第8話 甘いひととき

飛行船が着陸したのは、広々とした草原の上だった。


暗くて周囲がよく見えない。レイラはグレンの手を頼りに地上に降り立ち、飛行船の裏へと回った。そこから見えたのは、丘の上の灯りの灯る大きなお屋敷だった。


「あれは……」


「僕のマナーハウス」


「やっぱり」


夢で見た城塞のようなハミルトン家と同じくらいの大きさのそれは、家族のいないグレンが住むには大きすぎるように思える。


「グレン様、レイラさん」


「アル!」


背後からかけられた声にレイラが振り返ると、そこにはアルが。


「もしかして、これを運転してたのはあなた?」


「はい」


「すごい。普通の執事は飛行船の運転なんてできないわよ」


感心していると、アルは突然レイラの前に跪いた。


「申し訳ありません、レイラさん。私が捕まったばかりに……!」


心底自分の行いを悔いているといった顔で謝るアル。


「気にしないで。私はこの通り元気よ。変な男と結婚させられるところだったけど、グレンと一緒に助けに来てくれたじゃない。感謝してるわ」


「レイラさん……」


「謝ることなんて何もない。それより、怪我は大丈夫だった?」


やっと顔を上げたアルにレイラが手を差し出すと、アルはその手を取らず、目元をぐいっとぬぐって自分で立ち上がった。


「大丈夫です、奥様」


「お、おくさま?」


「グレン様の奥方に相応しい方は、あなたしかいらっしゃいません。どうか奥様と呼ばせて下さい」


アルの変化に、レイラは戸惑う。


(きなりどうしちゃったの。この子、いい子だけどちょっと重い)


助けを求めてグレンを見上げる。


「アル、いずれはそうなるだろうけど、焦ってはいけない。レイラが戸惑っている」


いずれはそうなる? レイラはグレンのセリフに余計に戸惑った。


「は……申し訳ありません」


「皆疲れているんだ。早く屋敷に入ろう」


グレンに手を引かれ、レイラはランカスター家のマナーハウスを目指す。少し歩くとすぐに堅牢な門が見えてきた。


屋敷の中に入ると、見覚えのある人物がレイラを待っていた。


「お帰りなさいませ、グレン様。レイラさんも、よくご無事で」


「ばあやさん! また会えて嬉しいわ」


初対面のときはレイラのことを臭うと言ったり、むりやり服を脱がせようとした。


(けれど、ぼろぼろのドレスを縫ってくれたり、美味しい食事を用意してくれたりもしたっけ)


相変わらず無表情だけど、その顔にあった厳しさが多少和らいだように見えるのは気のせいか。


「私もです。使用人たちの挨拶は明日にさせていただきますので、今夜はごゆっくりお休みください」


「グレン様、御用がありましたらなんなりとお申し付けください」


交互に言うばあやとアルに、グレンはにこりと微笑む。


「ああ、大丈夫だ。みんなもゆっくり休んでくれ」


そう言うと、私の手を引いて茶色い手すりの階段を上がっていく。


「こっちだ」


まるで迷子になりそうなほど大きなお屋敷の中を歩いていく。


(一人で放り出されたら迷子になりそう)


キョロキョロ周りを見回すレイラを連れて、グレンはそのまま廊下の一番奥へ向かう。


「どうぞ」


突き当りの部屋のドアをグレンが開ける。その中には大きなベッドが。絨毯はブルーで、家具は白いもので統一されている。壁には風景画が多く飾られていた。


「ここ……」


「僕の寝室」


「ああそう、あなたの……って、ええ!?」


レイラは狼狽える。


(なんでグレンの寝室に。こんなに広いんだから、客用のベッドルームがあるはずじゃない)


タウンハウスにもあったのに、まさかマナーハウスにはないなんて言わないだろう。


レイラが色々質問しようとすると、ぐいと腕を引かれ、二人でベッドに座る体勢に。


「あ、あの」


「うん?」


肩に手を回してぎゅっと引き寄せられたかと思うと、一瞬で唇を奪われる。


「ま、待って。ねえ、私あなたに、色々と聞きたいことが……」


離された瞬間にそこまで言うけど、すぐに唇を塞がれる。これじゃ話なんてできない。


「わかってる。でもさっきはアルが操縦席にいたから、存分にキスできなかった。消化不良なんだ」


すぐ触れられる距離で囁くと、また甘ったるいキスが繰り返される。力が抜けていく身体は、いつの間にかベッドの上に仰向けにされていた。


久しぶりに会えたのだから、今だけは甘えても良いか……そう思い始めたとき、なんとグレンの指がドレスの胸の部分にかかる。そこにあったリボンをほどこうとしているのだと悟った時、レイラの高鳴っていた胸が止まってしまいそうなほど跳ねた。


「ま、待って」


グレンの手を止めようとした自分の手が震えていた。


「……嫌か?」


「嫌っていうか……結婚もしてないのにこんなこと、いけない」


本当は外泊も、男女二人で外出するのも、未婚の女性には許されないことだ。その上こんなことになってしまうなんて。レイラの理性が彼女を止めようとする。


「結婚しなきゃダメだって、誰が決めた? 女王陛下か? それとも目には見えない神の存在?」


止めようとした手の甲にキスをしながらグレンは囁く。 


「だだだ、誰がとかじゃなくて、一般的な常識としてね……」


「いいじゃないか。どうせ僕は、君を一生離す気なんてないんだから」


「グレン……」


「結婚するには、君が女王陛下に謁見して社交界デビューし、教会に結婚を公示してもらって、その間にトルソーやドレスを準備して……どれだけ時間がかかると思ってる?」


レイラにはわからなかった。身近で結婚した人がいないから。でも多分、余裕で半年くらいは要るだろうと予想する。


「プロポーズなら、前にしただろ。レイラ、君が欲しい。やっと手に入れたんだ。もう我慢なんてできない」


言葉に詰まったレイラの唇をキスで塞ぎながら、リボンをほどいていく。ドレスを脱がされコルセットを外される頃には、もう一言も抵抗できなくなっていた。


愛してると囁きながらキスをされるうち、レイラの中からも常識が吹っ飛んでしまうように感じた。


ほどけていた髪がベッドに金色の波を描く。レイラは必死で彼にしがみついていた。


グレンの右肩にピストルで撃たれた時の傷痕があった。それにキスしながら、レイラは彼が生きていることの喜びをかみしめる。そうしながら、いつの間にか意識が遠く離れていった。




「……ごめん。無理させたな」


あくる日、グレンはレイラの横で心配そうに眉を下げていた。


昨夜のことは彼女だって抵抗しなかったし、グレンが無理させたわけでもない。


グレンはレイラをとても丁寧に扱った。だから初めてのことだったにも関わらず、彼女が不安や必要以上の痛みや傷を負うことはなかったのだが。


「全然、だいじょー、ぶ、わっくしゅ!」


花嫁修業の疲れが出たのか、裸で長時間いたせいか、レイラはみごとに風邪をひいてしまったのだった。


グレンのベッドで寝間着に着替えて横たわるレイラに、アルが温かい飲み物や氷嚢を運んできてくれる。


熱が高いのか、体がだるくて動けない。頭が痛くて、涙が出てくる。


「ねえ、ロンドンに行かなくて平気?」


今は社交シーズン真っ盛りのはず。貴族は議会に出ないといけないはず。


「こんなときまで人の心配をしなくていい。僕は真面目に他の仕事もしてるから、ちょっとさぼったって女王陛下は多めに見てくれるさ」


ベッド脇に置いたイスに座り、レイラの額を撫でるグレン。


「そういえば、どうして私がファインズ夫人のお屋敷にいるってわかったの?」


「僕にはたくさん協力者がいてね。ローダーデイル家の近辺で地道に聞き込みをしてもらってたんだ」


いつの間にかデボラの領地内にグレンの密偵が入り込んでいたらしい。


「その人たちは誰も捕まったりしなかった?」


何気なく聞くと、アルがティーポットを落としそうになった。


「グレン様……やはり私のような無能な執事は、この家にいてはいけないのでは……」 


「やだ、そんなつもりで言ったんじゃないのに」


アルはデボラに捕らえられたことがトラウマになっているようだ。


「何を言っている。お前は僕の優秀な執事だ。いてくれなくては困る」


グレンが微笑んでそう言うと、アルは心底ほっとしたような表情を見せた。


「アルは本当にグレンが好きなのね。そういえば、どうして猫の姿をしていたの?」


レイラがアルの猫バージョンを初めて見た時、男の子か女の子か観察してしまった。今思えば恥ずかしいことをしてしまったものだ。


「どうしてかは本人にもわからないらしいけど、物ごころついた時には既に自分の意志で猫に変身できる能力が備わっていたらしいんだ」


「そうなの? 私はまた、グレンが魔法みたいなものでアルを変身させているのかと思ってた。だってあなた、不思議な力を持っているでしょ?」


問いかけると、グレンの代わりにアルが首を横に振った。


「本当です。私はこの力のせいで両親に捨てられました」


「えっ……」


「路頭に迷っているところをグレン様のお父上に拾っていただきました」


聞いてしまってはいけないことだった気がして、レイラを罪悪感が襲った。


(そんな。猫に変身するからって、自分の子供を気味悪がって捨てるだなんて)


拾ってもらった恩があるから、グレンに忠誠を誓っているのか。もちろんただの主従としてではなく、グレンがアルを大事にしてきたから今の関係があるのだろう。


「残念だけど、僕は魔法使いじゃない。できるのは君にかけた簡単な催眠術みたいなものだけで、あとはけっこう地道に生きているよ」


「嘘。それだけじゃないはず」


ふたりが初めてロンドンで会った日、突然何かを察知したように殺人現場に急行した。それにレイラがファインズ夫人の屋敷のどこにいるかも、外から見ただけではわからなかったはず。なのになぜダイニングルームの正面に縄梯子を落とせたのか。


レイラがそれらの疑問をぶつけると、グレンは困ったように笑った。


「たしかに、カンは他人よりちょっとだけ鋭いかな。でも、本当にそれだけだ。妖精や悪魔の力を借りて魔法を使ったりなんて、ファンタジーなことはできやしない」


「ふうん……」


なんとなく腑に落ちないけど本人がそう言うなら信じるしかないか。レイラは一応話にキリをつけた。


「そういえばね、グレン。私……いたた」


言いかけた途中でひどい頭痛がレイラを襲った。


「これ以上の難しい話は、風邪が治ってからにしよう」


そう言ってグレンはアルを下がらせる。静かになった部屋でまぶたを閉じると、すぐに睡魔が襲ってきた。


「グレン……」


「ん?」


何も言わなくても、グレンが優しく手を握ってくれる。


(私、昨夜この人と夫婦になったんだ。まだ正式に結婚はできていないけど……)


思い出すと、レイラの体は余計に熱くなった。


「一個だけ、大事なこと言わせて」


「なに?」


「私ね、貴族の娘だったの。デボラ様が言ってたわ。ハミルトンって家の、娘だったんだって」


まぶたが重い。レイラが半分寝ながら話すと、グレンの手がピクリと反応したような気がした。


「そう。良かった。じゃあ僕らが結婚するのになにも壁はないんだ」


「うん……」


うん? でもちょっと待ってよ。


「あなた、もしかして知ってた?」


昨夜グレンは、『結婚するには、君が女王陛下に謁見して社交界デビューし、教会に結婚を公示してもらって、その間にトルソーやドレスを準備して……どれだけ時間がかかると思ってる?』そんなことを言った。


(それって、私が貴族だって確信していたみたいじゃない?)


体を起こそうとすると、また頭痛がした。


「詳しい話はまた今度。今はお眠り。ゆっくり体も頭も休めて」


そう言って頭をなでられると、気持ちよくて余計にまぶたが開けられなくなった。レイラはそのまま眠りに落ちていった。




そうしてのんびりした三日後、やっとレイラは全快したのだった。


「おはようグレン! さあ今日こそは、包み隠さず知っていることを全て話してもらうわよっ」


既に着替えて食事をしていたグレンのところに乗り込む。使用人たちはぎょっとした表情でレイラを見たけど、グレンだけは落ち着いて微笑んだ。


「申し訳ないけど、君が元気になったなら、急いでロンドンに戻らなければ」


「え……あ、そうか」


今は社交シーズン真っ盛り。いくらなんでも侯爵が何日もロンドンを開けるのはまずい。


「ばあやがだいたいの準備を済ませてくれてある。さあ、着替えて」


グレンが手を叩くと、どこからかばあやが現れ、レイラの背を押して別の部屋に連れていく。そして外出用のドレスに着替えたレイラは、グレンと一緒の馬車に乗せられた。


馬車に揺られてしばらく行くと、見たことのない景色が目の前に広がった。背の高い木々の中、巨大な黒い鉄の塊が停まっている。その足元には、同じように鉄でできたレールが。


「あれ、もしかして」


「駅だよ」


「私、鉄道なんて初めて!」


馬車を降りると、スーツケースを持つアルがふたりの後ろをついてくる。ステッキを持つグレンのエスコートで鉄道に乗り込んだレイラは、初めて動物園に入ったときのようにわくわくしていた。


鼓膜を破るのではないかと思うほど大きな汽笛が鳴り響き、汽車が走りだす。窓から見えた農家のおじさんたちに手を振ると、グレンがふきだした。


「な、なによ。どうせ子供みたいって言いたいんでしょ」


「いや、本当に君は可愛いなと思って。君がはしゃいでくれると、僕まで元気になる」


(はしゃいでなんて……いや、はしゃいでたか)


初めて体験するものは誰だって気分が高揚するものだ。貴族として産まれて生きてくると、そうでもないのか。レイラにはその方が不思議だ。


「だけどねレイラ、夕方から用事があるんだ。君も一緒に行くんだから、ちょっとは力を温存しておいてくれ」


「えっ? どこへ行くの?」


夕方からといえば、舞踏会や晩餐会、オペラの鑑賞会くらいしかレイラには想像がつかない。 


(そんなわけないか。人の集まるところにはデボラ様も来るかもしれない。バレたら修羅場だわ)


そう考えると、急に元気がしぼんでしまった。デボラは今頃、血眼でレイラを探しているだろう。他に資金援助のために政略結婚させられそうな娘がいないのだから。


(こんな状況で、結婚なんてできるのかな)


教会に結婚の予定を公示されたら、それですぐにばれてしまう。いや、女王に謁見して社交界デビューした時点でもしかしたら……。


(そもそも、私がハミルトン家の娘だって、どうやって証明するのかしら。グレンはそこのところ、何も詳しく話してくれないけど……)


じっと考え込んでしまうと、グレンの長い指がレイラの眉間をなでる。


「こら、可愛い顔が台無しだ」


「あんたのせいじゃない。風邪だからって、何も話してくれなかったし」


かといって、他の人が聞いているかもしれないこんなところで込み入った話はできないけど。


「不安に思うことも色々あるだろうけど、全て僕に任せておいてくれ。大丈夫だから」


「本当ね? 人の純潔を奪っておいて、詐欺だったら承知しないんだから。覚えてなさいよ」


レイラがきっとにらみつけると、グレンはいつもの余裕の微笑みで返す。アメジストを埋め込んだようなバイオレットの瞳と目があうと、それ以上は追及できないレイラだった。




ロンドンのタウンハウスに着くと、グレンはすぐに用事があると言って外出してしまった。レイラは鍵のかかる最上階でアルと一緒にお留守番。グレンの外出中にデボラが乗り込んできたときのために、用心棒が屋敷の中に控えているという。


昼食を終えてしばらくすると、ばあやがレイラのいる客室にやってきた。以前泊めてもらった部屋だ。


「レイラ様、そろそろ外出のご用意を」


「そういえば、夕方から私も出かけなきゃならないんだっけ。結局どこへ行くのか、教えてくれなかったけど」


「まずは入浴を」 


ばあやの綺麗好きは相変わらずのようだ。お湯の張られたバスタブでレイラの体と髪を洗うと、すぐにコルセットとドレスを着せられる。ドレスは深いブルーで、白いレースのリボンやビーズの飾りが縫い付けられていた。


「すごく素敵なドレスね。これもグレンのお母さまの?」


聞くと、ばあやは首を横に振る。


「いいえ、これはグレン様があなたのために注文したものです」


「注文って……ああそうか。お母さまのドレスがぴったりだったから、同じサイズで作らせたのね」


鎖骨や肩や背中が開いていて、袖が膨らんでいる。こんな派手なドレスを、レイラは着たことがない。


「ねえ、ばあやさんはどこへ出かけるか知ってる?」


このような格好をするということは、それなりに改まった場所に行くのだろう。


櫛でレイラの髪を集め、器用に結い上げながらばあやが答える。


「さあ。でもおそらく、可愛い婚約者を周りに見せびらかしたいんでしょうね」


「えっ? 見せびらかすって……。今そんなことをしては危ないんじゃ」


レイラが聞き返そうとしたとき、コンコンと部屋のドアがノックされた。


「ただいまレイラ。準備はできたか?」


グレンの声だ。


「もう少しです」 


「そうか。ばあや、化粧は濃くしないように。彼女は素顔でも魅力的だ」


「承知しております」


ふたりのやりとりに、レイラは頬を染める。


(何よそれ……聞いているこっちが恥ずかしい)


ばあやが真顔で答えているのが鏡越しに見えて、余計に恥ずかしい。


「お美しいですよ、レイラさん」


化粧を終えたばあやがそう言ってくれた。レイラが立ち上がろうとすると、ばあやは突然彼女の手をにぎった。ぎょっとする間もなく、小さな声で話しだす。


「グレン様をよろしくお願いします、レイラさん」


「え、はい?」


「あの方は早くにご両親を亡くされ、とても寂しい思いをされてきたんです。若くして侯爵家を受け継ぎ、その重圧に押しつぶされそうになりながらも、必死で生きてきた」


それはレイラも知っていたはずのことだった。だけど、普段の彼の微笑みからはそんなことは感じ取れなくて……ばあやの言葉で始めて、彼の苦悩を知ったような気がした。


(グレンは両親を失ってから、遺された侯爵家を必死に守ってきたんだ……)


貴族は労働しなくても収入があって、夜な夜な社交といいながら遊び歩いて楽でいいな、なんて思っていた頃の自分が恥ずかしい。


「そんなあの方が、あなたを選んだのです。あなたとなら、きっとにぎやかで楽しい家庭が築けると思ったのでしょう。私も、そう思います」


にぎやかで楽しい……。


(たしかに自分は普通の令嬢と違ってガサツだし大雑把でお転婆で、良く言えば元気で明るいといえなくもない……かな?)


レイラはとりあえずいい方にとっておくことに決めた。


「どうか、これから末永く、あの方を支えてください。その笑顔だけで、この家は明るくなります」


「そんな……私、そんな特別な人間じゃないんだけど……」


あまり重圧をかけられると、レイラは緊張してしまう。


「あなたはそのままでいいのです。ほら、いってらっしゃい」


ばあやに軽く背中を押された。その瞬間、ドアがゆっくりと開く。そこには燕尾服を着てネクタイをしたグレンが。


「もういいかい? ああ、なんだ。変身済みじゃないか」


グレンが微笑み、ポケットから何かを取りだす。


「後ろを向いて」


なんだろうと思いながら素直に後ろを向くと、鎖骨に冷たいものがかかった。正面にあった鏡を見ると、自分の首元にサファイアとダイヤでできた重い首飾りが。サファイアは大きく、海の深さをそのまま閉じ込めたみたいな青をしている。海、見たことないけど。


「これ……」


「君へのプレゼント」


「ええっ!」


途端に首元がずしりと重くなったような気がした。


(こ、これ一本でどれだけの市民の税金が……)


膝が震えてきそうだ。


「そんなに緊張しないでくれ。申し訳ないが、新しいものじゃない。家にあったものだから」


グレンの言葉に安堵する。


(よ、良かった。グレンのお母さまかおばあさまのものかしら)


見上げると、グレンはにこりと笑った。


「新しいものは、落ち着いてから一緒に見に行こう」


「い、いらないわ新しい宝石なんて」


「そんな謙虚な君が好きだよ。さあ行こう、僕の天使。今夜も誰より綺麗だ」


そう囁きながら頬にキスなんてするから、レイラは本当に膝が崩れ落ちそうになってしまう。


「そんなこと言うの、この世であなただけよ」


差し出された腕を取る。華奢なヒールのついた靴は美しいけど、歩きにくい。動きやすいブーツに慣れていた庶民の足には毒だ。


「で、どこにいくの?」


屋敷の外には馬車が停まっていて、アルがそのドアを開けた。乗り込むと、グレンはにっと笑う。


「大人の社交場さ」


「なにそれ」


「仮面舞踏会。聞いたことあるだろ?」


さっと胸ポケットから彼が取りだしたのは、白い布が金の刺繍糸で縁どりされた仮面だった。鼻の頭までが隠れるようになっていて、手寧に羽根の飾りまでついている。


「人妻と出会いたいの?」


女性は結婚するまでは処女を守らねばならず、結婚後は好きに恋愛を楽しめばいいというのがこの国の貴族の基本的スタイル。


そのため、既婚の男女が正式な伴侶ではないお相手と遊びに来られたり、出会ったりできるのが仮面舞踏会というわけ。


(わざわざ仮面、かぶってるんだもんね。もちろん未婚の人だっているかもしれないけど)


身内に見つかったらはしたないと罵られるのがオチだろう。


「まさか。君とダンスがしたいだけだよ」


「仮面をつけていれば、誰かわからないから?」


「ローダーデイル伯爵も出入りしなさそうだ」


「それもそうね」


デボラは独身だけど、再婚したいという気はなさそう。こういう場所に出入りしたというのはレイラも聞いたことがない。


「でも私、ダンス下手よ?」


花嫁修業で教わったけど、その期間はたった二週間だったし、相手はおじいちゃんみたいな執事だった。とても若いグレンと颯爽と踊れるだけの技量はレイラにはない。


「いいんだ。仮面舞踏会なんてステップもあってないようなもの。好きに体を動かしていればいい」


「そうなの?」


レイラは訝しげにグレンをにらむ。


「私、あなたと出会ってからどんどん不良になっていく気がする」


デボラが今のレイラに起きていることを全部知ったら、きっと発狂するだろう。


レイラがため息をつくと、グレンは「あはは」と声を出して笑った。


「貴族とつきあったらおしとやかになれると思ってた?」


「多少ね」


「君は無理だろ。いつだって好奇心で目をキラキラさせているんだから」


「なによそれ。絶対褒めてないでしょ」


レイラが抗議を続けようと思った瞬間、馬車が停まった。


「さあ、仮面を付けて」


ここからは、お互いにお互いの素性を知ってはならない。それが礼儀だ。


「わかったわよ」


仮面を付け、同じように顔を隠したグレンの腕を取る。馬車から降りたつと、そこは別世界のようだった。


どこかの貴族のタウンハウスなのだろうか。巨大なホールの中は豪華なシャンデリアが輝いている。


中ではもう音楽が鳴り響いていて、所狭しと仮面をつけた男女が踊っていた。普通の貴族の気取った舞踏会とは違う。すごい熱気。


「ね、ねえ。あなた、仮面をしてても目立ってるみたいよ」 


ちらちらと、会場にいる女性たちの目がグレンを見ているのを、レイラは敏感に感じた。


「きっと君の美しい金髪や肌が人目を惹いているんだ」


そんなわけない。視線を投げかけているのは、女性ばかりだ。レイラは仮面の下からグレンをにらみつけた。


「ああ、ちょうど曲が終わったみたいだ」


男性たちがリードしていた女性を元いた場所へ帰す。それから他のパートナーを探しはじめた。


「綺麗なお嬢さん、踊っていただけますか」


他の男性たちにならって、グレンがレイラにその手を差し出す。


「……ええ、よくってよ」


レイラがヤケになってグレンの手を取ると、彼はホールの中央付近に彼女を案内する。


(こ、こんなところじゃなくて隅っこでいいのに)


レイラがきょろきょろしていると、次の曲が始まってしまった。ゆっくりしたテンポのワルツなのに、すぐに足がもつれそうになってしまう。


「力みすぎないで」


グレンが小さな声で「1・2・3」と拍子をとってくれる。そんな彼に身を任せていたら、なんとなく自然に踊れるような気がしてくるから不思議だ。


ちょっと余裕が出てきて周りを見ると、誰も彼も自由に踊っていた。優雅だけれども、型にはまりすぎていないというか。


(今までは会場の片隅で占いをするだけだった。お客がないときは、きらびやかな会場をぼんやり眺めていたっけ)


記憶の中の令嬢たちのダンスを思い出し、再現する。だんだんとレイラの動きが曲に乗ってくると、グレンはいつの間にか拍子を取るのをやめていた。その必要がなくなった。


彼のリードに乗ってくるくる回っていると、まるで自分が風に舞う花びらになったみたいにレイラは錯覚しそうになる。やっと楽しくなってきたときに、曲が終わってしまった。


「はあ、はあ……私、大丈夫だった?」


「完璧だったよ。ファインズ夫人、只者じゃないな」


冗談ぽく笑うグレンの横から、ぬっと一人の男性が私たちの前に立ちはだかった。太っているのか筋肉なのか微妙な、とにかく大きな体躯で、顔にあわないパツパツの仮面を付けている。


「お嬢さん、次は俺と踊ってくれませんか」


「えっ?」


まさか他の男性にダンスを申し込まれるとは夢にも思っていなかったので、レイラは面食らってしまう。すると次々に他の男性が彼女の周りを囲んだ。


「いや、俺と」


「ふざけるな、次は僕だ」


「いえいえ私ですよね、お嬢さん」


仮面の男に囲まれて怯んだレイラ。


「申し訳ないが、彼女は僕の婚約者でね。遠慮してもらえないかな」


そう言ってグレンがレイラの肩を引き寄せる。仮面の中のバイオレットの瞳がきらりと光ると、その威圧感で男たちはすごすごと去っていった。


「な、なんなのかしら」


「君があまりに可愛いから仕方ない」


またそんなことを。レイラはグレンの言葉を真に受けようとはしない。


「仮面を被ってるのに、可愛いかどうかわからないでしょ」


「そうか。じゃあ体中から可愛さがにじみでていたんだな」


「もういいってば……」


そうしているうちに次の曲が始まり、グレンはまたもレイラをリードして踊り始めた。


しっかりと両腕を組み、靴のかかとから一歩目を踏み出す。曲に乗って体を動かすうち、不安も時間も忘れてしまっていた。 


一時間後。


「も、もうダメ。疲れた」


少し休憩をはさみながらも、ほぼ踊りっぱなしだったレイラはとうとうギブアップ。誰でも利用できる二階の客間からバルコニーに出ると、涼しい風が首元を吹き抜けた。


「楽しかった?」


給仕をしている黒服の男の人からシャンパンを受けとり、それを差し出すグレン。二人きりになり、彼はそっと仮面を外した。


「ええ。連れてきてくれてありがとう」


「良かった。風邪でしおれてる君より、元気に跳ねまわってる君が見たかったんだ」


そう言い、グレンはレイラの仮面もそっと外す。視界が広くなり、彼の彫刻のような顔がよりはっきりと見えた。


「さて、元気になったから真面目な話をしようか」


疲れてバルコニーの手すりにつかまっていると、グレンが身を寄せてきた。


「聞きたいこと、色々あるんだろう?」


風が彼の前髪をすくう。ちらと客間の方を見るけど、だれもバルコニーには来そうにない。


「あの……まず、私の出自のことだけど。あなたは私がハミルトン家の人間だって知っていたの?」


デボラの言葉だけじゃ信じきれないけど、グレンが何か知っているなら、信憑性が増す。


「いや……知っていたというより、気づいたという方が正しいかな」


「どういうこと?」


「僕の記憶にあるハミルトン家のレオノーラ嬢は、それは美しい金髪と緑の目をしていた。初めて君に出会った時、なんでこんなに似ているんだろうと思ったよ。とても気になっていた」


ということは、彼は初めて会った時にはまだレイラがレオノーラだと確信していたわけじゃなかったということだ。


「やっぱり、私たち昔に会ってたのね。夢で見たわ。白いマナーハウスが燃えていた。あなたが手を差し伸べてくれたの」


そう言うと、彼は目を見開いた。そして、そっとその目を伏せる。


「そうか。火事が起きたのは本当だ。でも僕は君を助けられなかった。あのときハミルトン家に招待されていた僕は君とかくれんぼをしていた」


「かくれんぼを……」


「あれだけ大きなお屋敷だろう。いくら探してもきみは見つからない。そのうちに火が回ってきてしまい、僕は父に見つけられ、その場から脱出させられた」


グレンがレイラの手をそっと握る。その手から、彼の記憶が流れ込んできた。それは、幼いグレンとレイラが仲良く遊んでいる……というか、レイラがグレンに遊んでもらっている様子だった。


(ずっと前に、グレンと私は出会っていた……)


確信すると、胸が熱くなる。涙が出そうになったのを、レイラは堪えた。


「よく似ているけど、君がレオノーラ嬢だという確信が持てなかった。だから僕はしつこく言っただろう? 出自のことを調べなおしてほしいと」


そういえば、グレンは自分のタウンハウスからレイラがローダーデイル家に連れ戻される時も、戻った後にもアルに手紙を持たせたりして何度もそのことを聞いてきた。


「君は自分で気づいていないか。この首の後ろのあざに」


「あざ?」


そんなもの、あるっけ?


「あるんだよ。ハート形のあざがね。僕はレオノーラの首にあったそれを覚えていた。だから一度、確認させてもらった」


「あの時お風呂に乱入してきたのは、まさか……!」


「そう。このあざを調べるためだった」


タウンハウスに拉致されたとき、ばあやにお風呂に入れられて、グレンが乱入してきた。


あれはただのスケベ心じゃなくて、レイラにあざがあるかどうかを確認したかったのだ。


男性が突然入ってくれば、女性は自然と後ろを向く。その時を狙った。


「それで、君がレオノーラじゃないかという思いは強まった。だけど、どうしてローダーデイル家のメイドになってしまっているのか。そこが引っかかってね」


「私の記憶にかけたってことね」


「そう。君が自分で過去を思い出してくれればそれで間違いないはずだった」


だけどレイラは、なかなか自分の過去を思い出せなかった。


「だけど、その火事の夢を見たってことは、間違いなく君はレオノーラだ。まあ、君が他の誰かで本当に庶民だったとしても、諦める気なんてなかったけど」


そう言ってくれてほっとした。グレンは貴族のレオノーラを求めていて、庶民のレイラだったらあきらめるつもりだったと言われたら立ち直れない。


「また会えて嬉しいよ、レイラ。もう会えないと思っていた子がこんなに綺麗になって僕の前に現れた。とんでもない奇跡だ」


グレンの手が優しく私の頬を包む。そのまま軽くキスをされた。


「──ねえ、じゃあ」


「ん?」


「ハミルトン家に放火した犯人を、あなたは知ってる?」


ハミルトン家は恨みを持つ者に放火され、滅ぼされた。レイラは使用人に助けられ、デボラに預けられた。レイラはデボラに聞いたことをそのまま話す。


「それって、本当なの?」


見上げたグレンの顔が、少し硬くなった。


「伯爵に、僕の父が犯人とでも教えられた?」


今度はレイラが硬くなる番だった。たしかに、デボラはそう言っていた。


「ええ。でも、私はそんなの信じていない」


息子の目の前で放火なんてするわけない。否定すると、グレンは少しだけ微笑む。


「良かった。その通り、君の生家に火を放ったのは、別の人物だ。父はその人物に目星を付けていたようだけど、証拠をつかむ前に仕事先で負った傷が元で、亡くなってしまった」


「そうなの……」


「父は僕にハミルトン家の事件の真相を突き止めてほしいと言い残して言ったんだ。やっとその約束を果たせる時がきた」


グレンの顔からいつもの優美な微笑みが消えた。そこにあるのは、確固たる決意だった。


「それって……あなたにはもう犯人がわかっているってことね?」


聞き返すと、彼は静かにうなずく。


「犯人と言えば、もう一人の犯人のことを覚えてるか?」


グレンが突然話題を変えたので、一瞬何のことを言っているのかわからなかった。


「もしかして、子供を次々に殺したひとのこと?」


ロンドンやローダーデイル家の領地で殺された子供たち。ロンドンの子のボタンの記憶で見た黒服の男の正体がわかったんだろうか。


「そう。君が言っていた黒服の男の正体も、実は君と離れ離れになった段階でわかっていた」


それは、レイラが一度ランカスター家のタウンハウスに泊まって、連れ戻されたときのこと。


「なんですって。どうして早く教えてくれなかった

のよ」


ラブレターを寄越す時間があるなら、そういう肝心なことを先に教えてほしかった。レイラは憤る。


「犯人が、君の傍にいたからだ」


シャンパングラスを脇にあったテーブルに置き、グレンが言った。その目はレイラを真っ直ぐに見ている。ぞわりと、嫌な予感が彼女の背中を駆け抜けていった。


「私の、傍って……」


「だからうかつなことは出来なかった。アルを傍に送って密かに見守らせていたんだ」


そう言えば、メイズで不審者を見つけたあの夜、アルはレイラに『危険から守るために』と言った。あれは、連続殺人の犯人が彼女の近くにいる人だと目星を付けていたからか。


レイラはじっと次の言葉を待つ。


「証拠をつかむのに苦労してたんだ。僕がまごまごしていたから、アルに怪我を負わせてしまった。密偵からそれを聞いて焦った僕は、さらなる失態を犯した」


「用意もそこそこにローダーデイル家に乗り込んで、怪我をしてしまった」


「その通り。容赦ないな」


グレンは一瞬だけ苦笑した。けれどその顔はすぐに元に戻る。寒気がするほど美しい顔には、後悔と怒りが宿っていた。


「でも、あのときあなたは無謀な動きをした私を助けてくれたのよ。アルだって、あなたが来たから助かった。後悔することない」


「ああ、ありがとう」


(この人は、自分の周りを傷つけられることを極端に恐れている。なのにそれを許した自分に怒りを感じているんだ)


なんとなくそう感じ取れたのは、私のこの奇妙な力のせいなのかもしれない。


「話を戻しましょう。私の近くに犯人がいるとあなたは言った。でも、私の知り合いにあんな大男の貴族はいないわ」


記憶の中にあるのは、とても背の大きな身なりのいい男だった。


「いや、君は子供の目線で犯人を見ていたんだ」


そう言われて、ハッとする。正しくは、子供の服についていたボタンから……つまり、子供の胸あたりからの目線だ。


「だから大きく見えただけ? 大人から見たら、そうでもないのかも」


「それに、背はシークレットブーツで誤魔化せる。それに服で身分を隠すなんて簡単だ。付け髭だってどこにでも売っている」


紳士の中には背を高く見せるために、底の分厚いブーツを履いている人もいると聞いたことがあるけど、あの犯人ももしかしたらそういう人物だったのか。


「ロンドンで死体が見つかった時、デボラ様とセドリックさんは舞踏会の会場にいた」


ということは、その他のレイラの近くにいる人物といえば……。


口を開きかけたそのとき、客間の方から声がした。


「グレン様、レイラさんっ!」


アルの声だ。何事かとそちらを振り返った瞬間、レイラのすぐ後ろに誰かが高い所から降り立ったような気配がした。


正面にいるグレンが手を伸ばし、何か言いかけた。それを聞く暇もなく、体が拘束される。


「なっ……!」


抵抗しようとした瞬間、突然レイラの体が宙に浮いた。内臓が上に上がってくるような気分の悪さを感じて思わず目を閉じる。 


(いったい、何が起きているの?)


わけがわからないうちに、体が地上に下ろされた気配がした。レイラが両足で立って目を開けると、足元にはロンドンの街並みが。灯りがついた多くの窓が、まるで星みたいに見えた。


(綺麗だな~なんて思ってる場合じゃない。ここはもしや、屋根の上?)


落ちたら大変だ。途端に怖くなって、レイラはその場に屈みこんだ。


「レイラ!」


グレンの声が聞こえて、顔を上げる。思い切って声のした方を覗き込むと、さっきまでいたバルコニーからグレンがテーブルや柱の飾りをたよりにこちらに登ってこようとしている。


少しホッとすると、ぐいっと体を引っ張られた。腹に何かが食い込むような感触がしてレイラが見てみると、いつの間にか太いロープが巻き付けられていた。


レイラはおそるおそる背後を振り返る。とそこには、ロンドンの子の記憶で見た、黒づくめの男が。


背が高く、もうすぐ初夏だというのに厚ぼったいロングコートを着ている。つばの広いハットをかぶり、丁寧に仮面まで付けているせいで顔が見えない。


「あ、あんた、子供たちを殺した男ね」 


仮面舞踏会に紛れ込んで、レイラたちを監視していたのか。


(ほら、やっぱりこんな人の多いところに来るべきじゃなかった)


後悔するには遅すぎた。


「一緒に来い」


仮面の男が言う。その声に、レイラは聞き覚えがあった。


「どうして私が行かなきゃいけないの。正体を見せなさい!」


立ち上がって仮面を取ってやろうとつかみかかる。けれどいとも簡単に引き倒されてしまった。


「おとなしくしろ」


「いやっ、離してよ!」


ぐっと腰を持たれる。麦の束みたいに担がれ、手足をばたばたさせていた、その時。


「レイラを離せ!」


バルコニーから上がってきたグレンが、男をにらんでいた。その後ろから追いついたアルが、彼にステッキを渡す。


「断る」


仮面の男はそれだけ言うと、近くにあった煙突に手をかけた。よく見るとそこには、金属でできた細いロープのようなものが括りつけられていて、そこにかけられたトライアングル型の持ち手をぎゅっと握っている。


(まさか、ねえ。それだけはやめて)


レイラがぶるりと身を震わせると、仮面の男は躊躇なく足元の屋根を蹴った。


「いやあああああああ~!!」


頭上でガリガリと金属がこすれるような嫌な音がして、発生した火花が顔の前に降ってきた。ものすごいスピードで別の建物へ飛んでいく鳥になったようで、風が頬を押し上げる。


レイラを抱えている男が、ロープを伝って他の建物に持ち手を滑らせて移動している。


そんなことを考える暇もなく、レイラはあまりの恐怖で途中で気を失ってしまった。

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