第6話 謎が謎を呼ぶ
レイラがローダーデイル家の玄関をくぐった時には、既に日が暮れていた。
「ただいま帰りました」
デボラの部屋に呼ばれて行くと、彼女はソファに座ったままレイラの顔をじっと見た。
その目は自分を蔑んでいるようには見えないが、やはり怒っているようだ。そんな雰囲気を、レイラは肌で感じる。
「おかえり。馬車の中で反省はしたようね」
デボラはレイラの泣きはらした後の顔を見て言った。本当は、反省して泣いていたわけではないが、レイラは黙っておく。
「どんな理由があれ、未婚の女性が男性の家に泊まるなんてあってはならないことよ。相手が侯爵で逆らえないのもわかるけど、うまく言ってなるべく早く帰るようにしなくては」
「おっしゃるとおりです」
朝早く帰れば良かったのにそれができなかったのは、レイラも心のどこかで、「もう少しグレンと一緒にいたい」と思っていたからだろう。
レイラがうなずくと、デボラは他の使用人を呼び、お茶を運んでくるように命じた。
「座りなさい。どうしてこうなったのか、詳しく説明して」
レイラはぼそぼそと、市場であったことからひとりで街に戻ったこと、そこで遺体を発見したこと、男たちに騙されて乱暴されそうになったところをグレンに助けてもらったことなどをデボラに話す。
途中で執事のセドリックが紅茶を運んできた。彼はレイラとデボラの間にサンドイッチも出してくれたけど、誰も手を付けようとはしなかった。
「屋敷に送ってくださると侯爵がおっしゃったので、気が抜けて眠ってしまったんです。気づいたらロンドンにいて」
「まあ。気をつけなさいよ。ランカスター侯爵だって男なのよ。あなた、彼に乱暴なことはされなかった? 正直に言っていいのよ」
「乱暴ですって」
そんなことは何もなかった。むしろ親切なもてなしをされて、どうしていいのかわからなかったとレイラが話すと、デボラはため息をついた。
「あと数日いたらあなたの貞操は危なかったかもしれない。いい? レイラ。あなたは自分で気づいていないかもしれないけど、とっても綺麗なのよ。可愛いの」
(えっ、そうなの?)
あまり鏡をじっくり見る習慣もないし、異国風の緑の瞳は少し気味が悪いとレイラは自分で思っていた。
「貴族の娘と遊んで傷をつけたら大事よ。でもメイドや娼婦ならどれだけ遊んだって平気なの。甘い言葉で騙して、子供を孕ませたりしたら即ポイよ。貴族の男っていうのは、そんなのばかり」
「ポイ……」
「そうなった女性を、何人も知っているわ。そのメイドがどうなるかわかる? 子供と一緒に貧救院に送られるの。半分貴族の血が通っていたって、その子供は結局平民、いえそれ以下として扱われるのよ」
貧救院というのはどうやっても税金が払えないくらい貧しい人々が保護される施設だ。しかし保護とは表向きで、実際は過酷な労働をさせられ、ひどい食事をほんの少ししか与えられないという。
甘い言葉で騙して……。もしかしたらグレンの言葉は全て嘘だったのか。
(緑の目のメイドが珍しかったから、遊んでみようと思っただけ?)
そう考えるとレイラの胸は張り裂けそうになった。
「もういいわ。無事で帰ってきたのなら、それで。下がりなさい」
「はい。申し訳ありませんでした」
結局紅茶にもサンドイッチにも手をつけず、レイラはとぼとぼと狭い使用人部屋に戻る。小さなチェストの上に乗っていた包みを広げる。ベンジャミンが運んでおいてくれたんだろう。
布の中から、マヌケなカバの置物が姿を現す。
(ねえ、本当に騙そうとしていたなら、こんな可愛い置物じゃなくて、宝石を送るわよね)
レイラは我知らず、グレンに心で問いかける。
こんな経験は初めてだし、慣れていないレイラには男性の真実を見抜く力はない。でも、彼の真剣な瞳が嘘ではなかったと信じたかった。
くたくただったレイラは、ドレスのままベッドに倒れ込む。明日からはメイドの仕事に戻らなければならない。
(ちゃんと眠らないと。眠るのよ。すべて忘れて)
自分に言い聞かせるほど、頭が冴えて眠れなくなるレイラだった。
四月も後半になり、本格的な社交シーズンがやってきた。
レイラは連日連夜デボラ様について社交場を回ることになり、いつもに増して疲れ果てていた。
占い師としてのレイラの衣装は、東南にある異国から取り寄せたもので、青緑色の体にぴたりと貼りつくような半袖と腰からつま先まで隠す長いスカート。おへそが出ていて、レイラとしてはかなり恥ずかしい。
腕には黄金の腕輪をつけ、耳にはリング状の大きなイヤリング。首にもサファイヤが埋められた首飾りをつけ、頭には素顔を見えにくくするベールをかぶっている。その縁にはしゃらしゃらと音が鳴る金属の装飾が。
薄く化粧を施され、社交場の片隅で同じような占いを延々と続ける。そのほとんどは若い令嬢の結婚についてで、レイラはいい加減嫌になってきた。
自分だって、貴族なら……。よくそう考えてしまう。
あれ以来、レイラがグレンの姿を社交場で見ることはなかった。デボラがレイラと彼が接触しないように、占いのテーブルの周りに小さなテントのような幕を張ってしまったから。
その前にはセドリックがいて、男性はレイラに声をかけられなくなっている。どうやらグレンは、デボラに完全に嫌われてしまったようだ。
(それにしたって、薄情よね)
グレンの方が伯爵のデボラより位は高い。ごり押しすればレイラに会いにくることは可能なはず。
なのにあれ以来彼からは何の音沙汰もなかった。訪問はおろか、手紙すらない。
「からかわれただけなのかしら」
前に座っていた令嬢が、さめざめと泣きながらレイラの気持ちを代弁するようなセリフを吐いた。
「大丈夫。次に出会った人と幸せになれますよ。私には見えます」
結局彼女は親がすすめた男性と安定した穏やかな暮らしを手に入れる。そのビジョンが見えたことをレイラが伝えると、令嬢はほっと安堵の表情を見せた。
彼女が去ると、お客が途絶えた。テントの向こうからワルツが聞こえてくる。
(みんな、お目当ての男性と踊ることに必死なのかも)
ほっと一息つく。
(そうよ、あなたたちには占いなんかに頼らないでも自分の親の地位とお金があるじゃない。結婚なんてどうとでもなるわよ)
自分の心が僻みと妬みにむしばまれていることに気づき、レイラは深いため息を吐いた。
「私って嫌な女だったのね……」
ひがんだって仕方ない。グレンのことは夢だった。そう思うしかない。
くたりとレイラがテーブルに突っ伏すと、テントの裾が揺れた。何かと思って体を起こすと、そこから一匹の猫が顔をのぞかせる。
「可愛い! こっちにおいで」
毛並みのいい猫だ。綺麗な銀色をしている。
「あんた、男の子にゃのね~」
レイラが猫を抱え上げると、男の子の証が見えた。猫は心なしか嫌そうな顔をする。
「あら、珍しい」
可愛い顔を覗いて気づく。目の色が普通じゃない。右はブルー、左はグレー。オッドアイだ。
(なんか、こんなような目、どこかで見たような気が……)
レイラが記憶を探ると、すぐにピンと来た。
「あっ、アル?」
そうだ、アルだ。プラチナブロンドのオッドアイ執事は、今頃何をやっているのか。レイラは生真面目な彼のことを思い出す。
「なんて、あんたがアルなわけないよね。ん?」
膝に乗せて背中を撫でようとすると、アルみたいな猫の首輪に、何かが結び付けられているのをレイラは見つけた。
「なにコレ。紙?」
勝手に結び目をほどき、紙を広げると、そこには流麗な文字が。
「ディア、レイラ……私に?」
まさかと猫を見ると、レイラの膝の上ですくっと立ち上がりテーブルの上にとんと飛び乗る。
猫に見守られながら手紙に視線を戻す。それにはこう書かれていた。
『あれからもう二週間が経つけれど、元気にしていますか
僕は議会などもあり少し忙しくしていました
きみへ何通か手紙を書いたけれど、どうやら届いていないようですね
もう少しで、迎えに行く準備が整いそうです
どうか、僕を信じて待っていてほしい
僕の天使へ
グレン・ランカスター』
そのサインに、レイラの胸が高鳴る。
(これ、グレンから私への……)
手紙の先を読み進めた。
『追伸
きみの出自のことはなにかわかりましたか』
「そういえば、何もわかっていないんだった……」
レイラは手紙を膝に置いてうなった。
何度となくデボラに自分の出自のことを聞いてみようとは思ったけれど、外泊事件で怒らせてしまって話しかけづらくなっていたし、あの時の彼女の言葉が、レイラを逡巡させていた。
『半分貴族の血が通っていたって、その子供は結局平民、いえそれ以下として扱われるのよ』
産まれたばかりで捨てられたということは、何かやむをえない事情があったということだろう。それを追及したとしても、きっとグレンが望むような結果は得られない。でも。
「迎えに行く準備って……これって、私をランカスター家に迎えようという気持ちが変わってないってことよね?」
準備とは、具体的には何をしているのか。身分差があっても結婚できる裏技でも探しているのか。レイラは首を傾げる。
「もしや、駆け落ちでもする気?」
それもいいかもしれない。スコットランドの端っこにでも駆け落ちして、二人でのんびり暮らす。グレンには似合わないかもしれないけれど……。
レイラが宙を仰いで想像を巡らせていると、猫がにゃあと鳴いた。
「ごめん。あなたは侯爵家の使いなのね」
うなずくように、再度鳴く猫。人間の言葉がわかっているみたいだと、レイラは関心した。
「ここには書くものがないの。どうしよう……」
何とか返事をしたい。迎えに来てくれると言うなら、私は待つ。あなたを愛してる。レイラは今すぐにでもそう返事を書きたいのに、ここにはインクもペンもない。
レイラがごそごそとポケットを探ると、一枚のハンカチが出てきた。何の刺繍もない、ただの白い木綿のハンカチ。
「そうだわ」
レイラはそれに、自分の口を押し付けた。口紅が唇の形のまま転写される。
「侯爵に伝えてちょうだい。今度会えたら、私からキスを贈るわ。なんて、伝えられるわけないわよね」
とにかく、この気持ちがグレン公爵に届きますように。祈りを込めて、レイラはハンカチを猫の首輪にくくりつけた。
「さあ、お行き」
もうすぐ曲が終わる。そうしたらまたお客さんが来るかもしれない。猫はレイラの言葉通り、すっと音も立てずにテントの外へ出ていった。
夜に用事のない日は、昼間のメイドの仕事がある。よっぽどのことがない限り、レイラたちに休みはない。
「おやレイラ、今日は屋敷にいてくれるのか」
庭を掃いていたレイラに、ベンジャミンが声をかける。今日も彼のくせ毛は元気にくるくるしていた。
「私だって遊んでいて家の仕事ができないわけじゃないわよ」
「知っているよ。毎日大変だな」
彼は植木にやる水を運んでいる途中のよう。雑多な仕事を言いつけられて、そっちこそ大変だ。
「ねえ、ベンジャミン。最近私に手紙が来なかった?」
グレンの手紙によると、彼は何度かレイラに手紙を送ってくれたようだ。届いていないとなると、郵便屋の怠慢か、それとも。
「さあ。俺は知らないよ。そもそも誰がお前に手紙をよこすっていうのさ」
きっと、デボラの命令でセドリックさんが隠して処分してしまったんだろう。もしかしたら中身を見られたかもしれない。レイラは推測する。
(グレンのことだから、読まれて困るようなことは書いていないだろうけど。偽名も使いそうよね)
しかし、そもそも身寄りのないレイラに手紙をよこしてくるような相手はいない。偽名でもバレバレだ。
「私にだって、ラブレターを送ってくる人のひとりやふたり、いるかもしれないでしょ」
落胆を隠し、ベンジャミンに冗談ぽく返事をすると、彼は水の入った桶を置いて、レイラをにらんだ。
「そんなやつがいるのか?」
基本的に、どこの家でもメイドは恋愛御法度。けれど一生独身というわけにもいかないので、多くのメイドは働きに出る前に故郷に恋人をつくっておき、たまに逢引をして愛を育み、結婚する。
使用人同士の結婚もないわけじゃないけど、やはり主人や世間の目は厳しい。
「いないけど」
「もしかして、あの侯爵か」
「違うったら」
ベンジャミンがこんなに食いついてくるとは思わなかったレイラは面倒臭くなり、箒を持って移動しようとするが。
「お前、最近変だぞ」
後ろからそんなセリフを投げかけられ、思わず足を止めて振り向いてしまった。
「私が? どんなふうに?」
「考え事をしていることが多くなった。あの侯爵に拉致されてからだ。本当はお前、あの侯爵に遊ばれたんじゃないのか。早く忘れた方が身のためだぞ。貴族と違って、メイドなら一度や二度の過ちは許される」
貴族の令嬢が結婚するにはまず処女であることが原則。結婚後にそうでなかったと知れた場合は離縁されることもある。
「ひどい想像ね。あなた、世の中のすべてのメイドを敵に回したわよ」
メイドは男性の遊び道具じゃない。
「使用人に手を出す貴族なんてわんさかいる。メイドは夢中になっても、あっちが本気になることなんてありえない」
「だから、そんな事実はないって言ってるでしょ」
その話はデボラに聞いた。
(都合悪くなったらポイされるんでしょ。本当にひどい話)
レイラが不愉快になって話を打ち切ったそのとき、ベンジャミンが突然彼女の手をつかんだ。
「じゃあ、どうして突然そんなに周りが見えなくなっちまったんだよ」
「えっ?」
「うちから子供が一人いなくなったのも気づかないのか」
黒い瞳でレイラをにらむベンジャミン。その言葉の意味が、彼女には全く理解できなかった。
「子供がひとり、いなくなった? どういうこと」
「七歳のセシルが、他の家にもらわれていったんだ」
「そんな。いつ?」
「三日前」
三日前。その日はたしか、レイラは昼から、デボラが招かれたロンドンでのお茶会についていった。夜はまた違う社交場にいて、帰ってきたのは深夜だった。
次の日も、そして今日も、あの小屋に行くことはなかった。他の使用人が食事を運んでいたから。
「あとで顔出してやれよ。子供たち、寂しがってた」
ベンジャミンは手を離し、桶を持って去っていく。
(たしかにそうだ。私、自分のことばかりであの子たちのことを後回しにしてしまっていた。みんなのお姉さんみたいな存在だったセシルがいなくなったなんて。きっと心細く思っているに違いないわ)
レイラは掃除を終えるとすぐに、子供たちがいる小屋に向かった。
「あ、レイラ!」
「レイラ、久しぶりー」
小屋のドアを開けると、おもちゃで遊んだり本を読んでいた子供たちが駆け寄ってきた。見回してみるけど、たしかにセシルがいない。
「ねえ、セシルが他家にもらわれていったって聞いたんだけど本当なの?」
レイラがたずねると、四歳のトーマスが答える。
「そうみたい」
「そうみたいって……」
他家に養子にいったなら、迎えの馬車が来たはずだ。荷造りも必要だっただろうし、新しい服に着替えたり、食事をしたりお土産を持たせたり……そんな準備に子供たちが気づかないわけない。
「そもそも、その話はいつから出てたの? 私が留守にしていた間?」
「誰も知らなかったの。ある朝目覚めたら、セシルがいなくなってて、私たちも大騒ぎしたの」
六歳の女の子が答える。彼女によると、大騒ぎのあとベンジャミンが駆けつけ、『セシルは他家にもらわれていった』と説明したらしい。
「何それ……」
いなくなる前の夜は、みんなと一緒に眠りについたらしいセシルは、夜中から明け方に出ていったということか。
(どうしてわざわざ、そんな時間に?)
ランプがあったって、街灯が普及しはじめていたって、夜道は暗くて危ない。どうしてそんな時間に連れていく理由があるのか。
それに、誰もセシルがもらわれていくことすら知らなかったとはどういうことなのか。七歳の女の子が住み慣れた場所を離れるのは、大きな不安を抱えることになるだろう。誰かにその不安を打ち明けてしまうのが自然じゃないだろうか。
どんな家の養子になったのか。それも、子供たちに聞いても誰もわからなかった。
(中流家庭の養女にでもなって、幸せになってくれればいい。でも、なんだろう。この胸騒ぎは……)
他の子供たちを不安にさせるようなことがあってはいけないと思い、レイラはすぐに小屋を出る。それでも、胸騒ぎはおさまらなかった。
夜になっても、セシルのことが気になったレイラは、なかなか寝付けなかった。
「んも~っ」
寝間着のままベッドから飛び出す。
(グレン侯爵との一件で乙女モードになってしまっていたけど、本当の私に戻る時が来たわ)
のろのろしていてはいけない。レイラは寝間着のままランプを持ってそっと部屋を抜け出し、キッチンへ。食器棚の中に隠してある屋敷中の部屋の合鍵を持ち、裏口から外へ出て子供たちの小屋へ向かう。
(昼間はみんな起きていたから無理だったけど、探せばセシルの持ち物が一つくらいあるはず。それの記憶を探れば、何かわかるかもしれない)
小屋へ向かう途中、メイズの前を通る。それは昼間とは違い、とても不気味に見えた。今入り込んだら、二度と出られなさそう。
(そういえばここで、グレン侯爵がかくれんぼをしようと言いだしたんだよね……。って、ダメダメ、目的達成するまで乙女モード禁止!)
ふるふると首を横に振るレイラ。さあ行こうと呼吸を整えた瞬間、背後でがさりと音がした。
レイラの心臓が止まりそうになる。慌てて植込みのかげに逃げ込むと、正面から銀色の何かが飛び出した。
「なにっ?」
ランプをかざしてよく見ると、それは銀色の猫だった。左右で違う目の色をしている。
「あんた、ランカスター家の……!」
猫はこちらに向かってくる。さっきの物音はこの猫だったのか。
「もう、驚かさないで……」
レイラが猫を取り押さえようとしたら、再度がさがさと物音が闇夜に響いた。ビクッとして背中を丸める。音はメイズの方からしたようだ。
ランプの火を吹き消し、レイラはそっとメイズの方をのぞく。彼女の肩にはいつの間にか銀色の猫が乗っていた。
「あれ……」
メイズの入口から、何者かが姿を現す。その姿は暗闇の中ににじんで詳細が見えないけど、黒っぽいマントを羽織っているようだ。緊張と恐怖でレイラの心臓が暴れる。
(どうしよう、不審者だわ。こんなところで何をしているのかしら)
不審者は何かを抱えている。レイラがじっと目をこらすと、それは大きな木箱のように見えた。左右に持ち手がついている。
(もしかして泥棒? でも、それにしてはおかしい)
金目のものがあるのは屋敷の中で、メイズから何を運ぼうというのか。
(ん……? そもそも、不審者がメイズの中から出てくるっていうのがおかしくない?)
出口は屋敷の敷地の端に繋がっている。そっちから入口の方に抜けてきたということか。いったい何のために。
屋敷の中に何か運びたいなら、こんな一番時間のかかりそうな道を選ばなくてもいい。出口の方には『ここはメイズの出口です』って看板があったはずだし。
考えれば考えるほど、謎の不審者だ。これはこのまま取り逃がすわけにはいかない。
不審者は木箱を抱え、屋敷の方へ歩いていく。その背中を追いかけようと思い、レイラが立ち上がろうとすると。
「にゃっ」
猫がいきなり顔に覆いかぶさってきた!
「な、なによう。どきなさいよ」
小声で言いながら力任せに猫を顔からどかすと、もうレイラの目の前に不審者の姿はなかった。
「あれ……?」
いったいどこへ消えたのか。近くは背の高い木や噴水がある。物陰に入ってしまったのか、とにかく周りが暗くてよく見えない。
「もう、なんで邪魔するのよっ」
レイラがにらみつけると、猫の目がきらりと光る。月光に照らされたそれの輪郭が急にぼやけた。
「え……」
むくむくと、猫の背中が膨らみ、形を変えていく。すっかり猫でなくなったそれは、人の姿をしていた。
「あ、アル!」
「しっ」
大声をあげそうになったレイラの前で、アルが人差し指を唇にあてる。彼はいつもの執事の格好をしていた。
「深追いしない方が良い。あなたひとりじゃ危険すぎる」
「ちょ、ちょっと待って。情報が多すぎて処理できない」
どうして猫がアルになるの。どうしてあなたはこんなところにいるの。ああそれより、あの不審者はいったい誰? レイラの頭はパンク寸前になった。
「とにかく、あなたは屋敷の中へ。私はあなたを守るため、グレン様の命で姿を変えて近くに控えていたのです。お願いですから、無茶しないでください。あなたに何かがあったらグレン様が悲しみます」
アルはレイラの肩をつかんで説得し、それを終えるとすくっと立ち上がる。ついでに彼女も一緒に立ち上がらせられた。
「あの者の追跡は私に任せて。さあ、早く」
「え、ええ。気をつけて」
「御意」
風のような速さで、不審者を追って走り去ってしまうアル。
(ああ、アル。あなたって、どこか只者じゃない雰囲気だったけど本当は猫だったのね)
いや、グレンの魔法か何かで姿を変えられていたのか? そもそも彼は魔法使いだったっけ? レイラの頭は混乱した。
「……ちょっと今夜はこれ以上は無理そう」
混乱したまま、思考停止してしまったレイラ。とにかく、アルの言う通りに部屋に帰ることを決めた。
(それにしてもアル、大丈夫かな)
彼が強いのはレイラも知っているけど、今夜はひとり。グレンがいない。
どうか、アルが無事でありますように。祈ったレイラは部屋に戻ってベッドに入る。しかしやっぱり、眠れるわけはなかった。
気が付くと、レイラは見たこともない場所にいた。小さな天蓋がついたベッドの周りに、ビスクドールやおもちゃのティーセットが転がっている。小さなドレッサーは明らかに子供用サイズ。
(ここは……どこ……?)
どこかで見たことがあるような部屋だと、レイラは感じた。花柄の壁紙の子供部屋。
きょろきょろと周りを見回すと、自分の視線が低いことに驚く。たしかに両足で立っているはずなのに、目の前にあるクリスマスツリーのてっぺんの星の飾りが頭より上にある。ツリーは隣にあるローチェストと同じくらいの高さなのに。
(まるで、小人になったみたい)
不思議な感覚のまま部屋を出ると、階段の方から異臭が漂ってきた。何かが焦げるような匂いがレイラの鼻をつく。
金色に塗られた手すりをたどって大きな壁画の横にある階段を降りていく。その先にあるロングギャラリーが、何故か白く霞んで見えた。
だだっ広い廊下に見えるそこにはたくさんの絵画や彫刻、陶磁器などが飾られている。この屋敷の中心といえる場所だろう。裕福な貴族の屋敷に違いない。
二十フィートもありそうなギャラリーの先から、白い靄がレイラに迫る。いや違う。だんだんと灰色に、そして黒く染まっていくこれは靄じゃない。煙だ。
立ち尽くしていると、焦げ臭いにおいがどんどんひどくなってきた。
(このままじゃいけない。煙に巻かれて死んでしまう)
レイラは踵を返し、走りだす。出口なんてわからないけど、とにかく走る。すると、すぐに玄関らしきものが現れ、重い扉を両手で開けた。
得体の知れない恐怖感が胸を襲う。涙が浮かんでくる目をこすりながら、なんとか屋敷から離れた。庭の中にある噴水のふちにもたれ、屋敷の方を振り返る。
「ああ……っ」
そこにあったのは、見覚えのある白いマナー・ハウスだった。物見の塔まである、大昔の城塞のようなこのお屋敷は……。
(そうだ、グレン侯爵の記憶だ)
彼の手を繋いだ時に垣間見えた、あの白い屋敷。
(でも、どうして。彼が知っていたのは、庭に花が咲き乱れる美しい緑の中の城だった。それがどうして、今は火に巻かれているの?)
一階の隅から見えたオレンジ色の炎が、みるみるうちに屋敷全体を覆っていく。
屋敷の主人たちや使用人たちの逃げ惑う物音や悲鳴が聞こえ、レイラは耳を塞いだ。
(怖い。どうしよう。どこかに逃げなきゃ。でも、どこへ?)
体と同じように、レイラの中にある勇気も縮んでしまった。
がたがたと震える膝をどうにもできず、ただその場に立ちすくんでいると。
「おいで、レイラ!」
目の前に小さな手が差し出された。高いけれど、少しくせのあるその声には聞き覚えがある。ふと横を見ると、黒髪の少年が立っていた。
白い肌は陶器のようで、アメジストがそのまま埋め込まれたような澄んだ瞳をしている。
「あなたは、もしかして……」
彼の手を取ろうとした瞬間、びくりと体が跳ねたような気がした。
「ぁっ、はあ、はあ……っ」
レイラが瞬きをして周りを見ると、そこは住み慣れたローダーデイル家の使用人部屋だった。
模様のない簡素な壁紙に、チェストの上のカバの置物。ドレッサーなんて言えない、テーブルの上の小さな手鏡。
そんなものを見て、レイラは心底ほっとする。
(私、夢を見ていたんだ)
やけに現実的な夢だった。煙の色やにおい、熱い炎の温度まで肌で感じた。
息を整えながら思う。最後に手を差し伸べてくれたあの美しい少年。まるで、グレンをそのまま小さくしたみたいだった。
「いったい何だったの……」
こんな風に他人の記憶と繋がる夢を見たのは初めて。何かの暗示なのか、それとも夢はただの夢であって、なんの意味もないのか。
「考えたってわかるわけないわよね。それにしてもアル、昨夜大丈夫だったかしら」
眠れない眠れないと思いながら、いつの間にかうとうとしていたようだ。部屋中を見渡しても、猫のアルの姿はない。
レイラはカーテンを開ける。遠くに見える山々の間から朝陽が顔をのぞかせていた。
その日が終わって次の日になっても、アルは現れなかった。
「いったいどうしたんだろう。もしかして、あの不審者に返り討ちにあってしまったとか?」
まさか。あんなに強いアルが、普通の人間に負けるわけない。レイラは自分に言い聞かせる。
ローダーデイル家のギャラリーの掃除をしながら窓の外を見ていると、ベンジャミンに声をかけられた。
「また何か荷物が運び込まれているな」
ベンジャミンの言う通り、昨日から見たこともない人たちがやってきて、デボラが注文したという荷物が屋敷に運び込まれていた。
今日も窓の外、階段を上がってくる人の姿が見える。彼らは皆黒いマントを羽織っており、フードを目深にかぶっていた。表情が見えなくて気味が悪い。ロンドンで殺された子のボタンの記憶に残っていた、黒いオングコートの男を思い出す。
「デボラ様、いったい何を買ったのかしら」
彼らが運んだ荷物は、セドリック以外の使用人は開封禁止。中身を知る方法はない。
「さあ……知ってるのはセドリックさんくらいじゃないか」
「そうね」
それにしても、何か嫌な感じがする。そう思っても口には出さず、レイラは飲みこんだ。
あの不審者が誰だったのか、目的も何もわからない。その直後に不気味な男たちが荷物を運びこむようになった。
ローダーデイル家の雰囲気が、少しずつ変わり始めている。それを肌で感じるのは、レイラにとって決して愉快なことではなかった。
「レイラ、デボラ様がお呼びだ」
セドリックが階段の上から声をかけてきた。
「何でしょうか?」
夜は舞踏会に行く予定がある。けれど、着替えの時間にはまだ早い。いったい何なのか。
「こちらへ」
階段から降りてきたセドリックが、レイラを手招きした。
キッチンを抜け、半地下のワインや食料の貯蔵庫へ向かう。
(デボラ様、いったいどうしたのかしら。いつもはこんなところに来たりしないのに)
お客様に出すワインの相談? でもそれなら、セドリックさんや料理番のエリックが適任。どうして私が。レイラは不思議に思いつつ、セドリックについていく。
たどり着いた貯蔵庫にも、デボラはいなかった。
レイラがきょろきょろしていると、ずらりと並ぶワインの棚のひとつを、セドリックが両手で押しはじめる。
「あの……模様替えですか? どうしてこのタイミングで?」
「いや、単に棚を動かしたいわけじゃない」
言いながら、セドリックは重そうな棚をひとりでずらしてしまった。
「えっ、なんですかこれ」
棚の後ろには、当然壁があるものだとレイラは思っていた。しかしそこにあったのは、人がひとり通れるくらいの普通のドアだった。いや普通じゃない。そのドアは甲鉄でできていて、頑丈そうな南京錠がかけられている。
セドリックは胸ポケットから鍵を取り出し、南京錠を解除した。重い扉が開かれ、その中に招かれる。
レイラが恐る恐る踏み込んだその先は、下に続く階段になっていた。このお屋敷、地下室なんてあったんだ。
階段を降りて狭い廊下を抜けると、開けた空間に出会った。
「あっ!」
薄暗い地下室にあったのは、鉄の牢屋だった。ランプを持ったデボラが、その前に立っている。
(こんなところに、こんなものがあったなんて……)
レイラは我知らず身震いする。
「レイラ、やっと来たのね」
「お、お呼びでしょうか」
こちらを振り向くデボラは、レイラが見たことがないくらい険しい顔をしていた。
(私、牢屋に入れられるようなこと何かやったっけ? お腹が空いて、ちょっとだけ貯蔵庫のお菓子をつまみ食いしたのがバレたのかしら……)
すっかり委縮してしまったレイラに、デボラが言う。
「恐ろしいことが起きたのよ、レイラ。この屋敷に悪魔が入り込んでいたの」
「あ、悪魔、ですって?」
「見て」
デボラがランプを牢屋の方へかざす。セドリックに背を押されてレイラが恐る恐る近づくと、その中に見えたのは……。
「どうして……!」
そこにいたのは、傷だらけのアルだった。ネクタイがなくなり、シャツやズボンや、あちらこちらに血がにじんでいる。手足はそれぞれ金属の手錠で拘束されていた。
「この者は、昨夜捕えたのよ。屋敷のあちこちをうろついていたの」
アルは無言でじっとしている。
(そんな。アルが逆に不審者として捕まっちゃったっていうの。いったいどうやって。とにかく、早く出してあげなくちゃ)
レイラのこめかみを冷や汗が流れる。
「いくら訊問しても、何が目的だったか話さないの。レイラ、この者の記憶を探ってちょうだい」
デボラが牢に近づき、足元から伸びていた鎖をぐいと引っ張る。するとじゃらりと音がして、うつむいていたアルが顔を上げた。
「レイラさん……」
(大丈夫よ、アル。すぐに出してあげる)
視線で返事をすると、レイラはデボラを真っ直ぐに見つめた。
「恐れながら申し上げます、デボラ様。彼は私の知人です。デボラ様もお会いになったことがあるはず」
「なんですって?」
「彼はランカスター家の執事です。ランカスター侯爵から私への手紙を内緒で持ってきてくれたのです」
デボラは眉間にシワを寄せ、じっとアルとレイラを交互ににらんだ。
「そういえば、見たことがあるわね」
こんなインパクトのある見た目の人を忘れるなんて。貴族にとって執事なんて見えてないものなのか。
「私の部屋がわからず、うろうろしてしまっただけなんです。何も悪いことなんて企んでなかったわ。お願いです。早く彼を出してください」
深く頭を下げるけど、デボラの返事は冷たいものだった。
「それくらいのことなら、早く白状すれば良かったものを。他に何か隠しているんじゃなくて。レイラ、もっとちゃんと記憶を探りなさい」
「そんな……本当です。アルは手紙を届け、私を守るようランカスター侯爵に言われて……」
そこまで言って、レイラは自分で言葉を切ってしまった。
(待って、たしかにあの夜、アルは『私はあなたを守るため』って言ったわよね。いったい何から私を守るというの? 私にどんな危険があるっていうの?)
考え込みそうになるが、怪訝そうなデボラの視線に気づき、レイラは我に返った。
「とにかく、彼は私が元気か知りたかっただけなんです」
かぶりを振って言いなおすと、デボラは釈然としない表情でセドリックを見た。
「それなら、堂々と正面から名乗って訪問してくるべきよ。こんなやり方は我が家を侮辱しているわ。ロンドン警察に通報します」
「やめてください、そんなこと」
そんなことしたら、アルが警察に捕まってしまうばかりか、ランカスター家の名に傷がついてしまう。
「正面から来たら、手紙を受け取ってもらえずに追い返される。それがわかっているから、こそこそするしかなかったんです」
本当は、アルは別の目的で屋敷に入り込んでいた。しかし、今まで手紙を取り次いでもらえなかった不満が積もって、思わず口から出てしまった。
「誰に口をきいているの!」
デボラの右手が宙に上がる。レイラは何の反応もできないまま、素早く下ろされたそれに頬を打たれた。
よろけて床に座り込むと、じゃらりと鎖の音がした。
「レイラさん!」
アルが呼びかけてくる。
「たしかに、ランカスター侯爵の手紙は私が預かっています。どれもこれも、うさんくさいラブレターだったわ」
ひどい。他人宛ての手紙を勝手に読むなんて。そう思ったレイラだが、初めて主人に殴られたショックで、言葉が出てこない。
「あんな侯爵にまんまと騙されるなんて。あなたがそんな不埒な娘だとは思わなかったわ」
「不埒だなんて。レイラさんとグレン様は実際、キスまでしかしていません!」
声変わりしたてのような、成人男性にしては少し高い声が地下に反響する。
(アル……。それね、全然弁護になってない。しかも、なんでそんなこと知っているの)
侯爵には日常茶飯事でも、未婚の女性が男性と手を繋いだりキスするなんて、本当は大問題。
レイラは別のショックでクラクラした。
「キスですって。ほらレイラ、ランカスター侯爵はあなたを本気で想ってなんていないのよ。本当に愛しているなら、結婚までしたいと望むなら、そんなことは結婚後まで我慢するものです!」
デボラは声を荒らげ、レイラを叱責した。
「とにかく、この件は警察に……」
「ん?」
セドリックが頭上を見上げる。天井の上でどたどたと音がしたからだ。
「騒がしいな。少し様子を見てきます」
そう言い、セドリックは階段を上っていく。いったい何があったのか。
「とにかく、今後一切ランカスター家との交流は禁止します。わかりましたね」
「そんな!」
また言いあいになりそうになったレイラたちの前に、セドリックが階段を駆け下りてきた。
「デボラ様、大変です!」
「なに?」
「ロンドン警察が……」
警察。まさか、もうアルを捕えに来たのだろうか? レイラは焦る。
「あなた、もう連絡したの?」
「いえそれが、その男のことではなく、子供たちのことで……」
「なに? どういうこと?」
息を切らせるセドリックに質問を続投するデボラ。セドリックはやっと息を整え、はっきりと言った。
「孤児を匿うのは孤児院の役目であると。女王陛下の許可もとっていない。よって、ローダーデイル家の違法を問い、女王陛下の命により、あの小屋を取り壊すと言っています」
「なんですって」
デボラは血相を変え、セドリックと共に地上へ出ていく。
(いきなり警察が来るなんて……。とにかく、今はアルを助けなきゃ)
何がどうなっているのかわからなかったが、レイラは牢の鉄格子を握った。
「アル、今よ。猫になって脱出して」
言うが早いか、アルの体が銀色に光る。小さな猫の姿になると、よたよたと落ちた手錠を乗り越えて鉄の柵の間を潜り抜けてきた。
「いったいどうして……」
猫の姿のアルを抱きしめる。もう話す元気もないらしく、彼はレイラの腕のなかでぐったりとしていた。
『レイラさん、私を外に連れて行ってくれませんか』
何とかそれだけを伝えてくるアル。猫の口でそれが話せるわけもなく、レイラは心情に直接語りかけられたような気がした。
アルを抱え地下室を出ると、屋敷の中には誰もいなかった。子供たちの小屋の方へ向かったんだろう。
自分もそっちへ向かった方が良いのか、それともアルを安全な場所へ逃がす方が先か。裏口から出てレイラが迷っていると、小屋の前で制服を着た警察官たちが子供たちを連れていくのが見えた。
「ごめん、アル」
子供たちが不安げな顔で泣いているのが見えて、いても立ってもいられなくなった。レイラがそちらに駆け寄ると、デボラが大きな声で警察に抗議していた。
「どうしてですの。私がこの子たちに何をしたというのですか?」
「女王陛下の許可を得ずに、マナーハウスに人を置いてはいけない。それくらいご存知でしょう?」
警察官の一番偉そうな、立派な付け髭をした中年の男性がそう答える。
貴族がメイドや執事を雇うには、その人数により、税金を納めなくてはならない。子供たちも労働力に数えられてしまったのか。
「この子たちは何もしていないわ! 保護されていただけよ!」
レイラが張り上げた声を無視する警察官たち。
「うわ~ん、レイラ~」
「ぼくたち、どこに連れていかれるの~?」
泣きじゃくる子供たちは立ち止まることを許されず、警官に抱かれて連れられて行く。
「待ってよ、ひどいじゃない! その子たちを返して!」
警官たちを追いかけるレイラ。すると、彼らの後ろからある人物が顔を出した。
「この子たちは返せない」
制服を着た警察官の群れから出てきた彼は、黒い髪とアメジストのような瞳を持っていた。すらりとした手足を持つ、美しい紳士。
「グレン、侯爵……」
「君たちは早く子供たちを馬車へ。先に行ってくれ」
グレンが指示すると、警察官はその通りにあっという間に敷地の外へ出て行ってしまった。
(どうしてあなたがここに。そして、どうして子供たちを……)
何がなんだかわからなくて、レイラは言葉を失う。その瞬間アルがレイラの手から飛び降りた。
よたりと地面に降り立った猫は再び光りを放ち、人間の姿に変わった。
「な、なんなの……!」
後ろで一部始終を見ていたデボラが悲鳴に近い声を上げる。そんなことはおかまいなし、グレンはぐったりとしたアルの腕を肩に回して支えて立つ。
「……申し訳ないが、僕は魔法使いでしてね。僕の大切な執事がそれは丁寧なもてなしを受けたことを察知し、お返しに来たわけです」
冷たい声が庭に響き、レイラはどきりとする。こんなグレンを、彼女は見たことがない。
つまり彼は、なんらかの方法を使い、アルと連絡を取りあっていた。そして、アルが捕まって暴力を受けたことを知ったのだろう。
「だからって、どうして子供たちを! 子供たちには何の罪もないのに」
孤児院がどんなところかは知らないけど、他にもたくさんの満たされない子供がいるのは間違いない。
「あの子たちが辛い思いをしたら、どうしてくれるのよ」
「ここにいたら彼らは幸せになれるのか? 跡取りもいない、そのうち潰れる伯爵家に」
「それは……」
そう言われて、レイラはハッとした。たしかにそうだ。ローダーデイル家、いやデボラには嫡男がいない。娘すら、いない。
デボラが年老いて亡くなったら、レイラたちは皆路頭に迷う。それ以前に、子供たちには別の居場所を与えた方がいいということか。
「個人でこういう施設を営むのは、立派なことだと思う。でも、女王陛下の許可なしではいけない。一歩間違えば子供の強制労働や売春、人身売買の砦にもなりかねない」
「なんですって……! 私が、身寄りのない子供たちを拾ってきて、奴隷のように売ると言うの!?」
語気を荒らげて大股で近づいてきたデボラに、グレンは不敵な微笑みで返す。
「そんなことは言っていませんよ。でも、人間、生活に困ると何をするかわかりませんから。僕ではなく女王陛下がそういう判断を下したわけです」
「なんという侮辱……!」
デボラが奥歯を噛む音が、レイラにまで聞こえそうな気がした。
(ローダーデイル家が傾きかけた時に子供たちが被害に合わないように保護すると、そういうこと?)
それにしても急すぎる。
それでも女王陛下の命令と言われれば、いくらデボラでもそれ以上反論できない。
「では僕はこれで。今後のことは女王陛下からの使いが来るでしょう」
「ちょっと待ちなさいよ。グレン侯爵、私に言うことはないの?」
やっと会えたのに、このまま一言も交わさずに帰るつもりじゃないでしょうね。レイラがきっとにらむと、グレンは途端に優しい顔で微笑む。
「もちろんあるとも。一緒においで、僕の天使」
そう言い、グレンはアルを抱えたまま片手を私の方へ差し出す。
(……なんか、アルのついでって感じね。でもいいわ。ここで逡巡してたら、二度と会えなさそうだもの)
レイラはうなずき、歩き出す。持っていきたい荷物はない。彼女が持っているのはその身ひとつ。
ただ、ランカスター家から急いで戻ってきたときに着ていたグレンの母親の形見のドレスと、カバの置物だけが一瞬気になった。そのとき。
「そうはさせないわ! セドリック!」
デボラの声が背後で響いた。捕えられる。そう直感したレイラは、慌ててグレンの方へ走りだす。
「レイラ!」
グレンは片手でレイラを抱きとめると、ぐるりと体を反転させた。その瞬間、細く高い銃声が聞こえた。
「きゃあっ」
レイラ背中に回されたグレンの手が離される。支えを失ったレイラは、その場に尻餅をついた。
見上げたレイラの視界に入ったのは、右肩を打たれて血を流しているグレンだった。
「グレンっ」
「つ……っ。やってくれたな……」
弾丸は右肩を貫通しているようだった。
(ひどい。もしかしたら、骨が砕けているかもしれない)
レイラは弾けたように立ち上がり、アルを支えたままのグレンに手を貸す。
「魔法使いだか悪魔だか知らないけど、死んでもらうわ」
セドリックがピストルを持ったまま近づいてくる。気づけばいつの間に出てきたのか、ベンジャミンやエリックも、鍬や包丁を持ってレイラたちをにらんでいた。
グレンは血を流した右腕をだらりと下ろし、じりじりと後退していく。
「いいだろう、僕はお前から子供たちを奪った。その痛みの対価としてこれは受けよう。女王陛下には言い付けないから、安心するといい」
額に汗をかきながら話すグレンの息が、荒くなっていく。
「だが、覚えておけ。僕はこの屈辱を忘れない。お前には僕が自ら制裁をくだす」
血を流しながら、不敵に笑う。そんなグレンに怯えているのか、ベンジャミンやエリックは真っ青な顔をしていた。
「いいえ、ここで処分させていただくわ」
デボラが目を吊り上げて手を上げると、セドリックが引き金に指をかけた。
「行こう、レイラ」
グレンがレイラを誘う。懇願するような視線で。しかし……。
「いいえ、行けない。私がついていったら、足手まといになる」
セドリックはレイラを撃つ気はないのか、なかなか発砲しない。デボラも、様子をうかがっている。
「お願い、早く逃げて。私がここを食い止める」
「何を言って……」
「お願いよ。アルと二人、絶対に生きて帰って。そしてこの家のことはもう放っておいて」
レイラがグレンを説得していると、ひゅっと空を切るような音がした。振り返る間もなく、レイラの体が引っ張られる。
何事かと思って見ると、レイラの腹部に革のムチが巻き付いていた。振り返ると、ムチは常識では考えられないくらい長く伸びていて、その持ち手はデボラが握っている。
「こっちにおいで!」
ぐいっと強く引っ張られ、レイラの体が勝手に後退する。必死で踏ん張るけれど、前には進めない。転ばないようにするのがやっとだった。
「行って、グレン侯爵っ」
今にも火を噴きそうな銃口がグレンを狙っている。
「お願い、行ってえええっ!」
レイラが渾身の力で叫ぶと、グレンはぐっと唇を噛んだ。悔しそうな表情で彼女を見つめる。しかし、すぐに踵を返した。
アルを抱えたまま駆け出したグレンに向かい、セドリックが発砲する。弾は運よくグレンの体をかすめることはなかった。
「やめてっ、セドリックさん!」
レイラの声が届くことはなく、セドリックとベンジャミン、エリックがグレンを追いかけていく。追いかけようとしたレイラは、デボラのムチに引き倒され、地面に沈んだ。
(どうか、どうか無事に逃げて──)
動きを封じられたレイラは、祈ることしかできなかった。
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