第2話:狭間に落ちる
夏休みの里帰りを終えた
進んだ大学に通うため、便利の良い市街地に親が借りた物だ。それほど家賃は高くないはずだが、オートロックや宅配ボックスなどの設備が整っている。
自室の玄関を開けると、コバエが二、三匹出ていった。目には付いたが、特に何を思うこともなく中に入る。
短い廊下の先の扉は、半開きになっていた。一八が出かけた時のままで、不審はない。
しかしその扉を開ききると、異変が生じた。耳に届くかどうか、絶妙に煩わしい音量で、羽音が響く。薄暗い部屋の中を、至極小さな物体が縦横無尽に飛び交っていた。
「なんだよ──これっ!」
驚きからすぐに苛つきへと変化した言葉と共に、照明のスイッチを。明るくなったダイニングに、数十以上のコバエが黒い靄のように見えた。正確に数える意味はなく、両手でどうにか出来る相手でもない。床を踏みつけるように部屋を横切って、ベッドのある洋室へ入った。
境となる引き戸も、半開きだ。故にこちらにも、いくらかのコバエが居る。布団で一休みしている姿が癇に障って、ますます苛々が募った。
テレビの脇に置いている殺虫剤の缶を取って、そこら中に振り撒いていく。生命力の弱いコバエなど、昨今の強力な殺虫剤には為す術もない。
缶が冷えきって、持っているにはつらくなるほど続けた。それでようやく、飛翔する影が見えなくなった。
「ああ──」
コバエが大量発生した理由は、明白だった。里帰り前に食べた弁当や、カップラーメン。その容器や残飯が、台所付近に放置されたままだ。
思い出すと、里帰り直前にゴミを目にはしていたものの「このくらい、いいか」とそのままにしていた。
二ヶ月に一度、掃除や消耗品の補給をするために、母親がこの部屋を訪れる。掃除やゴミ出しのために、毎週来いと言えば来るだろう。しかしそうなればそうなったで、煩わしく思うのは分かりきっている。だから気が向いた時に、分別しないながらも、ゴミ出しくらいはやっていた。
「クソッ!」
苛立ちをそれらにぶつけて、ビニールのゴミ袋に投げ込んだ。すると中から、またコバエが湧き立ってくる。この様子ではコバエだけでなく、例の黒い奴も居るに違いない。
ああもう、ホント苛々する。しかしこいつは、スプレーじゃ間に合わないな。
「確かあったはず……」
今度は洗面室に向かい、洗面台の下の開きを見る。記憶通り、燻蒸型の殺虫剤が保管されていた。この部屋に入居してすぐ、他の雑貨と一緒に母親が買っておいた物だ。
どうせ食料を買いに行ったりする手間はある。その間、一時間ほども使用すれば、コバエを全滅させることが出来るだろう。
視界には、嫌な臭いを放つ洗濯物の山も見えた。
菌も虫みたいなもんだから、これで臭いも消えねえかな。
あり得ない話だと分かってはいた。帰宅して早々に面倒だと、萎えた気持ちがそんなことを考えさせる。
説明書には微妙に従わず、適当な量の水を注いだ皿に、本体を設置した。すぐに煙が出ないことに、また苛つく。壁に投げつけようとして、そういう物だと説明書きが目に入った。
ダイニングに放り投げていた荷物から、財布とスマホ、鍵だけを取り出して家を出る。
「なに食うかな」
家賃や学費の支払い以外に、一八は現金の仕送りも受けている。食費だけと割り切れば、毎月を生きるのに不足はない。
ファミレスやファストフードなどで腹いっぱいに食えば、たちまち財政が崩壊してしまう。しかしスーパーの惣菜や弁当で食いつなぐなら、十分な金額だった。
その補填にアルバイトをしてはいるものの、週に二日、四時間ずつ。それほどの余裕を上乗せするものではない。
一週間ほども実家に帰っていて、母親があらゆる世話を焼いてくれた。
食事は待っていれば出てくるし、途中で腹が減れば、菓子でもなんでも現れた。洗濯物はカゴに入れるだけだったし、布団のシーツも毎日替えられていた。
それが今の自宅に帰った途端に、自身の不始末で家を追い出された。これから食材を買って、当てもなく時間を潰し、また歩いて家に帰る。そこにはきっと、虫の死骸が大量に落ちているだろう。洗濯も、そろそろどうにかせねば。
それらを処理した上に料理をすることは、考えられなかった。
「めんどくせーな」
親にあれこれ言われるのが面倒で、目的もなく大学に入った。実家から通うのは難しく、帰ろうと思えば高速バス一本で帰れる。
そんな都合のいい距離感も、どうしたら自分が楽かと考えた結果だ。
なにが食べたいとも思いつかないまま、飲食店やコンビニの並ぶ通りに向かう。ぶらぶら歩いていると、見知った男女を見つけた。
「あいつら──付き合ってたのか」
顔は間違いない、覚えている。しかし名前が、山田だったか山上だったか。女のほうは……斉藤、いや坂本だっただろうか。
全く自信はないが、話しかけるのを躊躇う理由にはならない。
「よう。ここで会うのは初めてだな」
この二人とは、同じ講義を受けている。出会った最初に声をかけてきたのは、あちらのほうだ。
正確には二人を含む数人が話している近くに、たまたま席を取っていた。講義が終わって食事に行くとなって、近くに居たのも縁だと誘われたのだ。
しかし彼らとはその一回きりで、以降になにか誘われたことはない。構内のどこかで出会っても、挨拶以上の会話もない。
ここで会うのは初めてだが、この辺りが普段の行動範囲内であることも知らなかった。
「え、ああ……繪鯉くんか。偶然だね」
二人はチェーンのコーヒーショップに入るか、話していたらしい。表に貼られたポスターを見ている横から声をかけたので、驚いていた。
女のほうは声も出さずに愛想笑いをして、男は一八の視界から女を隠そうとした。
「邪魔して悪かったな。俺は気が利くんだ、すぐに消えるよ」
「いやそんなことはなにも──」
「ああ、言ってないな」
ろくに会話もしないのだから、付き合っているとかを聞く機会もない。分かっているが、寂しく思った。
身なりには、それなりに気を遣っているつもりだ。おしゃれと讃えられるほどではないが、清潔に見えるようにはしている。
そのために、洗濯だけは面倒でもやっているのだ。溜めている間に黄ばんだ物は、容赦なく捨ててもいる。
それなのに、どうして自分には彼女が居ないのか。そこまででなくとも、数人で遊び回る男女のグループが、自分の周りにあっても良いではないか。
そうでない現実が、どうしてなのか理解出来なかった。それを手にしている目の前の二人が、腹立たしかった。
「知り合いに会ったら、挨拶くらい出来るようになったほうがいいぞ」
そうだ、世間の常識は教えてやったほうがいい。これは親切というものだ。そして教えを説く者は、説かれる者に尊大な態度を取っていい。
一八の父は、人にものを教える立場だ。しかしその父が、思考の端にも置いたことのないような勘違いをした。見下すように薄笑いを浮かべながら、女に説教めいた言葉を与える。
筋書きでは、「そうね、教えてくれてありがとう」と女は考えるはずだった。なんならそのままを、口に出してくれてもいい。腹が立つのを置いて、言ってやっているのだ。それくらいはあって当然とさえ思えた。
しかし現実は、男女二人ともが眉根を寄せて、嫌悪の情を見せる。
「悪かったよ。用がそれだけなら、僕たちは行くから」
歩み去りながら、女が小声で「なんなのあいつ」と言っているのが聞こえた。男がなにやら言って、宥めているのも。
俺は親切で言ってやったのに。なんだあいつって、それは俺のセリフだ。
二人が去ったのとは、反対を向く。夕方の慌ただしい時間帯に入りつつあって、人通りは多い。
けれども親しい相手は、誰も居ない。そもそも名を知っている相手さえ、見つけられない。なんだか突然、世界から自分だけが隔離されているような錯覚に陥った。
「めんどくせーな……」
飲食店に入るのも嫌になって、コンビニで買い物をすませた。けれども家に戻るには、さすがに早すぎる。
こんな時アニメやラノベの登場人物ならば、高校生でも行きつけの店を持っている。深くものを考えずに一人の時間を過ごせるので、そういう物は好きだった。
「本屋にでも行くか」
飲食店は注文のために声を出さねばならないが、書店ならばその必要もない。必ずしも金銭を使う必要はなく、立ち読みだけで帰ることも出来る。
いつもは大学の帰りにそういう買い物をするので、自宅の至近に書店があるのを失念していた。
思い出した大型書店は、表の大きな通りに面している。いま居る通りを入り口まで戻って、ぐるりと回らなければならない。
面倒だが、地形を変える方法は残念ながら知らなかった。
「ん──こんな横道、あったっけ」
商店と商店の間に、人ひとりが通れるだけの路地がある。建物に挟まれているので、そこだけが夜に近付いたような暗さがあった。
しかし向こうに覗いている景色は、どうやら表の通りらしい。見ている間に一人入っていったし、通っても咎められることはなさそうだ。
誰が迷惑するでもなし。楽なほうがいいに決まってる。
それほどはっきり、哲学として思ったわけではない。あくまでぼんやり、そのような言いわけを自分に行なって、一八は路地に入った。
どこかの飲食店から、排煙が出ているのだろうか。八月の気温よりもまだ高い温度で、空気に油が溶けているような感覚と臭いが気持ち悪い。
「サウナかよ」
だとすればぬるすぎる温度に、悪態をつく。どうやら排煙は、まっすぐ行った先の中華料理店かららしい。それでも短縮出来る距離の魅力には勝てず、そのまま路地を進んだ。
真ん中まで行ったところで、足を止める。
横道を見つけたのだ。先はまた別の路地にぶつかって、そこからも表の通りに行けそうに見える。もう一度こちらの行く先を見て、ゆらゆらと揺れる空気に嫌気が差した。迷うことなく、横道に踏み込む。
──最初の一歩が、なかなか接地しない。実は下り階段で、足を踏み外している真っ最中だろうか。
それならば、そんなことを考える暇もないはずだ。しかし一八が思い付く、合理的な理解の限界はそこだった。
足元に向けた目に映る物は、なにもなかった。いや、あったのかもしれないが、一八には分からなかった。
今や上下左右のどこを向いても、真っ白な世界。その中を落ちていった。
落ちたという感覚さえ、もしかすると昇っているのを、誤って認識しているのかもしれないが。
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