第5話 近づく、離れる

翌朝、レイラは昨夜のものとは違う襟のつまったピンクブラウンのドレスを着せられた。一緒に朝食をとったあと、グレンが切りだす。


「さあ、今日はどこへ出かけようか?」


「は? 今日こそローダーデイル家に帰してくれるんじゃないの?」


昨日は仕方なく泊めてもらったけど、さすがに使用人が何日も遊び歩いていたらまずい。レイラは眉をひそめた。


「いいじゃないか。ローダーデイル伯爵には『何日か預かる』と手紙を送ってあるし」


「それはそうですけど……」


「今まで昼も夜も働き続けてきたんだ。少し休んだって罰は当たらない」


「うーん、でも」


あんまり帰りたいと言うのも失礼かとレイラが悩んでいる間に、外出の準備が進められてしまった。結局、グレンとアルと一緒に馬車に乗り込むことに。


(グレンって言い方は優しく感じるけど、結局自分の意見を押し通すって言うか、人の話を聞かないって言うか……とにかく強引だわ)


行先はグレンの独断で決められ、レイラはついていくだけ。


(ああ、落ち着かないなあ)


メイドの仕事は決して楽しくはない。けれどその生活に慣れ切っていたから、いきなり何もしないで遊んでいなさいと言われてもしっくりこない。


(みんな、人手が少なくなって困っていないかな。子供たちは寂しがっていないかな)


レイラがそんなことを考えながらぼんやり窓から外を見ていると、馬車がゆっくりと止まった。


グレンに手を貸してもらって馬車から降りると、まるで刑務所みたいに高い壁が目の前に立ちはだかった。


「ここどこ? いったい何の施設? なんか、ちょっと獣臭い気が……」


「行けばわかる。さあ」


グレンにエスコートされるままレイラが施設の入口に近づくと、『動物園』という看板が。


(もともと研究のために動物を飼っていた機関がその施設を一般公開したと聞いたことはあったけど、もしかしてここが……)


おそるおそる歩みを進めると、レイラは仰天した。


「わああああ!」


広い敷地の中に、ぽつぽつと小屋が建っている。その前に金属でできた檻が。檻の中の庭で、チンパンジーが遊んでいる。木の枝から枝へ、長い手だけで器用に渡っていく。


「こういうところは初めて?」


「もちろん! すごいわっ、すごいわっ」


ロンドンでの貴族の遊び場といえば夜の舞踏会とか晩餐会、オペラ鑑賞ぐらいだとレイラは思っていた。


グレンをおいてけぼりにする勢いで歩いていくと、横に連なった檻の中には見たこともないカラフルな鳥たちが。馴染みの深いウサギやヤギもいた。


「ここのウサギは食べないの?」


「研究用だからね」


「じっと見ると、可愛いのね」


ウサギたちは鼻をひくひくさせながら草を食んでいる。レイラの記憶にあるウサギは皮を剥がれた食用くらいだったので、これからウサギを食べるときは躊躇してしまいそうだ。


「こっちにおいで。もっとすごいものがある」


もっとすごいものってなんだろう。グレンに手を引かれてわくわくするレイラ。


「すごいものってなに?」


「はは。そんなに目をキラキラさせて答えてくれたの、初めてだ」


グレンがレイラを見下ろし、目じりを下げて笑った。


(そっちだって、そんなに無邪気な笑顔を見せたの、今が初めてじゃない)


急につないだ手がこそばゆく感じて、レイラはうつむいた。どうしてか顔が熱い。


「ほら!」


グレンが足を止めて指をさす。その先にいたのは、見たこともない大きな動物だった。首がやたらと長く、頭には奇妙な突起が二つ。よく見ると目元には長いまつ毛がびっしり生えていて、優しい顔をしている。体の色は薄い黄色で、茶色のまだら模様。


「キリンだよ。アフリカ原産」


あんぐりと口を開けて固まったレイラに、グレンが得意げに解説する。


(こんな大きな動物、いったいどうやって他の大陸から運んできたのか……)


キリンは口からやけに黒くて長い舌を出し、木の上の方の葉っぱを舐めるようにもぎとって食べる。


「この子、寝るときはどうするの? こんなに首が長くちゃ、横になったり起き上がったりするの大変そう……」


「さあ……どうするのかな」


グレンはキリンを見上げて首をかしげる。


「あなたにもわからないことがあるのね」


そう言うと、グレンはぷっとふきだす。


「そりゃあそうだよ。あたりまえじゃないか」


笑われたレイラは頬を膨らませた。


(だって、いつも偉そうにしているから)


財産も家柄も申し分ない人でも、わからないことはある。平民と変わらない。


「今度はこちらだ」


またグレンに手を引かれる。動物園の中は中産階級や貴族の客がいた。彼らとすれ違うと、じっと見られる。


「ランカスター侯爵じゃないか?」


「相手のお嬢さんはどなたかしら」


ひそひそと話す声がレイラに聞こえてしまう。彼女がただのメイドだと知ったら、彼らはどんな反応を見せるのか。レイラは気になって、少し憂鬱を感じた。


「どうした、レイラ。足が痛いのか?」


ふと立ち止まってしまったレイラを振り返り、グレンが尋ねる。


「いいえ。何でもないわ」


どうせ今日だけだ。何と思われたっていい。レイラは思いなおし、動物園の奥へと歩いていった。


やがて、他のところにはなかった人だかりが見えてきた。丸く作られた檻の中には何がいるのか。人の切れ目から中をのぞくと、そこには人工的に作られた池と……。


「なにあれ!」


池のなかから、のっそりと大きな物体が現れた。灰色のそれには目が付いており、頭には顔に対して小さすぎる耳が乗っている。


「カバだよ」


「カバ」


カバが池から上がる。丸々と太った体は大きく、足は丸太のように太い。


のしのしと歩くカバが、見物客に向かってその口を開いた。客の中に、すぐ近くで売っている餌を持っている者がいたからだろう。


「まあ、大きい」


開けられたカバの口は子供を丸ごと飲み込んでしまえそうなくらい大きかった。ピンクの歯茎に、にょきっと大きな歯がところどころに生えている。


「これがこの動物園の名物だ」


たしかに、これはいくら貴族でもそうそう見たことはないだろう。


「子供たちに見せてあげたい。きっと喜ぶわ」


ローダーデイル家にいる子供たちは、あまり動物と触れ合う機会がない。絵本でもカバは見たことがないだろう。


「じゃあ、今度みんなを招待しよう」


「本当に?」


「ああ。ローダーデイル伯爵が許してくれれば、だけどね」


動物園の入場料はひとり六ペンス。決して高くないけど、子供七人分となると話は別。彼らを移動させるための往復の辻馬車代や、昼食代を含めるとレイラの占いの稼ぎだけでは厳しい。


(グレン侯爵が協力してくれたら、子供たちにどれだけ素晴らしい思い出を作ってあげられることだろう)


レイラの脳裏に子供たちの笑顔が咲いた。


「きっと許してくださるわ。デボラ様は子供たちを大切に思っているもの」


「そう。じゃあ話してみる」


レイラはその場で飛び上がるくらい嬉しかった。しかし周りの貴族の手前、本当に飛び上がるのは我慢した。


「グレン、そろそろ昼食のお時間です」


レイラが振り返ると、やけに重そうな大きなバスケットを二つ持ってついてきていたアルがいた。


「レイラ、どうする? ここでピクニックできるように一式持ってきているけど、獣臭さが気になるなら別の場所に行こうか」


「持ってきている、じゃなくて持たせている、じゃないの」


レイラも今まで忘れてしまっていたけど、これ以上こんな大荷物をアルに持って歩かせるのは、いくらなんでも気の毒だ。


「この近くで大丈夫よ」


レイラが言うと、アルがさっとその場を離れてすぐに戻ってきた。人気がなく、匂いも少ない芝生を見つけたという。


レイラたちはそこへ移動し、敷物を広げた。アルが持ってきたバスケットからローストビーフや卵、サラダが出てくる。


アルがその場でランプに火を点け、小さな三脚を立てる。その上にポットを置いて湯を沸かす。陶磁器のカップやお皿を並べ、料理を取り分け始めた。


「アル、あなたの分は?」


朝から歩いてくたくただろう。変えるまで何も食べるなと言うのは酷だ。


「いえ、私は執事ですから」


涼しい顔で拒否するアル。


「ねえグレン侯爵、いいでしょう。アルにも食事をさせてあげて」


「ああ、僕はいいよ。アル、レイラがこう言っているけどどうする?」


微笑んでグレンが言うと、アルは硬直してしまった。


「いや……じゃあ……でも……やっぱり、できません」


「いいじゃないの」


「私はグレン様の執事ですからっ」


断固拒否するアル。どうやら、レイラにはわからないけどアルにはアルの理由があるようだ。


(主従の絆というやつ? たしかに私もデボラ様と一緒のテーブルでお茶しようと言われてもなかなかできないかも)


レイラはアルの気持ちに寄り添うことにした。


「ごめんね、無理しなくて大丈夫よ。グレン侯爵、早く済ませて屋敷に戻りましょう」


レイラたちがのんびりすればするほど、アルのお腹が空いてしまう。


「大丈夫だよレイラ。アルは日頃から訓練してるからね。自慢の執事だよ」


グレンが言うと、誇らしげに胸をぐっと張るアル。そういえば、ローダーデイル家のセドリックもそうだと、レイラは思い出す。外に出た時はろくに食事もせずに働いている。


「レイラは優しいな。そういうところ、すごく好きだ」


「へっ……」


レイラは言葉を失う。


(今、今、『好き』って……)


何度か言われているけど、その度に動揺してしまう。


「さあ、食べよう」


グレンは何もなかったかのように食事をとりはじめる。


(何動揺してるのよ、私。今の『好き』は『カバが好き』ときっと変わらないのよ。何度かキスされたとしても、勘違いしちゃダメ)


グレンは侯爵家当主、レイラはメイド。恋仲になれるはずはない。


そんなことを考えてしまったら、せっかく用意された食事があまり喉を通らなかった。レイラを心配したグレンは、帰りに土産物店で陶器の置物を買い与えた。


それは口を開けたカバの、マヌケで可愛い置物。レイラは思わず笑顔になってしまった。




ランカスター家に帰ったレイラが一休みしていると、コンコンと客間のドアがノックされた。


「はい」


ドアを開けると、そこにはグレンがなぜかお盆を持って立っていた。


「二人でお茶をしないか」


彼は部屋に入ってきて、二人用のテーブルにスコーンとジャム、クリーム、そしてティーカップやお皿を並べる。


「ありがとう。ちょうど今あなたに聞こうと思っていたの」


「なにを?」


「針と糸を貸してくれない? ボロボロのドレスを直さなきゃ」


昨日着ていたドレスの引っ掻き傷を直さないと、レイラは帰れない。下着はばあやが洗っておいてくれたみたいだが、ドレスはあのままじゃ格好悪い。


「それもうちの優秀なばあやがやっておいてくれた。心配しないでいい。良ければ、今着ているドレスも昨夜のものも寝間着も、すべて差し上げるよ」


「そうなの。ばあやに面倒をかけちゃったわ」


それはそれとして、ドレスを何着も持って帰るなんてさすがに厚かましい。レイラはやんわりとグレンの申し出を拒否する。


「ばあやが直してくれたドレスだけでじゅうぶんよ」


テーブルに近づき、ポットから二人分のお茶を注ぐレイラ。


「どうして。やはり、新品じゃないから気に入らない? 形が古いから?」


「新品じゃない?」


「ドレスは全て、母の遺品なんだ。でもいつまでも置いていても仕方ないし、かと言って燃やしてしまうのもなんだし」


「えっ。これ、侯爵のお母さまの遺品だったの」


レイラはぎくりと肩を強張らせる。そうとは知らず、動物園ではしゃいで走ったり腕を思いきり上げたりしてしまった。


ドレスは自分の体に合わせて作るのが普通で、なぜ侯爵の家に自分の体型にぴったりのドレスや部屋着があるのか、レイラは不思議に思っていた。


それは侯爵が他の女性を招くために置いておいたと思っていたけど、そうではなかった。たまたま、グレンの母とレイラの体形が似通っていたというわけだ。


「そんなことない、どれも素敵よ。でも、私には今後着る機会がないから」


イスに座りカップを持つ。すると上質な茶葉の良い香りがレイラの鼻孔をくすぐった。


(こんなお姫様みたいな生活は、短い夢。明日からはさえないメイドに戻るんだもの)


メイドには、肩や袖やスカートが膨らんで、しかもフリルがふんだんにあしらわれたドレスを着る機会がない。


(私には、いつものプリントドレスか黒いアフタヌーンドレス、それにエプロンとキャップがお似合いよ)


一口紅茶をすすると、前に座ったグレンがティーカップを置いた。その眉の間には皺が。


「……本当に帰るのか?」


「え?」


どういう意味? 首をかしげたレイラに、グレンは続ける。


「このままこの家にいればいい。社交シーズンが終わったら、僕のマナー・ハウスに帰ろう」


冗談を言っている風には見えなかった。夕日が差し込む部屋の中、グレンはまっすぐにレイラを見つめていた。


「それって、私にあなたのメイドになれってこと?」


「違う」


「じゃあ、占い師?」


「違う。その力はやたらと表に出すべきものじゃない。本当に困っている人のために使うべきだ」


「じゃあ何なの」


グレンはデボラの屋敷に来た時にも、レイラにランカスター家に来ないかと勧誘した。


(あのときは私の力を世の中の役に立てるとかなんとか言っていた気が。でも、本当にそんなことができるとは思えない)


彼の目的はなんなんだろう。レイラがじっと見つめ返すと、彼の口からは意外な言葉が。


「レイラ、僕の花嫁としてランカスター家に来てくれ」


「……はい?」


レイラはゆっくりとグレンの言葉の意味を咀嚼する。飲み込んだ途端、頭の中はたちまちパニックに。


(は、はな、よめ……って、花嫁!?)


驚いたレイラは、イスから立ち上がってしまった。ぶつかって揺れたテーブルの上でカップがかちゃりと音を立てる。


「な、何言ってるの」


「もちろん、最初は婚約者としてで構わない。その間は僕の仕事のアシスタントとして屋敷に居ればいい」


結婚前の男女が一緒に住むなんて、世間の常識では言語道断。厳しい目を逃れるために仕事上の付き合いを装うと言うのか。いや違う。気にするべきはそこじゃない。


「そうじゃなくて。私は平民、あなたは侯爵家当主なのよ。わかってる?」


「もちろん」


「じゃあ、どうしてそんなこと言うの。私たちが結婚できるわけないじゃない」


上流階級の男は同じような家の女性と結婚するのが当たり前。貴族のもとに嫁ぐ女性は高額な持参金や嫁入り道具を持っていかねばならない。


女王に謁見したこともない、ダンスもピアノもできない、母国語の綴りさえ怪しいレイラが侯爵家に入れるわけがない。グレンが良いと言っても、世間が温かく受け入れてくれる可能性はゼロ。そんなの、自分にもグレンにも幸せな結婚になるとは、レイラには思えなかった。


(悪い冗談はやめて。そんな未来を思い描いてしまったら、叶わないと思い知るときに悲しくなるじゃない)


自分が貴族の娘だったら。レイラは初めて、強くそう思った。


「きみが気にしているのは、身分のこと?」


グレンも立ち上がる。レイラとは対照的に、彼は必要以上の物音を立てない。テーブルを避けて近づいてくるので、彼女は思わず後退してしまう。


「レイラ」


逃げ腰になっているレイラの手を、グレンがつかんだ。


「身分に差がなければ、結婚してくれるのか」


バイオレットの視線がレイラを射抜く。その瞬間、彼女は頭をステッキで思い切り殴られたような衝撃を感じた。


(私……彼と身分の差がなければ、結婚してもいいと思っている?)


グレンの瞳を見つめ返すレイラ。


最初は彼のことを殺人鬼だと思って、その次はなんて失礼な人だと思った。


(今はどう思ってる?)


たくさんの秘密を抱えていそうな、つかみどころのない人。


(だけど、それだけじゃない)


グレンといると、いつの間にか心が温まる自分がいる。


子供たちに親切にしてくれた。危ないときに助けてくれた。その後レイラが不安にならないように心を尽くしたおもてなしをしてくれて、動物園では手を繋いで歩いた。


言葉にはし尽せない感情が自分の中に産まれていることに、レイラはたった今気づいた。


「ダメ」


許されるわけない。身分の差がなければ、なんて考えたって意味がない。


(だって私たちの間には現実に、高い高い壁が立ちはだかっているのだから)


努力ではどうにもできない、身分という壁が、レイラの情熱をこれ以上燃やすまいとする。


「レイラ、きみは……」


グレンが何かを言いかけたとき、突然ドアがノックされた。


「グレン様、失礼いたします」


アルの声だ。


「何事だ」


「ローダーデイル家の従僕が、レイラさんを迎えに来ています」


「なんだって」


ドアの方を向いていたレイラたちは、顔を見合わせた。


(あの几帳面なデボラ様のことだ。未婚の女性の外泊を快く思っているはずがなかった)


レイラは突然、冷や水を浴びせられたような気がして身をすくめた。彼女の手を、グレンが強く握る。


「……私、帰らなきゃ」


「行くな、レイラ。行かなくていい」


「いいえ、帰るわ。あなたのことは好きよ。変な人だけど、素敵なところもたくさんあるってわかったから」


レイラが握られた手を握り返すと、グレンのバイオレットの瞳が見開かれる。彼女が素直に口にしてしまった言葉が、信じられないといった様子だ。


「でも、もう会うのはやめましょう。辛くなるだけ」


「どうして」


「だから……何度も言わせないで。私の惨めな生い立ちを知らないわけじゃないでしょう」


ただの平民ならまだしも、レイラは誰の子かもわからない捨て子だった。そんな女と結婚したら、グレンが世間にどんな陰口を叩かれるか。彼女は何よりもそれを恐れる。


「レイラ。君は、そうして自分のことを卑しい人間のように言うけれど」


ギュッと、繋いだ手を痛いほど握られる。見上げれば、グレンが真剣な顔でレイラを覗き込む。


「君のご両親が誰かわからない限り、君が本当に平民の子だなんて、誰が言える?」


グレンの言葉は、レイラに衝撃を与える。


(何それ。もしかしたら私の両親が貴族だったんじゃないかとでも言うの?)


その可能性はまったくゼロとはいえない。でも、希望的観測だ。レイラは首を横に振った。


「もし両親が貧しい平民でなかったのなら、どうして私を捨てたりしたのよ」


裕福な家に産まれたのなら、捨てられる理由が思い当たらない。


「なにか理由があったのかと、思わないか? ローダーデイル伯爵は、本当に何も知らないのか?」


畳かけるように質問をするグレンの声は、再度ドアを叩く音で遮られた。


「グレン様。暗くなる前に帰らないと、従僕にもレイラさんにも罰を与えるとローダーデイル伯爵が仰っているようです」


自分が行かなければ、従僕……多分ベンジャミンだろう。彼も罰を受けてしまう。レイラは後ろ髪を引かれる思いを振り切り、グレンを見上げた。


「ありがとう、グレン。助けてくれた御恩は忘れない。事件のことは心残りだけど、あなたならきっと犯人を見つけて罰してくれると信じているわ」


レイラは急いで下着とドレス、カバの置物をベッドの上で借りたカバンに詰め込む。すると背中から、ふわりと温かいものが彼女を包みこんだ。背後から抱きしめられたのだとわかるのに、時間はかからなかった。


「これきりみたいなことを言わないでくれ。また、すぐに会いに行くから」


「侯爵……」


耳元をくすぐる声が、レイラの胸を締め上げる。


「それまでに、一度でいいから考えてみてくれ。自分の血のことを」


それは、レイラの生い立ちを確認しろということだ。もし貴族の血が通っていたら、ふたりが結婚できる可能性が広がる。


「ええ……」


レイラがうなずくと、グレンは名残惜しそうに手を離す。振り返ると、彼は寂し気に微笑んだ。


「愛してるよ、僕の天使」


軽く肩を抱きよせ、触れるだけのキスをする。レイラは初めて、唇が合わせられる前にまぶたを閉じた。


「元気でね」


自分が貴族である可能性なんて、ほとんどないだろう。これが最後のキスかもしれない。


そう思うと寂しくて、レイラはぎゅっとグレンに抱きついた。そして、すぐに離れる。


(もう会えなくても、どうか元気でいてね)


先に部屋を出てアルに案内されるまま玄関へ向かうと、階段の下でベンジャミンが居心地悪そうに突っ立っていた。レイラが現れると、ばあやがいそいそと手土産らしきものを運んでくる。


「お待たせして申し訳ない。どうか、気をつけてお帰りください。また手紙を差し上げます。伯爵によろしくお伝え願います」


あとからそう言いながらグレンが階段を降りてくる。その顔は、いつもの上等な紳士の顔に戻っていた。


ベンジャミンは形通りのあいさつをし、レイラを馬車へと案内する。それに乗り込む間、彼女は何度もグレンの屋敷を振り返った。


「あの侯爵、何考えてんだ。事件があったか知らないけど、普通は直接こっちの屋敷に送ってくるだろ。それを自分の屋敷に拉致してさ。デボラ様、冷静に見えたけど、ありゃあそうとうお怒りだぞ」


狭い馬車の向かいに座ったベンジャミンが眉をひそめてレイラに言い聞かせるように言う。


(なるほど、デボラ様が怒っているのは私に対してだけではなく、苦しい理由を付けて私を連れていったグレン侯爵に対してもなのね)


レイラは帰ってからのことを考え、深いため息をついた。


「もうやめて。お小言は帰ってからたっぷり聞くわ」


レイラはまだ、幸せな夢に浸っていたかった。たった一瞬だったけど、まるで侯爵夫人になったようだった。そして、それだけじゃない。


(あのグレン侯爵が、私のことを愛していると言った。結婚しようと、言ってくれたの)


バイオレットの瞳を思い出すと、レイラの胸にどうしようもなく熱い物がこみ上げてくる。


「お、おい……なんだよ。俺が悪いみたいじゃないか」


向かいのベンジャミンがおろおろしている。どうしてかと思うと、レイラの手元の包みに雫が一つ落ち、シミを作った。


(ああ私……泣いているのね)


「なんでもない」


泣き顔を見られたくなくて、両手で顔を覆う。そうしたらもう耐え切れなくなって、あとからあとから涙が溢れた。


(私だって、そばにいたかった。本当は帰りたくなんてなかったのよ、グレン)


溢れる嗚咽を抑えもせず、レイラは泣いた。ベンジャミンはどうすることもできず、それを傍観しているしかなかった。



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