。
丈の短い草に覆われて、湿地のような河原をどうにか越える。清い流れを喉に含み、水袋も膨らませた。それからまた足を取られながらも、川べりから道端へと戻ってきたカズヤの耳に、聞きなれない音が届く。
地面を踏み鳴らす音ではあるのだろうが、カズヤが思いきり踏みつけたとしても、到底起きない。重厚なそれが、いくつも連なって聞こえる。
それがなにかは、すぐに分かった。カズヤたちの来た方向から、何者かが集団で駆けてくる。
「馬?」
騎乗した、鎧姿の男たち。ゲームやラノベでおなじみの、騎士だと思った。
しかし近付くにつれ、どうも印象が違う。いや彼らの職業ではなく、乗っている動物がだ。
四本脚で、全体的には馬に近い。しかし頭は、ウミガメのように見える。そこに角まで生えていて、なんとも奇妙だ。
「全員、止まれ!」
見送る四人の前を通り抜けざま、そんな指示が飛ばされた。その通りに彼らは速度を落とし、かなり向こうで足を止める。
「ちっ。なんの用だ」
毒づくマクナス。それを裏付けるように、彼らはこちらをちらちらと見ながら、話しているようだ。
そのうちに中の一人が、馬――のような生き物の頭を、こちらへと向けた。
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