第3話:知らない場所
見えるのは、ずっと白い光景だった。しかしふと、目が覚めたという感覚を得る。同時に、閉じていた目を開いたとも。
しかしその前後で、視界はなにも変わらない。床も地面も、近くも遠くもない。
区別がつかないのでなく、区別がなかった。
得体の知れない場所にも関わらず、恐怖はなかった。距離や方向と同様に、自分以外のなにもないのだから、その対象を認められなかっただけかもしれないが。
いや自分の存在も確かなのか、怪しくなった。足元と思うほうを見ても、なにもないのだ。
鏡などもないここで、自己を確かめる術はそれ以上に思いつかない。
「なんとなく理解した?」
突然に、声が聞こえた。女性的な話し方と声質だが、機械音声のようにも聞こえる。
その声は至極近距離で発せられたと思えたが、遥か遠くから叫ばれたようでもあった。いやむしろ頭の中に、声の主が居るのかもしれない。
「返事くらいしなさいな」
「──ええと、俺に言っているのか」
「君しか居ないでしょう」
また声がした。相手の居所はともかく、この状況がなんなのか聞かなければならない。彼女ならば、知っているに違いない。
相手の性別と立場を、勝手に決めつけた。
「ああ、私が見えないのね。変わるわ」
次の瞬間に、一八と同年代に思える女の姿が見えた。二歩ほどの距離。輪郭や凹凸だけで、表面は周囲の白と同じような不思議な身体。
見ると一八の身体も、同様の体裁で見えるようになっていた。手足を動かすことは出来るが、移動は出来ず自重も感じられない。
しかしこれで、距離と上下が生まれた。慣れた感覚に多少の安堵を覚えたが、ぬか喜びだった。
一八自身。或いは彼女自身に上下はあるが、相互に共通してはいない。
変わらないのは互いに正面を向き合わせて、目と目が合っている。それ以外は回り、捻れた。
ある瞬間から、次の瞬間。その一つひとつが、どれだけの時間かも分からない。長いようで、短いようで、決まりごとがなに一つ見つからない。
「そういうこと、ここにはなにもない。私と君の姿も、分かりやすくするために見せているだけ」
「俺は死んだのか?」
これだけわけの分からない所が、現実のどこかであるはずはない。そうなると自分は幻を見ているか、死んであの世にでも来ているのか、そのくらいしか想像がつかなかった。
「幻ではないし、死んでもいないわね。君はこれから行く世界に、適した身体に作り変えられるの」
「作り変える? 生まれ変わりというやつか」
「違うわ。作り変えるの。君に分かる言葉で説明しているのだから、素直に聞き取りなさい」
押し付ける圧も、怒りのような感情もその声にはない。いつもの一八ならば、なにを言っているんだと何度か憤慨しているだろう。
正確には苛とした感情の種のようなものはあったが、それを植える土が見つからなかった。
「するとあんたは、神さまかなにかか?」
「神ではないわ。君に分かる言葉だと、天使と言うのが近いでしょうね」
「なるほどな。でも死んでもないのに作り変えるって、どうしてそんなことになる?」
現実離れした話をしているのは、自覚していた。けれども仮の姿とはいえ身体があって、自我のようなものもある。
となると作り変えるという話が荒唐無稽で、いわゆるドッキリ企画のようなものではないか。最後には納得のいく落ちがあるのでは。
根拠はなくとも、そう考えるほうが合点がいく。合点をいかせたかった。
「どう考えるのも勝手だけどね、これは事実よ。君は今までとは違う世界に行って、これからの人生を生きるの」
「違う世界? 日本とかアメリカとか、そういう話じゃないってことか?」
「そうね。君が考えつく現実の中には、どこにもない。全く違う場所よ」
なるほど、そういうことか。
無茶な話には違いないが、一八をある程度納得させる説が頭に浮かんだ。
近ごろ流行りの、異世界転移というやつだ。トラックに撥ねられたのでもないのに、どうしてそうなるのか知らないが。
「まあ、間違ってはいないわ」
「すると俺は、神さまの手違いとかで元の世界に居られなくなって、どこかに行くんだな」
「手違い? 神が間違うはずがないでしょう」
異世界転移と考えても、間違ってはいない。そう言ったのだから、こちらの想定とずれがあるのは仕方がない。
「じゃあともかく。異世界に行って、そこで便利な能力とかをもらって、活躍すればいいんだな」
「能力なんて与えないわよ」
「いや。だって、身体を作り変えると言ったじゃないか」
「言ったわね」
どうもおかしい。一八の知っている異世界への移動は、神やそれに準ずる何者かの意図があった。人間はそれに振り回されたり、協力したりすることの見返りとして、強力なスキルなどをもらうものだ。いわゆるチートというのを。
「ああ分かった。最弱スキルと思われてるけど、使い方によってはすごいってやつだ」
「だからなにも与えないのよ」
「じゃあ、なんのために作り変えるんだよ」
「君の身体は、君だけの物じゃないの。内部には細菌やらなにやら居るし、外部も君の身体の影響を受ける。そういうのを、向こうの仕様に変えるの。向こうに生きる、普通の人間と同じにするだけ」
どうも本気で言っているらしい。本当になんのご利益もなく、どこか別の場所に行かされるようだ。
「ちなみにそこは、どんな場所なんだ?」
「君がさっきから考えてる、異世界のイメージでだいたい合っているわ。君の居た世界だと、中世から近代辺りに似ているわね」
言われて気付いたが、この相手は一八が口に出したことも考えたことも、同じに受け取っている。
神さまでないにしても、超常の存在であるのは間違いないらしい。
いやそんなことよりも、そんな所に行って生きていけるものか。その世界の右も左も分からないで、きっと剣や魔法やモンスターがあるのだろう。
普通の現代人である自分が、どうやって生きろというのか。
「知らないわよ、そんなの。その世界でだって、産まれたばかりの赤子は弱いわ。でもちゃんと成長する。君はもう大人でしょう?」
「赤子って。それは、親が居るからだろう。守ってくれる誰かが居ないのに、いきなり放り出されるなんて。赤ちゃんより弱い立場じゃないか」
そうだ。そんな理不尽な話があるものか。こんなものは、嫌がらせでしかない。
「いやね、嫌がらせなんて。これは罰よ。神なのだから、罰に決まっているでしょう」
「罰? 罰と言ったのか? 俺がなにをしたと言うんだ。どうしてそんなものを受けなきゃいけないんだ」
「ええ? だって君、親とか周りの同族とか、どうでもいいって生き方してるじゃない。みんなが自分のために役だってくれるのが当たり前、という風なね」
そこまで言われるほどだっただろうか。そうではないと思う。しかし、全く身に覚えがないとまでは言えない。
「どうして俺なんだ──俺より悪いやつは、いっぱい居るだろう。集団でいじめをしてる奴とか……それこそ人を殺しまくってる、独裁者みたいな奴だって居るだろう」
「居るわね。そいつらはそいつらで、別の罰があるんじゃない? そこまでは知らないわ」
「じゃあ、そいつらを先に当たってくれよ。神さまだって暇じゃないだろう」
神さまが一人なのか、たくさん居るのかは知らない。しかしどうであれ、こうやって天使と名乗る誰かが応対するには、数の限界があるだろう。それならば、より程度の悪いものからというのが、道理ではないのか。
「神を冒涜するのも、いい加減にしなさい。神はあらゆる所に居るわ」
「自由に移動出来たって、物ごとは一つずつ片付けるしかないだろう」
「あらゆる所に居る、と言ったの。君が考える、距離とか時間とか、障害と思えるものは全て除外しなさい」
それはつまり、同時にいくつもの場所に存在出来るということか。例えば百億の人間と、同時に話そうと思えば出来るということか。
「君が考えつく最も広い世界──宇宙の果てね。そこまでを、一つの世界だとしましょう。君の常識では、その世界の広ささえ分からない。
でもそういう世界は、一つきりではないの。どれくらいかと聞かれても、君が理解出来る概念では説明出来ない。
そのあらゆる場所、あらゆる時間に、神は同時に存在出来る」
途方もないとは、このことか。一八の知識にどんな言葉があるのかも、知って話しているらしい。
だから説明の中に、分からない言葉はなかった。文章としても、意味するところは分かる。しかしそれを、自身の新たな知識として受け入れられるかは、また別だ。
「俺がなにを考えて、なにをしているか、ずっと監視されていたということか」
「理解出来たわね」
「要するに、神さまの気紛れか? なんとなく俺が気に入らなかったから、見せしめに」
そういうことなら、まだ分かる。むしゃくしゃしている時、たまたま目にした些細な出来事が、どうしようもなく腹立たしいというのはあるものだ。
対象にされた一八とすれば、たまったものではないが。
「どうも分からないようね。どうして神が、君一人のことを、気に入ったり気に入らなかったりしなくてはならないの? 単なる実験よ。君の世界でも、実験動物というのが居たでしょう」
一八にそういう環境の経験はない。しかし想像はつく。実験用のマウスなどは、不特定多数の中から、ランダムに選ぶことに意味があるのだろう。
名前を付けて可愛がっている中から、泣く泣く提供したりはしないはずだ。
「なるほどね……まあ、それもいいか」
「急に受け入れたわね。周囲だけじゃなく、自分もどうでもいいの?」
「考えが読めるなら、言う必要もないだろう。それよりなんの実験なんだ」
「さあ」
教える必要はない。ならまだしも、「さあ」と来た。とぼけている様子はないし、その必要もないのだろう。
しかし元の世界に戻ったところで、これだけはやりたかったという、なにかがあるでもない。それならば正真正銘、誰も一八を知らない世界で、新しい人生を作るのもアリだと思った。
自分でもわけの分からず過ごした、子どもの時代の結果を生きるよりも、よほどいい。
それにしたって、なにかしらの技能はあってもいいと思うのだが。本当になにも、チートをくれないのだろうか。
「チート、チートとうるさいわね……そうね、放り込んですぐに死なれても意味がないから、会話だけは通じるようにしてあげる。それでいいでしょ」
「会話?」
「そう。話して、聞くことが出来るの。現地の公用語をね」
今のやり取りがなければ、言葉も通じないところだったらしい。
やはり感情を押さえつけられているように、怒りやそれに類する爆発は起きない。が、理不尽であるとかフェアでないとか、そういう単語は多く頭に浮かぶ。
「さ、それじゃ送るわね。さようなら」
「待て。せめてもう一つくらい──」
「いきなり言葉が通じるだけで、とんでもないチートよ。君は、足るということを知りなさい」
白色の中に、さらに濃密な白色。そんなものが一八の視界を塞いだ。
また気付いた時、今度は視界が真っ暗だった。しかしその向こうに光を感じる。そのつもりはなかったが、目を閉じているらしい。
「どこだよ、めんどくせーな……」
目を開けると、豊かな木々と草原が続くのみの景色。太陽や雲も同じ。
しかし日本の街で見慣れたような物は、なに一つ見付けられなかった。
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