第4話 侯爵のおもてなし
疲労で眠ってしまっていたレイラは、足元からの振動でふと目を覚ました。
お尻の下ががたがたと揺れる。向かいにはオッドアイのアルが座っていて、低い天井が頭のすぐ上に迫っている。
(そうだ、私あのあとランカスター家の馬車に乗せてもらって……)
レイラが靄のかかる頭でぼんやり考えていると。
「おや、起きたのか。もうすぐ着くところだ」
すぐ横で声がして、ハッと目を見開く。すぐ近くからバイオレットの瞳がレイラを見つめていた。
「わあ!」
あろうことか、グレンの肩に寄りかかって寝てしまったみたい。そんなレイラを抱くように、グレンの腕が背中から肩に回っていた。
「暴れない方がいい。揺れると危ない」
「た、たしかに……」
馬車の上で動いたら危ないのは、レイラにもわかっている。けど、この体勢はどうしても落ち着かない。
男の人に肩を抱かれたのなんて初めてで、どうしたらいいのかわからないレイラは手のひらにたくさん汗をかいた。それを悟られないよう、窓の外を見る。
もうすぐ着くと言われたので、見慣れたローダーデイル家の敷地が見えると思いきや……。
「あら?」
レイラの目に飛び込んだのは、木々に囲まれたローダーデイル家ではなく、背の高い建物に囲まれたロンドンの街並みだった。
「ええっ! なんでどうして!?」
混乱するレイラを見て、グレンはくすりと笑った。まるで、悪魔のような笑顔で。
「なんでよ。お屋敷まで送ってくれるって言ったじゃない。一体何を企んでいるの?」
「誰もローダーデイル家の屋敷に送るだなんて一言も言っていない」
「じゃあ、どこに向かっているの?」
「ランカスター家に決まっているだろう」
ということは、グレンのタウン・ハウスに向かっているというわけだ。
(いったいどうしてそんなことに!)
レイラは青ざめた。
「冗談はやめてよ。デボラ様に叱られるわ」
帰ったら、メイドであるレイラはたくさんの仕事をこなさなくてはならない。勝手に出歩いて遅くに帰ったりしたら、懲罰決定である。
「大丈夫。ローダーデイル伯爵にはちゃんと使いを出したさ」
「え……」
「領地内で怖い目にあった君の心の傷を癒すため、休暇を取らせたい。しばらくランカスター家で預かる、とね」
「は!? どうして勝手にそんなことを。そんな話、何一つ聞いてないんですけど!」
叫ぶレイラの唇に、グレンは優雅に人差し指をあてて彼女を黙らせる。
「とにかくうちでゆっくり休むといい」
たしかに、ここからローダーデイル家に帰るには馬車でもとてつもない時間がかかる。既に体中、特にお尻や腰が痛くて、すぐに帰るのはしんどい。そして、ここでグレンをつっぱねたら、徒歩で帰らなくてはならない。
他の馬車を拾う現金も持っていないし、ひとりで出歩くとまた危険な目に合わないとも限らない。レイラは不本意ながら、グレンの申し出に乗ることにした。
「うう……とりあえず、今夜は泊まらせていただくわ」
観念してうなずくと、グレンはにっこりと微笑んだ。
やがて到着したグレンの住処は、全体がレンガ色でバルコニーの部分が白く塗られた四階建ての建物だった。
タウン・ハウスというのは地方に領地のある貴族が社交のシーズンだけ住む家のこと。大きく見えて実は縦に区切られており、四家族ほどが入っている場合が多い。
玄関を入ると、広いホールが現れた。置くにはらせん階段があり、足元にはなんだか複雑な模様の毛足の長い絨毯。壁には豪華そうな額縁に入った絵画が何枚も飾られている。
「わあ……」
レイラが左右を見ると、ドアが一つずつ。たぶん、左右対称に区切られている家なんだろう。
「どちらがあなたのお屋敷なの?」
たずねると、グレンは笑った。
「どちらもだよ。実はここは、父の代に二つに分かれていたタウン・ハウスを別の貴族から譲ってもらって改造したんだ」
「じゃあ、この大きなお屋敷全部があなたのものなの?」
「そう。他人と壁一枚隔てて一緒に住むなんて、落ち着かないじゃないか」
そうかもしれないけど、領地にはこれよりもっと大きなマナー・ハウスがあるはずだ。レイラはぽかんと口を開けた。
社交シーズンだけだからと狭いタウン・ハウスに住む貴族とグレンは、感覚が違うようだ。
(私だったら安いアパートを借りちゃうけど……)
って、貴族は外面を整えておかなきゃならないから、それは無理か。レイラは思いなおす。
「お帰りなさいませ、ご主人さま」
ホールの天井についているシャンデリアを見上げていると、奥からゆっくりとした動作で、黒いメイド服を着たおばあさんが出てきた。真っ白い髪を、頭のてっぺんでシニョンにしている。
「ばあや、いいところに。このお嬢さんの身づくろいを頼む」
頼まれたばあやは、レイラをじろりとにらむように見つめた。
(「いったいどこの馬の骨なんだ」とか思われてるのかな……)
居心地の悪さを感じたながらも、礼儀として笑顔を作るレイラ。
「ごきげんよう。私はレイラ。ローダーデイル家のメイドをしています」
レイラがドレスをつまんで会釈すると、アルが珍しく自分から口を開いた。
「こう見えても、グレン様の客人です。くれぐれも丁寧に扱ってください」
そう言われてムッとしたレイラ。だが改めて自分の格好を見ると、それはひどいものだった。ドレスやブーツの裾は泥で汚れ、テーブルに張りつけられたときにできたのか、スカート部分に多数の引っ掻き傷が。
「御意」
ばあやは何も聞かず、二階の客間にレイラを案内した。
「少々お待ちを」
ばあやは礼をして客間を出ていく。
部屋にはふかふかのソファがあり、その正面に暖炉が。主人が帰ってくることを見越したのか、いつもそのようにしてあるのかは定かではないが、暖炉には明るい火が燃えていた。
温まった部屋のそこかしこにはゴシック調の家具が置かれている。触ったら壊れそうな華奢な花瓶に、花が生けられていた。冬なのに珍しい。ピンクのバラの花だ。
造花かしらんとレイラが思っていると、客間のドアが開いた。しばらくぼんやりしていたけど、たぶんばあやが出て行ってから十分ほどしかたっていない。
「どうぞ、こちらへ。準備ができました」
「準備って何の?」
返事をする時間も惜しむように、ばあやは歳のわりにさっさと歩いていく。初対面の時のゆっくり加減が嘘みたいに。
「どうぞ」
ばあやがある部屋の扉を開ける。
「えっ」
その中には、エナメルのバスタブが。子供用ではなく、大人も入れる大きさで、周りにカラフルな模様が描かれている。中には熱い湯が張られていた。
「ここって、浴室? すごい」
レイラは思わず興奮した。
デボラのお屋敷には浴室はない。いつも暖炉の前に用意したバスタブにお湯を張って入浴している。
しかも入浴するのはデボラだけで、それもせいぜい週に一度。使用人たちや子供は濡らした布で体を拭くだけ。
「この家では清潔第一。あなた、においますぞ」
ばあやは眉をひそめて鼻をつまむ。遠慮のない仕草に、レイラは盛大に傷ついた。
「ひどいわ。これでも毎日体拭きはして……」
「四の五の言わず、さっさと服を脱ぎなさい」
いつの間にか命令口調になったばあやが、レイラの服を剥がそうと迫ってくる。
「ちょ、ちょっと待って。自分でできるから」
「高貴な方々は、全て自分ではしません」
そう言いながら、器用な指先でレイラのドレスを脱がせていくばあや。
貴族は身の周りのことをすべて使用人にさせる。レイラもそれは知っているけど、自分がそうされることには当然ながら抵抗がある。
「私は平民ですからーっ!」
なんとか浴室からばあやを追いだした。
(と、とんでもない人たちだわ)
嫁入り前の娘──といってももう二十歳、花の盛りは過ぎてしまったけどそれは言わないでおこう──の唇を奪ったり、服を脱がそうとする。
そんなランカスター家一味の存在にぶつぶつ文句を言いながら、自分で服を脱ぐレイラ。長い金髪は後頭部の高い位置で一つにまとめておいた。
(浴槽に浸かるなんて、初めてだわ)
レイラはドキドキしながらバスタブの中に入る。
「う……はあ~。なにこれ、気持ちいい……」
冬の寒さで固まった全身がほぐれていくのがわかる。しかし、いつまでもこのままではいけない。お湯は確実にぬるくなっていく。
(せっかくだから、全身ぴかぴかにしていこう)
ばあやが置いて行った石鹸を使い、体を洗っていると。
「レイラ、何か困ったことはないか?」
突然シャッと音がして、カーテンが開けられた。そこには、コートとジャケットを脱いだグレンが。グレンが……。
「ぎゃ、ああああぁぁぁぁっ!!」
思わず、屋敷じゅうに響き渡るような叫び声が出た。レイラが後ろを向いて体を隠すと、グレンは「ああ、ごめん」と軽く言ってカーテンを閉めた。
「もしや、怪我をしているんじゃないかと思って。傷は石鹸でこすってはいけないよ。よし、僕が優しく洗って──」
「遠慮しますっ! もう、出てってよ。早く出てって!」
部屋中にレイラの高い声が反響する。グレンは「ごめん」と残念そうに言って、部屋を出ていった。
(なんなのあのエロ侯爵。私が裸でいるのをわかっていて、乱入してくるなんて)
あの街で颯爽とレイラを救ってくれた人とはまるで別人だ。
(わけのわからない人)
お湯がぬるくなってしまったので、湯冷めしないうちにバスタブから出て体を拭く。その間中、レイラの胸は驚きの余韻でいつまでもドキドキと高鳴っていた。
お風呂のあと、用意されていたいつもとは違う豪華なドレスに着替えたレイラは、ばあやに髪を結いなおされ、ダイニングルームに連行された。
「ご主人さま、レイラさんの準備が整いました」
コルセットの上にまとったのは、エメラルドグリーンのドレスだった。襟ぐりが深く、肩が半分はみ出してしまう。
スカートの下にはバッスルを仕込んだおかげで、平らになっている全面とは逆に、お尻の方がふんわりと膨らむ。髪にはドレスとおそろいのグリーンのレースでできたリボンを編みこまれた。
ダイニングルームには大きなテーブルが置いてあり、その真上には二段になった豪華なシャンデリアが蝋燭の灯りを反射し、きらきらと輝いている。
壁には二枚、誰かはわからないけど高貴な人の全身を描いた肖像画が飾られている。男性と女性一人ずつ。そして暖炉までがあり、部屋の中を温めていた。
「なんて素敵なんだ。見違えたよ、僕のレイラ」
テーブルについていたグレンが立ち上がり、レイラの方へ近づいてくる。部屋の隅にはアルが控えているけど、他には人がいない。
「私はあなたのじゃない」
乙女の入浴をのぞくなんて、紳士じゃないわ。ぷいと顔を背けると、グレンはくすりと笑う。
「そんなに怒らないで。本当に、とても綺麗だよ」
グレンはレイラの手を優しく取り、テーブルへと案内する。彼と直角になるような席に座るよう指示された。普通だったら平民が貴族と同じテーブルにつくことは許されない。
しかし屋敷の主人がいいと言うなら。レイラはそろそろと、指定された場所に座る。グレンも席につくと、早速料理が運ばれてきた。
パンやローストビーフ、野菜のスープ、ミートパイなどが所狭しと並べられ、透明のグラスにシャンパンが注がれる。給仕をしたのはばあやとアルの二人だった。
おいしそうな料理を見た途端、レイラのお腹がぐううと鳴る。
(そう言えば昼前に屋敷を出て、それから何も食べていないんだった)
窓の外はもう暗くなっている。いつの間にか夜になっていた。
「どうぞ」
「い、いただきます……!」
いつもは給仕してデボラが食べているのを見つめる側のレイラだけど、今日は違う。どの料理もいつもレイラが食べているものと違い、温かかった。
(どうしてなの。何を食べても、ローダーデイル家より美味しい。お腹が空いているから? 単に温かいから?)
夢中になって料理を食べていると、口の中の水分が足りなくなってきた。グラスを手に取ってシャンパンを流し込む。
レイラが一息つくと、ふとグレンと目が合ってしまった。彼はバイオレットの瞳を細め、妖艶な笑みをたたえてこちらを見つめている。
「な……なんでしょうか」
グレンはあまり料理に手をつけていないようだ。ただグラスを持って、にこにことこちらを眺めている。
「本当に可愛いなと思って」
「はっ?」
「やっと君の幸せそうな顔が見られた。僕も嬉しいよ」
レイラは、慌てて口元を拭った。
(そりゃあ、こんな御馳走初めてだもの)
デボラが客人を招いたときに大量にふるまった料理が余ることがある。レイラたち使用人はその残りを食べる。そのときも幸せだったけど、こんな風に温かい料理を自分のために出してもらったのだ。幸せに決まっている。
(だから、そんな風にじっと見つめないで。まるで、愛しいものを見つめるような甘い視線で)
途端に恥ずかしくなって、ナイフとフォークを置いてしまった。
「おや、どうした。もっと食べていいんだよ」
「いえ、あの……とても美味しかったです。もう満腹です」
思わずがっついてしまったレイラは、平民丸出しの自分を恥じた。コルセットをしているのにこれほどたくさん食べる女性は、貴族にはいないだろう。
「そう。ばあや、デザートはなんだっけ?」
「プディングがございます」
「ぷ、プディング……!」
そんなもの、滅多に食べられない。たまに少し余っても、子供たちに与えてしまうからだ。
「レイラ、どうだい?」
「い……いただいても、いいかしら……」
恥を忍んでうなずいた。ここで食べられなければ、次はいつ食べられるかわからない。
「もちろん。アル、お茶も運んでくれ」
グレンは何がそんなに嬉しいのかわからないけど、満面の笑みでアルに指示をした。
(いいのよ、別にこの人とずっと一緒にいるわけじゃない。貴族の娘じゃないんだから、大食らいと噂されたって構わないわ)
自分のために出されたプディングを目にしたレイラは、恥ずかしさも忘れ、一瞬で開き直る。
「ふ、ふにゃ~ん」
出されたプディングを一口食べると、その甘さで全身がとろけそうになる。
(ああ、中毒になりそう)
グレンは少しだけデザートを食べ、あとは紅茶を飲んでいた。彼はレイラが食べ終わるまで、始終笑顔で余計な事は何も話さなかった。
満腹になったあと、レイラはグレンに屋敷の中を案内してもらうことになった。
王族やランカスター家の歴代当主の肖像画、高価な家具や陶磁器を見て回る。壁一面に本が収納されている書斎まであって、ランカスター家の権力の強さを垣間見た気がした。
それらは見たこともない様式のものも多く、聞けば東洋から輸入したものもあるのだという。
(デボラ様のマナー・ハウスだって豪華なものだけど、タウン・ハウスでこれはすごい。彼の本宅はいったいどれほどのものなのかしら)
想像もつかないまま、グレンの後ろについていくレイラ。彼女の後ろにはアルが控えていた。
「ここが最後だ」
開かれたドアの中には、天蓋付のベッドが。と言っても四柱式ではなく、天井から吊り下げられたテントのような幕が今は壁に沿って開いている。
マットレスの高さもデボラのものの方が遥かに高い。ここだけは勝った。レイラがそう思っていると。
「四柱式の天蓋は湿気がこもって衛生的に良くないそうだ。これは客人用の新しいもので、枠も真鍮で虫もつかない」
「え、そうなの」
「今日はここで眠るといい」
たしかに木の枠は虫が発生する危険性がある。それにしても、ここでも敵わなかったか。言い負かされた気分のレイラだった。
そっと腰かけたベッドは、ほんのりと温い。レイラたちが色んな部屋を回っている間に、誰かがベッドウォーマーで寝床を温めておいたようだ。
「すぐに寝間着を用意させる。その前に、少し話をしてもいいかな」
そう言いながら、グレンはレイラの横に腰かけた。アルがそっと、部屋を出ていく。
(ちょ、ちょっと待って。二人きりにしないでよ……)
男の人と寝室で二人きりなんて、いったいどうすればいいのかレイラにはわからない。緊張で頬が熱くなってくる。
「君はどうして、あんなところにいたんだ?」
「えっ? あんなところでって……ああ、昼間の事件のことね」
レイラは悲鳴を聞きつけて死体を見つけてからの一部始終を話した。
「なるほど」
「あなたはどうしてあの街にいたの。自分の領地でもないのに」
「僕たちは、ロンドンで起きた事件の調査をしてたんだ。その過程で、あの街で最近二人の子供が残酷な殺され方をされたのを知った」
「なんですって」
今日殺された女の子の他に、二人も殺されているとは。レイラは息を飲む。
「知らなかったのか」
「ローダーデイル家では、一言の噂も聞かなかった」
「伯爵は、子供たちが聞いたら怖がると思って言わなかったのかもしれないな」
グレンの言葉に、レイラは納得してうなずく。
(優しいデボラ様のことだ。事件のことを知らないはずがない。きっと一人で胸を痛めていたんだわ)
女主人のことを考えると、胸が痛くなった。
「とにかくそう言うわけであの街で聞き込みをしていたら、通りすがりの女性が女の子が酒場に連れ込まれたのを見たと教えてくれてね」
「そうなの?」
「最近変わったことはないかと聞いたら、『そこの酒場に見たことのない金髪の女の子がひとり連れ込まれたよ。今さっき』と教えてくれた」
それを聞いて、レイラの背中にぞっと悪寒が走った。
グレンがその人に声をかけなかったら、その人が教えてくれなかったら、今頃レイラは……。
「あなたが駆けつけてくれたのは奇跡だったのね。そういえば、まだお礼を言ってなかった。助けてくれて、ありがとう」
顔見知りだとはいえ、ただの平民のレイラを、あんな大勢の男がいる中に飛び込んで助けてくれた。レイラを助けたとて、グレンには何のメリットもないのにも関わらず。
レイラがぺこりと頭を下げると、グレンは笑った。
「お礼なんていらない。愛する人を助けるのは男の役目だからね。それより、あの死体を見てどう思った?」
「あの子……耳がなかった」
「そう。ロンドンの子は舌がなかった。他の二人のことも調べてみると、それぞれ右手首から先と鼻が欠損していたそうだ」
二人の遺体を交互に思い出したレイラは、胸が苦しくなる。いったい誰がそんなにひどいことを……。
「僕はこの一連の事件の犯人はひとりで、同じ人物なのではないかと思っている」
「毎度毎度、遺体の一部を持って帰っているからね」
「そう。顔も知らない別々の犯人がそれぞれ遺体の一部を持って帰ったと思うのは無理がある」
考えたくないけど、遺体愛好家みたいな人が子供のパーツをコレクションしているということか。考えただけで吐き気を催しそうなレイラだった。
「でも、おかしいじゃない。ロンドンとあの街では、距離がありすぎる」
馬車でおよそ二時間かかる距離だ。もちろん平民は馬車を持っていない。乗るなら何人も相乗りできる辻馬車だけど、わざわざそんなものに乗ってまで子供を物色しに行くだろうか?
「僕もそこが気になってるんだ。もしかすると自家用馬車を持っている変態貴族の仕業かもしれない」
「変態貴族。たしかに、そうかも」
「レイラ、そこで君の力のことだけど」
突然話題を変えられたレイラは、マヌケに口を開けてしまった。
「はい?」
「君が見えるのは、人の未来だけ? 過去を見ることはできるか?」
バイオレットの瞳を見つめ返す。
(この人、きっとわかっている)
レイラが、人の運命をのぞけるということを。その中には未来だけでなく過去も含まれる。
「できると……思うわ」
グレンの未来は光だけで他には何も見えなかった。あの一件から自信をなくしつつあったけど、きっとできるはず。
レイラがうなずくと、グレンはポケットから一つのボタンを差し出した。乾燥した赤黒い血がこびりついている。
「ロンドンの遺体から拝借したものだ」
「どうしてこんなものを持ってるの?」
「初めて君と手を繋いだ瞬間、特別な力の持ち主だとわかった。また会えたときに見てもらおうと思っていて、忘れていたんだ」
忘れないでよ。この前ローダーデイル家に来た時に真っ先に出すべきでしょうよ。そう思ったレイラだが、余計な口論になりそうなので口に出すのはやめておいた。事件解決が先だ。
ボタンを受け取り、そっと手のひらで包みこむ。まぶたを閉じ、集中する。ボタンが見た過去の記憶に潜り込む。
(教えて、あなたの最後の記憶を……)
レイラがそう祈ると、ぼんやりとした映像が彼女のまぶたの裏に浮かび上がってくる。
(ロンドンの貧民街だ)
靴も履いていない、貧しい幼児の裸足のつま先が見える。帰るところがないのだろうか。辺りはすっかり暗くなっている。
前から誰かが近づいてくる。やけに背の高い、黒いロングコートとシルクハット、鼻の下に髭を生やしている。身なりだけだとアッパーミドル(中流階級でも上級の人)か貴族のように見える。
帽子のせいで目元が見えないが、ヒゲは真っ黒くて体は痩せている。二十代から三十代だろうか。
彼はポケットからコインを出し、被害者に与えようとする。しかし、手のひらに乗せてはくれない。
『こっちにおいで』とでも言われたのだろうか。小さく手招きされた被害者は、ロングコートの男についていく。
そして人気のないあの路地で、突然ナイフが振り下ろされて──。
「いや……っ」
レイラは残虐な場面をこれ以上見ていられなくなる。思わず放り投げたボタンが、ころんと床に落ちた。
「大丈夫かい、レイラ」
「ごめんなさい……」
レイラは冷汗をかいていた。がたがたと震える体。まるで被害者の恐怖が伝染してきたようだ。
「怖かったんだね。すまない」
膝をついてボタンを拾うグレン。
(あんな大男にいきなり襲われて、坊やはどれだけ怖かっただろうか。それとも、何もわからないまま死んでしまった?)
嘔気をこらえ、レイラは口を開く。
「坊やを殺したのは、黒いロングコートの男よ」
立ち上がり、今見たことをグレンに話す。彼は聞きながら、何度かうなずいていた。
「やはり、中産階級か貴族の仕業か。背の高い若い男だね」
「見つかるかしら」
「見つけてみせる。僕は第一発見者だ。警察とは何の関係もないが、貴族には平民を守る義務がある」
グレンはすっと立ち上がると、私の頬に触れた。その手にはグローブも何もされていない。
「協力してくれてありがとう。怖いものを見せてしまってすまない」
「いいえ……」
自分をいたわるバイオレットの瞳に見つめられ、レイラは途端に落ち着かなくなる。
(この人に見つめられるの、苦手だ……)
他の人にこんな感情を持ったことはない。どうしてこの人だけ、自分の胸をざわつかせるのか。レイラは戸惑う。
「震えている」
「え……」
「抱きしめてもいい?」
そう言うと、グレンはレイラの返事を待たずに、彼女の身体を引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。
どくんと大きくレイラの胸が跳ねた瞬間、彼女の頭の中にさっきまでとは全く別のビジョンが浮かんだ。
広大な緑の芝生に覆われた敷地に立つ、白い城郭。いや、城ではない。貴族のマナー・ハウスだ。
正面の門をくぐると、大きな池と花が咲き乱れる中庭が現れる。奥の方には温室のようなものまで。
(ここのご主人、いや奥方様? とにかくお花が好きな人がいるのね)
屋敷の玄関の前に、出迎えの使用人たちが並ぶ。そこまで手を引かれて歩いていく自分の横には、長身の身なりのいい貴族の男の人が。
ふと見上げて、レイラはどきりとする。その紳士の横顔が、グレンそっくりだったからだ。
(これは、グレン侯爵の記憶?)
三十代に見えるグレンそっくりの紳士は、もしかして彼の父親だろうか。レイラはそう予測する。
(それにしてもこのお屋敷、どこかで見覚えがあるような……)
目を閉じて記憶の中を探っていると、耳元で甘い声がした。
「おや、今日は抵抗しないのか。やっと僕の気持ちを受け入れる気になったのかな」
「はい?」
ぼんやりしていたレイラは目を開けた。すると間近にグレンの顔が。今にも唇が触れあってしまいそうな距離だ。
「ちょっと待った!」
ぐき、と鈍い音がした。レイラがとっさにグレンの尖ったあごをとらえて押し返したからだ。
「違うわよっ。うっかりあなたの記憶が見えちゃったみたい。だから、ぼんやりしてただけ」
「僕の記憶が?」
首を押さえたまま、グレンが問う。
「白い、物見の塔まである城郭みたいなお屋敷よ。広い敷地の周りを、ぐるりと高い壁が囲んでいた」
必死で説明していると、明らかにグレンの顔色が変わった。さっきまでレイラをからかうようにしていた柔らかい表情じゃない。どこか緊張したような顔つきだ。
「他に何を見た?」
まるで訊問するように、レイラに詰め寄るグレン。そんな彼を初めて見たレイラは、全身が緊張するのを感じた。
「え……っと、お花がたくさん植えられていたわ。とても綺麗なの。そして小さなあなたの手を、あなたにそっくりの紳士が握って歩いていた」
「それは僕の父だ。もう亡くなったけどね」
「そう、やっぱり」
「それ以外には?」
痛いほど強くレイラの手を握り、もう片方の手で肩をとらえる。グレンの綺麗すぎる真剣な瞳に、彼女は息ができなくなりそうだった。
「ごめんなさい、それだけしか……」
「……そうか。ごめん、びっくりさせたね」
肩をとらえていた手を離し、彼はレイラの髪を優しくなでた。その目は、どこか寂しそうに見える。ただそれだけで彼女の胸は締め付けられた。
「あの屋敷はもしかして、あなたのマナー・ハウス?」
「いいや、違う。あそこは……」
言いかけ、途中でふるふるとかぶりを振るグレン。
「ごめん、とてつもなくつまらなくて長い話になる。今日は疲れただろう。ゆっくり休むといい」
「もう少しなら大丈夫よ」
そんなに切なそうな瞳をしている理由があの白い屋敷にあるなら、教えてほしい。レイラはなぜか、そんな風に思う。
「じゃあ……」
グレンは少し考える素振りを見せた。
「僕の寝間着もここに持ってこさせよう。一緒に寝てくれるなら、話してもいい」
「な、なぬう!?」
結婚もしていない男性と添い寝するなんて、できるわけがない。勢いよく後ずさるレイラに、グレンは優雅に微笑みかける。
「腕枕をしてあげる。さあおいで、僕の天使」
「ふ、ふざけないでよっ!」
ベッドに座ってとんとん隣を叩くグレンを、レイラはにらみつける。
「はは。冗談だよ。おやすみレイラ。いい夢を」
優雅に立ち上がった彼は、すれ違いざまにレイラの唇にキスをした。軽い音がして、すぐに離れていく。
呆然として文句を言うのも忘れたレイラを置き去りに、彼は意味ありげな微笑みだけを残して部屋をあとにした。
「な、なんなのよ! ほんと、失礼なひと!」
それにしても、あの白いマナー・ハウスはいったい誰の屋敷なのか。乱暴にベッドに座ったレイラは考える。
(グレン侯爵があんなに切ない目をするなんて。もしや、彼の想い人でも住んでいるのかも?)
そう考えると、腹が立ってきた。振り回すのもいい加減にしてほしいものだ。
レイラが悶々と考え込んでいると、ばあやが寝間着を置いていった。それはシルクでできているようでとても肌触りが良かった。白地にピンクのリボンがあしらわれている。
(こんなものを常備しているなんて、他の女の人もちょくちょく遊びに来ているに違いない。だまされるものですか。絶対にだまされないわ)
そもそも、侯爵であるグレンが平民のレイラを本気で口説くわけない。そう考えると、胸の奥がちくりと痛んだ。
「……なんで? ああ、もういいや、寝よう。今日は色々ありすぎて疲れたわ」
布団に潜ってまぶたを閉じると、すぐに睡魔が襲ってきた。それなのに、レイラの胸の奥に刺さったトゲはなかなか取れなかった。
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