第7話 幽閉された花嫁候補

あれから、どのくらい時間が経ったのだろう。


レイラはローダーデイル家の私室にいた。けれど、そのドアは内側から開くことはない。デボラに外側に南京錠をつけられてしまったためだ。


あのあとセドリックたちは、夜更けに帰ってきた。けれど、グレンとアルがどうなったか、誰もレイラに教えてくれなかった。


レイラの元には三度の食事がきっちり運ばれてくる。けれどレイラは、それに口を付ける気になれなかった。


眠れない日が続き、ぼんやりと窓の外を眺めていると、ドアが二階ノックされた。


「入るわよ」


返事を待たずに部屋へ入ってきたのは、デボラだ。レイラが彼女の顔を見るのはあの日以来だ。


以前の優雅さが消えた厳しい顔は、眉間や額にシワが寄っていて、いつもより歳をとって見える。


「色々と話したいことがあるの」


部屋の壁際に置いてあった椅子に座り、ベッドに腰かけていたレイラを見つめるデボラ。


「あの侯爵は何者なの? どうしてあの従者は自在に姿を変えられるの?」


レイラは首を横に振ってから答える。


「私にもわかりません。彼を占おうとして、何も見えなかったということがあったので、私と同じ、不思議な力の持ち主なのだろうとしか」


ロンドンでのことは、言わずにおいた。グレンがレイラにキスをしたことだ。彼はあのとき、不思議な力を使い、レイラが目撃したことを、他人に話せなくした。


「そう。呪文を使ったり、魔法具を使ったりしていなかった? 例えば、屋敷に魔法陣みたいなものがあったとか、見たことのない様式の祭壇があったとか」


デボラはグレンの力の出所を知りたがる。相手の術式によって対処の仕方が変わるというのだろうか。


「いいえ。それより私が知りたいのは、デボラ様こそ何者かということです」


あの伸びるムチ。あんなもの、いったいどこで手に入れたのか。


「もう隠しても無駄よね。そうね、なんと言ったらいいのかしら……ちょっとしたおまじないのようなものよ。あの侯爵が初めてこの屋敷に来たときから、正体不明の不穏な雰囲気を感じたの。だから知り合いに頼んでトラップをしかけておいたのよ」


「トラップ。いったいどんな」


「邪悪なるものを聖なる茨で戒めるのよ」


彼女が説明するには、敷地内のあちこちに見えない魔法陣のようなものがあって、ローダーデイル家に敵意のあるものが踏み込むと、光の茨が侵入者の体に巻き付き、自由を奪うという。


そんなもの、いつの間に仕掛けられていたのか。それに全く気付かなかったなんて。レイラは戦慄する。


「あの悪魔たちは何らかの術でこの屋敷を監視し、私が子供たちに悪いことをしていると決めつけて攻撃してきた。恐ろしいわ」


「そう言えば、セシルが他の子供たちが知らない間にいなくなったと聞きました。本当に他家にもらわれていったんですよね?」


レイラが尋ねると、デボラの目がきっと細められる。


「当たり前じゃないの。別れ難くならないよう、他の子供が起きていない時間に連れていったまでのこと」


「そう、ですか……」


別れを惜しませてやればいいだけのことだ。夜に出かけるのはデメリットの方が多い。それだけの理由では、納得がいかないレイラだった。


「あなたはあの侯爵に心を奪われていたようね。でも目を覚まして。あれは美しい、人の心を惑わす悪魔なのよ。人じゃないわ」


デボラは甘ったるい声でレイラを説得しようとする。


(そんなことない。あの人のことだ。きっと何か調べて、この家の闇に気づいたから子供たちを避難させたんだ)


あの地下牢やメイズから出てきた不審者、運び込まれる謎の荷物。どう考えても普通の家じゃない。


今まで自分は気づかなかったけど、グレンは一度の訪問で気づいたのだ。レイラはそう信じている。


「悔しいけど、あの男の言う通りよ。我がローダーデイル家には後継ぎがいない。いつか……いえ、あの悪魔たちを逃がしてしまった限り、いつ取りつぶされるともわからない」


逃がした。ということは、グレンたちは無事に逃げおおせたということだ。レイラはホッとする。


グレンは女王陛下と繋がりがあるようだし、彼に怪我をさせてしまった今、いつセドリックが逮捕され、ローダーデイル家が潰されるかわからない。デボラはそれを危ぶんでいるようだ。


「彼は女王陛下に告げ口はしないと言っていましたが」


「信じられるものですか。現に子供たちは陛下の命令と言う形で連れていかれてしまった。あの悪魔が陛下に作り話を吹き込んだに違いないわ」


膝の上で握った拳に力を込めるデボラ。その顔は、レイラが見たことがないくらい醜く歪んでいた。


「だから、あなたに務めを果たしてもらいます。本当はもう少し先にする予定だったんだけど」


「はい? 務めって、いったい何の?」


レイラがデボラを見返すと、彼女は信じられないことを口にした。


「結婚してもらいます、レイラ」


「……え? け、結婚? 結婚ですって?」


思わず聞き返すと、デボラは真剣な表情でうなずく。


「どういうことですか。いったい、誰と?」


レイラは取り乱し、思わず立ち上がる。


「私がお世話になっている方です。とても親切な方で、あなたを嫁がせれば、ローダーデイル家が権力をなくし、名だけの伯爵家となっても家人の面倒をみてくれるとおっしゃってくれているのです。今後の裁きについても、陛下に口添えしてくださるそうよ」


なにそれ。早い話、権力があってお金持ちだけどお嫁さんがいない、モテない貴族ってことじゃない。


「何というお名前の方なんですか。歳はいくつなんですか」


「たしか、今年で四十」


「よん……」


目の前がくらくらした。下手したら父親に近い年齢の人と……。


妻に先立たれた人なのかもしれない。離縁かも。


(のっぴきならない事情があったとしても、二十歳年上の人と結婚しろだなんて)


しかも、デボラのために。レイラの意志は完全に無視されている。


「嫌です! どうか私を自由にしてください」


たとえ相手が若くて美しい資産家でも、他の人と結婚なんてできない。だってレイラの心は、グレンにさらわれたままなのだから。


「いいえ、レイラ。どうして今まであなたを育ててきたと思うの。良い家に嫁がせたいがためじゃないの」


「じゃあ、どうしてメイドの仕事をさせてきたのですか? それに私は、平民だから貴族とは結婚できません」


本当に上流階級の人と結婚するなら、まず正式に許可を得てデボラと養子縁組し、女王陛下に謁見して社交界デビューしなければならない。家ではピアノやダンス、作文や歌や刺繍など、小さい頃から様々な教育を受けているはず。


「周りにあなたの正体に気づかれないようによ」


「正体……?」


その単語に、レイラの心臓が跳ねた。


(今の私は本当の私じゃないって言うの?)


言い様のない不安と少しの期待が混じる。


「あなたの本当の名前は、レオノーラ・ハミルトン。名門ハミルトン侯爵家の長女なのよ」


「ええっ!? 私が貴族の娘だって言うんですか?」


レイラは仰天した。大きな目をさらに大きく見開き、デボラを見つめる。


「不幸な火事であなた以外は全滅してしまった、今はなき侯爵家。私は使用人に助けられた小さなあなたをうちで保護したの。目が覚めたあなたは、ショックで記憶を失っていた」


不幸な火事。その言葉で、夢で見た映像がレイラの脳裏にひらめく。


「花が咲き乱れる緑の敷地にそびえ立つ、白い屋敷……」


「そう、そんなお屋敷だったわ」


デボラがうなずく。


レイラの瞼の裏にあの日のビジョンが甦る。豪奢なロングギャラリーが煙に巻かれた。無我夢中で屋敷から飛び出し振り返ると、みるみるうちにオレンジの炎が建物を包んで……。


まさか。あの火事にあった屋敷が、自分の生家だなんて。


(私の本当の名前はレオノーラ。侯爵家の長女……)


急に膝から力が抜けて、レイラはベッドに座り込む。


「その光景を、先日夢で見ました」


あの子供部屋は、レイラの部屋だったのだ。そして、視線が低かったのは彼女自身が小さかった頃の記憶を見ていたから。


「そう。珍しいわね。占い師は、自分の過去や未来は見えないはずなのに」


デボラは少し驚いたようだった。


(そういえばそうだ。占い師は、自分の未来は占えない。どんな結果も見えてこないんだ)


レイラも同じだったはず。彼女自身、自分の出自を気にした幼少時代、自らの過去を見ようとした。でもダメだった。そんなことを前触れもなくふっと思い出す。


「とにかく、私はあなたをずっと守ってきたのよ」


ドンドンと頭の中で太鼓を打ち鳴らされているように、レイラは感じた。


(私が貴族だったなんて信じられない。それに両親が、もう亡くなっているなんて……)


ムリだと諦めてはいたけど、心のどこかで会いたいと願っていた両親が、亡くなっている。その事実はレイラの胸を締め付けた。


これ以上は聞きたくないと思っているのに、デボラはさらに残酷な事実を彼女に突きつける。


「ハミルトン家は放火されたの。あの家に恨みを持つ者に滅ぼされた」


「まさか」


「本当よ。焼け跡から魔術の跡が見つけられたの。これは公式には発表されていないけれど」


レイラは夢の光景を思い出す。


(たしかに、異常に火の周りが早かったような。それは、常人には使えない術を使ったから……?)


夢の中では、魔術の気配は感じられなかった。レイラは眉間に皺をよせ、首を傾げる。


「あなたが生きていると知れたら、ハミルトン家に恨みを持つ放火犯に命を狙われるかもしれない。だからメイドとして育ててきたの」


レイラ以外の者が全滅したということは、ハミルトン家当主である父だけが狙いだったとは言い難い。彼女も消される可能性があったというわけだ。


「一度にたくさん聞かされて、混乱しているかもしれない。でも、あなたには早速明日別の場所に移って花嫁修業をしてもらいます」


「え……」


「あの侯爵も、もしかしたらあなたがハミルトン家の者と知って近づいてきたのかもしれない。先代ランカスター侯爵とハミルトン侯爵は交流があったみたいだから」


そうだ。グレンの記憶の中に、ハミルトン家のマナー・ハウスが残っていた。もしかしたら彼とは、過去に出会っているのかもしれない。彼がそのことを覚えているかは定かではないけど。


「ランカスター家があの侯爵が使うような悪魔の術を扱うのだとしたら、ハミルトンを滅ぼしたのはもしや……」


デボラが立ち上がり、レイラの方へ近づいてくる。


(やめて。グレン侯爵のお父様が、ハミルトン家を滅ぼしたって言うの?)


レイラが怖くなって耳をふさぐと、デボラがそっとその手を握って耳から離させた。


「大丈夫よ、私が守ってあげる。結婚後は旦那様があなたを守ってくれるわ。とにかく明日、ランカスター侯爵の知らない場所に引っ越して、これからは花嫁修業に専念しましょう。あんな悪魔のことなんて忘れなさい」


「そんな……」


レイラは青ざめて震える。小さな唇が、色を失った。


(忘れるなんてできない。だってグレン侯爵は会った瞬間から私の心に入り込んでいたんだもの)


小さく首を横に振ると、デボラはチッと舌打ちをした。まるでガラの悪い平民のように。


「こんなものがあるからいけないのね」


煮え切らないレイラの態度に苛立ったのか、デボラが立ち上がる。向かう先にはチェストの上に乗ったカバの置物が。彼女はおもむろにそれを手に取った。


「あっ」


「これも変な魔術に汚されているかもしれない」


デボラがそれを乱暴につかみ、高く掲げる。


「やめてっ」


レイラが立ち上がると同時、カバの置物が床に叩き付けられた。陶器のそれは高い音を響かせ、粉々に砕け散る。


「なんてことを……」


床に座り込んだレイラの前で、形の残っていた欠片が無残に踏みつぶされた。


「触らないで。危険だわ」


こんなにマヌケなカバの置物が危険? いつもならシュールすぎて笑ってしまうところだけど、今のレイラはとてもじゃないが、笑えなかった。


「ひどい。あの人がくれた唯一のものなのよっ」


「こんなものあったって仕方がないじゃない。あなたは他の方のところへお嫁に行くんだから」


「勝手に決めないでよ、私、結婚なんてしない。他の男に抱かれるくらいなら、飛び降りて死んでやるっ」


泣きながら窓際に走る。そんなレイラのお腹に、またしてもデボラのムチが巻き付く。ぐいっと引かれて床に引き倒された。


「落ち着きなさいレイラ! もうあなたが結婚するしか、私たちが幸せになれる道はないのよ! セドリック、さるぐつわの用意を!」


そうして捕獲された私は舌を噛み切らないように口に布を巻かれ、手足を縛られてミノムシ状態に。


縛られた私は、砕かれた置物が処分され、部屋が掃除されていくのをじっと見ていた。


(ねえグレン侯爵、嘘だよね。私がハミルトン家の長女だったから近づいたわけじゃないでしょう? あなたのお父さまが私の両親を手にかけたなんて、悪い想像よね)


ギュッと目を閉じる。レイラのまぶたの裏に浮かぶのは、優しく笑うグレンの顔ばかり。


(私、貴族だったんだって。あなたと結婚するのに何の支障もないのよ。だからもう一度正式にプロポーズしてくれない?……なんて言ったって、もう会うこともないでしょうけど)


心の中で彼に語りかけている自分に気づいた時、すっと涙が一粒落ちた。


(ああ、この世界こそ悪い夢だったらいいのに)


レイラがどんなに願っても、粉砕されたカバの置物は元には戻らなかった。




翌日、簀巻きにされた状態で馬車に乗せられたレイラは、目隠しをされたまま花嫁修業先へと運ばれていく。


そうしないと馬車から飛び降りたり、脱走すると思われているようだ。


(ええ、しますよ。可能なら絶対にしてやったのに)


呼吸だけは確保されたまま、朝から水分も与えられずに何時間も馬車に揺られた。


早朝に簀巻きにされて以来、初めて目隠しを取られて馬車から降ろされた。見上げた空には、太陽が高く昇っている。もうお昼を過ぎたのだろう。


「行儀良くするのよ。ここの主人はそれは厳しい人ですからね」


林の中で簀巻き状態から解放されたレイラ。セドリックに簡単に髪を整えられる。その横からデボラがレイラに言い聞かせる。


「いい? この結婚はあなたのためでもあるの。愛情なんていつかは冷めるもの。そのとき夫婦を繋ぎ止めるものは、やはりお金です。貧乏亭主が浮気をしたら絶対に許せないけど、裕福な主人が浮気をしたって『元気なのね』で済まされるものです」


(そんなものかしら……)


ため息をついたレイラが周りを見回すと、一面森、森、森。


(ここで脱走しても、遭難しそう。ここはおとなしくしておくか。落ち着いたら脱走計画を立てよう)


髪を整えたレイラはデボラとセドリックに付き添われ、彼女が花嫁修業をするという屋敷へ向かった。


屋敷の中には貴族だった夫に先立たれたご婦人が二人の使用人と一緒に住んでいるという。息子夫婦は独立して別に暮らしている。


レンガでできたような赤茶色のこじんまりとした屋敷の庭は、花も雑草も自然なまま元気に伸びている。広い敷地の隅々まで管理する人員がいないからだろう。建物の周りもツタで覆われてしまっている。


「ごめんください、ファイズ夫人」


出迎えはない。セドリックさんが固く閉ざされた玄関のドアをノックすると、少ししてからのっそりと扉が開いた。


「……どうぞ」


扉の隙間から現れたのは、痩せたゴブリンみたいな、ちょっと耳の尖った禿げ頭の老人だった。格好から察するに、この人が執事だろう。


案内されて屋敷の中へ進むと、レイラはびっくりした。庭とは違い、屋敷の中は掃除が行き届いている。


豪華ではないけど品の良いシャンデリアや陶器が飾られたホールの中に、女主人がたたずんでいた。


髪が真っ白で、六十代くらいに見える。高すぎる鼻の根元にぎょろりとした左右非対称の目の周りには細かいシワがたくさん。


ダークブルーの地味なドレスを着たその人は、まるで童話に出てくる悪い魔女のようだ。


「挨拶もできないのか。そんなんじゃ、お嫁になんていけないよ」


厳しくしわがれた声。その猛禽類のような目は、キッとレイラをにらみつけていた。しまった。ぼーっと観察しすぎてた。


「ご、ごきげんようファインズ夫人。私はレイラと申し……」


「レオノーラでしょ」


すかさずデボラに突っ込まれる。


(うう、だっていきなりそんなこと言われても。レオノーラだったころの記憶なんてないし、ずっとレイラとして生きてきたんだもの)


レイラは反論したい気持ちを無理やり押し込めた。


「自分の名前を間違えるなんて、大丈夫かい。この子、頭のネジがゆるいんじゃないか?」


夫人がデボラを見る。本人を前にして遠慮のない物言いだ。


「事前にお話してあるとおり、色々と事情がありまして」


「メイドとして過ごしてきたんだったね。これは骨が折れそうだ」


ファイズ夫人はレイラの周りをくるくる回りながら全身を眺める。


「では夫人、よろしくお願いいたします。二週間後に迎えに来ますので」


デボラはあっさりと帰ろうとする。レイラは途端に心細くなってきた。


(いっきに信用できなくなったデボラ様でも帰ってほしくない。ひとりきりで、この魔女の住処に置いていかないで~)


ものすごく目で訴えてみたけど、デボラはレイラと視線を合わせないようにしてさっさと屋敷を出て行ってしまった。


バタンと玄関のドアが閉まる音と同時に、後ろからポンと肩を叩かれた。レイラがおそるおそる振り返ると、魔女が私を見上げていた。


「さあ、おいで。時間がないよ」


夫人の目が光る。レイラは蛇に睨まれた蛙のように縮み上がった。


(ひいいいいい~)


悲鳴を上げそうになったのを何とか堪え、先をシャキシャキ歩く夫人の後についていく。


「さっさと歩きな! 若いくせに、腰骨が曲がってんのかいあんたは!」


「ひゃああ、ごめんなさい!」


レイラは飛び上がって驚いた。


(お願いだから、その嗄れ声で怒鳴らないでえ)


貴族のはずなのに民宿のおかみさんみたいな喋り方をする夫人に、これからどれだけしごかれるのか。想像しただけで、涙が出そうになった。




次の日から、容赦ない花嫁修業の日々が始まった。礼儀作法、歌、ダンス、刺繍、読み書きなどなど……。


「へたくそ! これくらいなんでできないんだい!」


鍵盤の上でもつれる指を、ピアノの蓋を閉められそうな勢いで怒られる。


(そんなこと言われたって、一度も触ったことのないピアノを二週間で習得しろなんて無理でしょ)


抗議などしようものなら、倍の力でやり返されるのは初めの一日で思い知ったので、レイラは黙って罵倒に耐えた。


「音痴! バカ!」


歌を歌っても本を朗読しても褒めてもらえず怒られ、だんだんと自分が何の価値もない人間に思えてきた。


落ち着いたら脱走計画を立てようと思っていたのに、一日終わったらそんな時間も気力も尽きていて、毎晩ベッドに倒れ込むように寝てしまう。


「ううううう、あの魔女め。このままでなるものか……」


少し体が慣れてくると、寝る前の時間で読み書きや刺繍の練習を一人でするように。


(だって、ここまでバカだカスだって言われたままじゃ悔しいじゃない)


無駄な闘志が湧いてきたレイラだった。




数日後。


メイドの仕事で料理や裁縫には慣れていたレイラは、お茶の淹れ方や刺繍は合格点をもらえるようになった。礼儀作法も、デボラを近くでずっと見ていたのですぐに覚えられた。身軽なのでダンスもステップさえ覚えればなんとかできるように。


問題なのは完全初心のピアノと、生まれつき苦手な歌。どうやら、自分に音楽の才能が備わっていないことを、レイラは悟った。


「手が、手があぁぁ!」


一日何時間もピアノの前に座っていたせいか、練習中のレイラの手首に突然激痛が。


「甘えるんじゃない! このあとはつづりの勉強もあるんだからね」


「うううう~、負けるもんかああっ」


容赦のないファインズ夫人に、負けず嫌いのレイラ。熱い火花を飛ばし合う日々は、あっという間に過ぎていった。


「ふ……なんとか基本は身についたね……」


二週間後。いよいよ明日はデボラのお屋敷に帰るという日、最後のピアノのレッスンを終えてファインズ夫人は額の汗をぬぐった。声がかれるまで熱心に指導してくれたその声は、ますますしゃがれていた。


「はあ、はあ……」


レイラは疲労のあまり、イスから転げ落ち、床に倒れ込む。


(終わった……長い修行が終わった……。って、真面目に修行してどうするのよ私は! もう夕方。結局逃げられなかったじゃない!)


脱出も荷造りもする気力がなく、用意された部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。


(ああ、明日から私の生活はどうなるんだろう。ここで教えてもらったことを自分で復習したり練習を続けて、おとなしくお嫁に行く?)


自分の恐ろしい考えに囚われぬよう、ぶるぶるぶると勢いよく首を振る。


(知らないおじさんのところにお嫁に行くなんてできない)


ぽつりと愛しい人の名前がレイラの口をついて出た。


「グレン……」


彼は今、どうしているのか。あれから何日も経ったけど、怪我は良くなったのか。レイラの胸が痛む。


(まさか、あれがもとで死んでしまったりしてないわよね?)


ふたりが一緒にすごした時間は、とても少ない。だけどレイラは、グレンとの出会いに運命のようなものを感じていた。


(出会ったあの日、あなたの手を繋いだ時から私の中で何かが変わったの)


レイラはまぶたを閉じ、グレンの彫刻のような美しい顔を思い浮かべる。そして少し眠りについた。



レイラがハッと目を覚ますと、窓の外はすっかり暗くなっていた。


(やばい、結局逃げられずに夜になっちゃった)


いくら疲れていたとはいえ、せっかくの逃亡のチャンスをものにできなかった自分の愚かさに呆然としていると、コンコンとドアがノックされた。


「はい?」


「レオノーラさん、お食事の用意が整いました。お越しください。今夜は奥様も一緒に召しあがられます」


執事の声だ。


今までファインズ夫人は、食事の時間も横に立ったままレイラの食べ方を見てあーだこーだ指導していた。


(一緒に食べるとなると、それはそれで緊張するなあ)


あまり食欲はなかったけど、拒否するとまた叱られる。


「今行きます」 


立ち上がって髪を整え、レイラはダニングルームに向かう。


何度も足を運んだダイニングルームは明るいシャンデリアがあり、その他にほこりが付きそうなタペストリーや毛足の長い絨毯といった、余計なものは一切ない。


部屋に入ると、すでに悪い魔女……ではなく、ファインズ夫人が座っていた。レイラはセッティングされている向かいの席に座る。と同時、執事と年老いたメイドが給仕を始めた。


ここの料理はランカスター家の料理ように見た目の華やかさはない。けれど、どれも素朴な味がして美味しかった。


今までは味わう余裕もあまりなかったことを、レイラは思い返した。


「ファインズ夫人、お聞きしてもいいですか?」 


「何を?」


レイラが話しかけると、夫人はナイフとフォークを持つ手を止め、こちらを見た。


「夫人はデボラ様とはどういうご関係なんですか?」


友達というには少し歳が離れているし、今まで屋敷に招待されたお客の中にもいなかったような気がするし。


「ああ……私はあれの姉だよ」


「えっ!嘘でしょ?」


レイラは驚いて料理を吹き出しそうになる。


デボラとファインズ夫人は全然似ていない。デボラが若作りしすぎなのだろうが、それにしても、親子ほど見た目年齢が離れている。


(デボラ様はそんなこと一言も言わなかったし、完全に他人にする対応じゃなかった?)


この屋敷に着いたときのデボラのよそよそしい態度を思い出すレイラ。姉に会えたというのに、全く嬉しそうではなかった。


「知らないのも無理はない。私たちはもともと仲良くなかった上に、それぞれお嫁に行ってからはほとんど連絡も取りあわなかった。特にデボラの娘が死んだ時から、かなり疎遠になっていたから」


「デボラ様の娘さんって……たしか、私がローダーデイル家に引き取られる前に病気で亡くなっていたんでしたよね」


その話はレイラも知っている。当時、デボラの娘はまだ四歳だったとか。


「もともと気味の悪い子だったけど、あの娘が死んで一層ひどくなったと聞いた」 


「どういうことですか?」


もともと気味の悪い子って……。レイラは首を傾げた。


「昔からおまじないとか魔術の真似事みたいなことが好きな子だった。学校で気に入らない子がいたら、その子を模した人形を作って燃やしたり、私にとっては信じられない様なことをしていた」


その様子を想像し、レイラは身を震わせる。


(なにそれ、全然知らなかった。少し前までの優しいデボラ様からは信じられない。最近のデボラ様からなら、ちょっと想像できるけど)


自分が信じてきたデボラは淑女を演じていただけで、残酷なことができるデボラ様が彼女の本当の姿なのかも。レイラは少しずつ納得し始めていた。


「しかし、身寄りのない女の子……つまりあんたを引き取ったと聞いた時は、亡くなった娘の代わりに養子にでもするのかと思ったけど、それは違ったんだね」


「私の素性が周りにばれてはいけないから、メイドとして育てられたと聞いていますけど」


「ああ、そうだったね。あんたも大変だ。育てられた恩があるとはいえ、あんな怪物の元に嫁がされるなんて」


「ん……怪物?」


とても気になるワードが出てきたので、レイラの思考は一気にデボラから離れる。


「ファインズ夫人は私の結婚相手のことを知っているの? 会ったことがあるんですか?」


「昔社交界で何度かね。カエルみたいな顔で、でっぷり太ったおぼっちゃんだった。今はどうなってるのかしらないけど」


「うわわ……」


人は見た目じゃない、性格だなんて言うけれど、やっぱり見た目も大事。美男子じゃなくても好きな系統の顔なら受け入れられる。でも、乙女にはそれぞれ生理的にムリな系統というものがある。


「大丈夫、モテない男は一生あんたを大事にしてくれるよ」


何の根拠もない夫人の発言は、レイラを励ましてはくれない。


「本人はそんなに悪い人間ではないと思うよ。頭は良くなさそうだし、父親は怪しげなクラブを作って遊んでいるらしいけど」


「怪しげなクラブ? それってどんな?」


貴族の紳士は仲の良い者どうしでクラブを作り、お酒を飲んだりタバコを吸いながら政治の話をしているらしい。それの何が楽しいのか、レイラにはさっぱりわからない。


(怪しげなってことは、普通のクラブじゃないの?)


もはや結婚相手本人より、そっちの方が気になり始めたレイラである。


「さあ。クラブに女は入れないからね。詳しいことはわからない」


「そうなんですね……」


別にファインズ夫人が悪いわけじゃないけど、レイラの気持ちは余計に重くなった。


グレンに二度と会えないからと、諦めて結婚したとしても、幸せになれるような気がしない。


(どうして私の人生って、こうツイてないんだろう)


親には先立たれるわ、メイドとしてこき使われるわ、好きな相手とは結婚できないわ……考えていたらますます生きているのが嫌になってきた。


「それにしても、夫人はどうして私に色々と教えてくれるんですか? デボラ様は秘密ばかりなの。私は自分の正体も知らないまま、二十年も生きてきた」


「誰にだって秘密はあるさ。私はただ、あんたが気に入ったから話してやるだけ」


気に入った? 意外な単語が耳に入って、思わず夫人を凝視してしまうレイラ。彼女は照れたように咳払いをした。


「見た目はか弱そうなくせに、私の修行に必死で食らいついてきた。あんたは強い子だよ。どこに行ってもなんとかやっていけるはず」


「そう、でしょうか……」


たしかに、根性はあるかもしれない。レイラはうなずいた。


「だから残念だよ。あんなボンクラ息子の元に嫁がなきゃいけないなんてね」


「夫人……」


目を伏せてワインを飲む夫人の顔は本当に何かを惜しんでいるようで、レイラは胸が痛くなった。


「私、やっぱり結婚なんてできない」


レイラがナイフとフォークを置くと、ファインズ夫人が顔を上げた。その瞬間、窓枠がガタガタと揺れた。


「風?」


まるで、突風が吹いたみたいに窓枠が鳴る。大きな音が響き、まるで屋敷中が揺れているように思えた。


礼儀に反するのはわかっているけど、好奇心を抑えられないレイラは、立ちあがって窓にかかっていたカーテンを開けた。すると、そこに見えたのは……。


「えっ、はあ!?」


レイラは自分が幻覚を見ているのかと思った。なんと、窓の外には、縄梯子に捕まってこちらを見ているグレンが。


ファイズ夫人や執事に見えてはまずいと思い、シャッとカーテンを閉めた。


(嘘でしょ、どうして。縄梯子がどこから伸びているかも謎だけど、そもそもどうしてグレン侯爵がこんなところに)


一気に心拍数が上がる。やっぱり錯覚かもと思い、カーテンの隙間からもう一度外を見る。するとやはり、グレン侯爵がいる。風に煽られて、縄梯子がゆらゆら揺れていた。彼はレイラに向かって何か言っているようだ。


「どうしたんだい、レオノーラ」


全然馴染まない本名を呼んだファイズ夫人が立ち上がる。


「あの、えっと……」


いったい何をどう説明すればいいのか。体中が熱くて、わけがわからなくなってくる。でもレイラにひとつだけわかるのは、自分はこの窓から出ていくべきだということ。


思い切ってカーテンを開ける。大きな窓を開けると強い風が吹き込んで来て、髪を止めていたピンがゆるんで飛んでいった。


「やあ、レイラ。待たせたね」


ゆらゆら揺れる縄梯子に捕まるグレンの髪も風に煽られて乱れていた。それなのにいつもの完璧な笑顔で微笑むから、思わず顔がほころんでしまう。


「会いたかった!」


窓枠をつかんで叫ぶと、グレンは一層目を細めた。レイラが頭上を見ると、そこにはアーモンドみたいな形の巨大な船が浮かんでいた。噂で聞いたことがある、飛行船というものだろうか。とにかく、驚いている場合じゃない。


「ごめんなさい、夫人。私、行きます」


「レオノーラ……」


ファイズ夫人は椅子から立ち上がり目をしばたかせながらレイラに近づいてきた。そして窓の外の光景を見て驚いた後、なんとなく事情を察したような表情でレイラを見た。


「お行き。こちらのことは心配しなくていい」


「ファインズ夫人」


「お前は逃げたんじゃない。知らない男にさらわれたんだ。私には何の落ち度もない」


レイラをみすみす逃がしたと言えば、ファインズ夫人がデボラになんらかの嫌がらせを受けてしまうかもしれない。けれど、彼女に躊躇している時間はない。


「ええ、絶対に元気でいてくださいね。短い間でしたがお世話になりました。さようなら」


思い切って足を上げ、窓枠にかける。両手で枠を持って立ち上がると、足元を見てしまったレイラをめまいが襲った。


「レイラ、大丈夫だ。僕を信じて」


グレンが片手を差し出す。レイラは震える膝を何とか曲げた。吹き上げる風が髪をすくいあげる。


「跳べ!」


恐怖を振り切り、グレンの声に従う。窓枠を蹴り、両手を伸ばした。


「グレン──!」


がしりとグレンの片腕がレイラを捕まえた。彼に必死でしがみつき、縄梯子に足を乗せる。


「つかまえた。もう離さない」


きつく片腕で抱きしめたまま囁くグレンの声が、レイラの耳をくすぐる。その瞬間、縄梯子が一層強く揺れた。


はっと上を見上げると、縄梯子が飛行船に巻きとられていく。ゆっくりと上空に上がっていくレイラの足元から、声がした。


「私の教えたことを忘れるんじゃないよ!」


ちらりと見下ろすと、ファインズ夫人が窓から身を乗り出してこちらに手を振っていた。


(ええ、忘れたりするもんですか。あなたのように厳しくて、なのに本当は優しい人を、忘れるわけがない)


不安定な姿勢で返事をすることも手を振ることもできなかったけど、彼女はそれを責めたりはしないだろう。



縄梯子は飛行船の中に収納され、グレンたちはその中に降り立つ。すると途端にレイラの膝から力が抜けて、その場に崩れ落ちそうになった。そんな彼女をグレンが支える。


「ああ……びっくりした。ねえ、どうしてここがわかったの。いえそれより、怪我は大丈夫だった? アルも元気?」


見上げると、グレンはせっかちなレイラとは反対に優雅に微笑む。


「話さなければならないことはたくさんあるんだけど、まずは」


グレンの指先がレイラのあごをとらえらる。


「とにかく、キスがしたい」


ふわりと羽根のように軽いキスが降ってきた。レイラが慌てて目を閉じると、両手で頬を包まれる。


だんだんと激しさを増していくキスに、どうしていいのかわからずギュッと彼の服を握る。


「……どうした?」


不意に唇を話し、彼が聞く。


「なにが……?」


「泣いてる」


「えっ」


親指で目元を拭われて初めて、レイラは自分が泣いていることに気づいた。


「ごめん。舌を入れるのは早すぎたか」


「ば、バカ」


「じゃあ、やっぱり脱出方法が危険すぎたか。怖かったな、よしよし」


グレンはレイラを抱きしめ、優しく頭をなでる。


(そうじゃない。たしかに結婚前に深いキスをしてしまえるくらいはしたなくなってしまった自分に多少ショックは受けるけど、そんなことはどうでもいいの)


レイラは顔を上げた。


「違う! もう、もう会えないと思っていたから……」


口に出してしまったら、ぼろぼろと涙が零れた。拭っているうち、それはあとからあとから溢れて止まらなくなってくる。


ひどい怪我をしたはずのグレンが、平気な顔で自分をさらって笑っている。レイラはそんな奇跡に驚いた後、ホッとしたのだ。


強がっていたけど、本当はとても不安だった。グレンがどうなってしまったのか、自分がこれからどうなってしまうのか。


「泣かないでくれ。もう大丈夫。僕が迎えに来たんだから」


「グレン侯爵……」


「名前だけでいい」


「グレン、もう離さないで」


グレンの広い胸に飛び込むレイラ。これからどうなっていくのかはまだわからないけど、一緒ならきっと大丈夫。


レイラの想いに答えるように、グレンが優しく、でも強く、抱き返す。それだけで自分は世界で一番幸福な人間なのだと、レイラは思えた。


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