第2話 突撃訪問

──五日後。


(ほらね、会いに来るなんて口だけじゃない)


レイラはローダーデイル家の使用人部屋で目を覚ました。またあの夜の夢を見た自分に苛立つ。


(決して『あの侯爵を忘れられない』とかじゃないから)


人の死体を見たのが初めてで、それが心の傷として自分を苦しめているんだろう。レイラはそう理解することにした。


あのあとレイラはアルに、ローダーデイル家の馬車が停めてある場所に連れていかれ、「迷子になっていた」とセドリックに引き渡されたのだった。


ベッドから起き上がったレイラは、ささっと地味な花柄のドレスに着替えてエプロンを巻き、長い金髪をまとめ、その上にリボンが付いた白いキャップをつける。


(さあ、今日も頑張らなきゃ。やることは盛りだくさんあるんだから)


ローダーデイル家はロンドンから馬車で二時間ほどのところにマナー・ハウスがある。なので、社交の時期でもデボラはタウン・ハウスを持たず、馬車で街へ通っていた。


その理由は、このマナー・ハウスが美しいからだとレイラは思っている。広い敷地の中には手入れされた花壇や植木や噴水。さすがに真冬のこの時期に花はないけれど、春になるとそれは美しい景色へと変わる。


その広い庭は庭師が管理している。レイラは玄関から屋敷の周囲の掃除に取りかかった。そのついでに暖炉に火を入れ、ダイニングルームを温める。


掃除があらかた終わったら、デボラの寝室に運ぶ朝のお茶を入れ、執事であるセドリックの元へを運ぶ。終わればデボラの着替えを手伝い、朝食の準備へ。


もちろん使用人はレイラだけではなく従僕や執事もいる。けれど彼女たちは協力してひとつの仕事をすればいいのではなく、それぞれが与えられた別ジャンルの大量の仕事を自らこなしていかなければならない。


デボラの朝食中、傍に控えているセドリック以外の使用人は台所に集まり、慌ただしく朝食を採る。


「さて、のんびりしちゃいられない。子供たちに食事を運んでやらなきゃ」


チーズとパンを口に詰め込み紅茶で飲み下す。立ち上がってスープの入った重い鍋を持とうとすると、従僕のベンジャミンが一緒に立ち上がった。


「レイラだけじゃ大変だ。手伝うよ」


「まあ、ありがとう」


ベンジャミンが鍋を持ってくれると言うので、レイラはパンの入ったバスケットを持つ。


ローダーデイル家には主人と呼べる人間はデボラただひとり。昔はデボラの夫がいたのだけど、病気で亡くなってしまった。その少し前にお子さんも病死していて、一人になってしまったデボラが爵位を継いだというわけだ。


寂しさからか、彼女はマナー・ハウスの中に小さな孤児院を作ってしまった。建物はデボラの屋敷とは別にある。敷地内の隅に、まるで小人が住むような小さな家がある。そこが子供たちのいる場所。


今は全部で七人の子供がいる。みんな、デボラ様が領地内や社交で出かけたロンドンで出会った孤児だ。


労働階級の孤児は、この国じゅうにたくさん溢れている。その中でもデボラがどういう基準でここに連れてくる孤児を選んでいるいるのか、レイラにはわからない。


とにかく、自分の財産で血の繋がっていない子供たちを保護し、養っているデボラを、レイラは尊敬していた。


「おはよう、みんな」


レイラが子供たちの家のドアを開けるけど、誰も出てこない。バスケットをテーブルに置いて階段を上がると、彼らはまだそこに並んだベッドで眠っていた。


寒いからだろう。ベッドの中で気持ちよさそうにまどろんでいる子供たちを見ていると、レイラは自分の気持ちが不思議と穏やかになるのを感じた。


「起きてちょうだい。スープが覚めちゃう」


可哀想だと思いながらも、子供たちを起こす。上は七歳、下は三歳までの子供がいる。彼らの世話は使用人全員の仕事だ。


彼らは始終動き回っていて、すぐにお腹が空いたと言うし、とにかく面倒臭い。けど、彼らの無邪気な笑顔が仕事で溜まったレイラの疲れを癒してくれるのも事実だ。


「おはようレイラ。今日は奥様に会えるかな?」


四歳のトーマスが目をこすりながら話しかけてくる。くるくるした赤毛がトレードマークだ。


「いつも言っているでしょ。社交の時期は忙しくて、なかなかあなたたちと遊んでいる時間はないの」


デボラは暇があると子供たちに本を読み聞かせたり、一緒に散歩したり、お茶をしたりする。子供たちはみんな、デボラが大好きだ。


「しょんぼりしないで。あとで私が本を読んであげる」


レイラが髪をなでると、トーマスはにこりと笑ってうなずいた。


子供たちに朝食を食べさせたら、屋敷に戻って後片付け、すぐに昼食の準備にとりかかる。そうして忙しく働いているうち、時間は過ぎていく。お腹が空いたと思って時計を見ると、正午を過ぎたところだった。


自室で黒いアフタヌーンドレスに着替えていると、部屋のドアがトントンと叩かれた。


「はあい?」


「レイラ、急いで来てくれ。急なお客様だ」


ベンジャミンの声だ。


(急なお客様って誰だろう?)


「お客様」といえばもちろん、デボラを訪ねてきた人ということだ。


(こんな時間に人の家を訪ねるなんてどういう神経をしてるのよ。昼食を用意しなきゃならないじゃない。いや、それが目的なのかも)


うんざりしながらも、レイラが手早くエプロンを付け直してホールへ向かうと、ちょうど客人が玄関からドアを開けて入ってくるところだった。


お辞儀をしようとして客人を見たレイラは、一瞬呼吸を忘れそうになる。


(あの侯爵だ!)


客人は、あの舞踏会の夜に会った侯爵とその従者だった。二人きりで、その他の連れや使用人はいない。


今日の侯爵は、膝より少し長い丈のフロックコートを着ている。シルクハットを取り、出迎えたデボラに微笑んだ。


「急な来訪をお許しください、お美しい女伯爵」


「いいえ、気になさらないで。あなたの執事はこの前我が家の迷子になっていた占い師を送ってくれましたね。今日は何か御用があって?」


デボラは決して慌てず、いつも通り優雅な立ち振る舞いで対応する。


(迷子になった占い師って私のことだ)


冷汗をかきつつ、レイラは黙っていた。外では神秘の占い師で通っているから、ここで名乗りを上げるわけにはいかない。


「ちょうど用事があって近くに来たものですから。帰る途中で、このマナー・ハウスで身寄りのない子供たちを保護していると聞きました。どのような施設なのかと、見学させていただきたく思いまして」


「まあ……施設と言うほどのものじゃありませんのよ。奉仕の一環でやっているだけで」


「いやいや、自分の屋敷の敷地内で面倒を見るなんて素晴らしいことです」


貴族というのは、領地の地代が収入源であって、働いて収入を得ることは卑しいこととされる。労働をする代わりに領地の管理をし、議会に出たり社会奉仕することが当然。レイラにはその方が労働よりも大変なことのように思えている。


「恵まれない子供に関心を持ってくださった侯爵様のお気持ちはありがたいのですが、私にはこれから行かねばならないところが……」


デボラは困ったように笑った。急な客人に失礼にならぬ程度の苦笑だった。


(そうだった。今日デボラ様は、これから出かける用事があったんだった)


たしか、どこかの伯爵のサロンに誘われていたはずだと、レイラは思い出した。今日の随伴者はセドリックひとりと決まっている。


「そうでしたか……。では外出の準備の邪魔をして申し訳ありませんでした」


侯爵が残念そうに肩をすくめると、アルが預かっていたハットとステッキを渡そうとする。


(まさか、このまま帰るつもり?)


レイラは我知らず、一歩踏み出していた。


「あ、あの」


思わず声を出してしまったレイラを、使用人たちとデボラがいっせいに注目する。


「お、おそれながら申し上げますデボラ様。せっかく侯爵様が寄ってくださったのなら、私たちだけでもおもてなししてはいかがかと」


「使用人だけで?」


デボラが厳しい目でレイラを見つめる。


「ああ伯爵、そうしていただければ助かります。私どもは首都のタウン・ハウスにおりますが、なかなかここまで足を運べる機会がないもので」


ホッとしたような表情で侯爵が微笑むと、デボラの表情が緩んだ。


「侯爵様がそうおっしゃるなら……無礼がありましたら、遠慮なく叱ってくださいませね」


「叱るだなんて、とんでもない。伯爵の使用人たちは教育が行き届いていると信じておりますから」


侯爵の笑顔がとても嘘くさく見えるレイラだった。


(嫁入り前の娘にいきなりキスするような男が、他人の教育がどうこうなどと、よく言えたものだわ)


レイラが呆れているうちに、上っ面をなでるだけの貴族同士の会話は終了し、デボラは予定通りの外出へ向かうこととなった。


「どうして無茶なこと言うんだよレイラ」


従僕のベンジャミンがこっそり耳打ちしてくる。主人がいないのに貴族ををもてなすなんて、本来ならば言語道断。しかも相手は伯爵家より位の高い侯爵家だ。


「大丈夫よ、私が子供たちのところへ案内するから。みんなはお茶の準備をお願い」


レイラは彼らの弱点を握っているつもりだ。そう、あの夜あの子供を彼らが手にかけたという容疑はレイラの中で全く晴れていない。


「お待たせしました侯爵様。こちらへどうぞ」


恭しく礼をすると、侯爵はにっこりと微笑んだ。まるで、レイラのことなど全く覚えていないというよな無邪気な顔で。


屋敷から離れ、他の使用人の視線がなくなった途端、レイラは足を止めた。


「で、いったい何の目的でここにきたわけ?」


見上げてにらむと、侯爵は肩をすくめた。


「もちろん、子供の保護施設を見せてもらうために」


「しらじらしいウソつかないで。あんなに残酷なことをする人たちがそんなものに興味を持つはずないわ」


「どうしてそうケンカ腰なんだ。せっかくの花のかんばせが台無しだよ、お嬢さん。それにあれは、僕たちの仕業じゃない」


侯爵のグローブをしたままの手が顔の近くに伸びてきて、レイラは思わず五歩下がった。この前はぼんやりしていたけど、今日はそうはいかない。


「やっぱり私を覚えているのね。あなたは私に会いに来ると言ったわ」


「待たせてごめん。やっとこうして会えたのだから、もっと笑っておくれ」


「誰が待ってたって!?」


それじゃ、レイラが侯爵に恋焦がれて、会いに来てくれる日を今か今かと指折り数えていたようではないか。


(その女たらし顔、殴ってやろうかしら)


レイラが拳を握りしめると、アルが背をかがめ、両手を前に出して臨戦態勢に。


(やるつもり? この猫男め)


にらみ合う二人の間に侯爵が華麗に割って入る。


「まあまあ二人とも。あの夜のことは調査中でね。進捗状況は話せないが、まず君との約束を果たそうと思って」


「何で話せないのよ」


「調査中だからだよ。すべての真相を明らかにするまで、待てなかったんだ。会いたかったよ、可愛い占い師さん」


バイオレットの妖艶な瞳の光に打たれて、倒れそうになるレイラ。不覚にも胸がどきりと高鳴ってしまった。動揺を隠すようにゴホンと咳ばらいをする。


「私はレイラよ」


「レイラ。いい名前だ。僕はグレン。彼は執事のアル。呼び捨てにしてくれてかまわない」


「じゃあ、グレン侯爵。真相を解明するまでは、うちを訪ねて来ないでちょうだい。私たち暇じゃないの。さあ、帰った帰った」


グレンといると、レイラの調子は狂いっぱなしだ。


(きっとこうして、他の女性にも甘い言葉を吐いて、その反応を見て楽しんでいるんだ。騙されちゃいけない)


しっしと追い払おうとするレイラの手をふわりと両手で包みこむグレン。レイラは不覚にもドキリとしてしまう。


「君に会いに来たついでに、ローダーデイル伯爵の児童養護施設を見たいというのも本当だよ。素晴らしい社会奉仕だ。共感できれば、僕も協力したい」


侯爵家が協力。ということは、お金を出してくれるということだろうか。


(そうなれば助かるわ)


屋敷の維持費だけでも多額の費用がかかるので、伯爵家といえども子供たちに回せるお金は多くない。


レイラが夜働いてお金を稼ぐのも、子供たちにもっとたくさんの食べ物や衣服、おもちゃや本を与えたいからだ。これまでもレイラが占いで得たほとんどの収入を貢いできたけど、まだ足りない。


(侯爵家がお金を出してくれれば、もっとたくさんの子供が救えるかも。家庭教師を呼んで教育もできる)


「……本当ね?」


「僕は嘘はつかないよ。特に、可愛い人にはね」


「きゃっ」


手の甲にキスされそうになり、レイラは赤面して手を振りほどいた。


「ま、まあいいわ。じゃあ、こっちよ」


グレン侯爵の本当の思惑はつかめないけど、寄付の話は魅力的だ。機嫌を損ねない方がいいと判断したレイラは、おとなしく子供たちが住む小さな家まで、広い庭を通って案内する。


「レイラ、あれは何?」


侯爵が立ち止まった。その視線は、背の高い植栽の壁に注がれていた。


「メイズよ。常緑樹をを並べて迷路にしてあるの。子供たちもあそこで遊ぶわ」


「へえ。いいな、メイズ。我が家にも作ろうか、アル」


グレン侯爵が冗談っぽく微笑みかけると、アルは真面目な顔で首をかしげた。


「必要でしょうか」


「いつか僕だって子供ができる。そのとき必要だろ」


「なるほど。検討しておきましょう」


こくりと頷くアル。


(やっぱり変な人たち……)


ツッコむのも面倒くさくなったレイラは、無言で案内する。


「ここよ」


子供たちの家のドアをノックすると、中からドタドタと子供たちが走ってくる音がした。


「レイラ! ご飯おいしかったよー!」


勢いよくドアが開いて、トーマスが飛びついてきた。エプロンに彼の口についていたシチューがつき、シミを作る。テーブルの上には汚れた食器や鍋がそのまま。みんな口もふかずに遊んでいる。グレンの服を汚したら一大事だ。


「はい、はい、みんな落ち着いて。お客様よ」


両手をぱんぱんと鳴らすと、子供たちはその場でフリーズした。自分たちに客人が訪ねてくるなんて、初めてのことだからだ。


「えーと……グレン……苗字なんだっけ?」


「ランカスター」


「ランカスター侯爵様よ。みんな、ご挨拶は?」


子供たちはぽかんと口を開けたまま、グレン侯爵を見つめた。


「かっこいい……」


挨拶の代わりに三歳の女の子、エイミーがそうこぼした。


(なるほど、そういえばこんなに身なりの良い若い男を見るのは初めてだものね。呆気にとられても仕方ないか)


レイラは同意することもなく、曖昧な微笑みをエイミーに返した。


「こんにちは」


「こんにちは、侯爵様」


やがて子供たちは小さな声でもじもじしながら挨拶をした。


「見ての通り、施設ってほどのものじゃないわ。私たちも一日中見ていられるわけじゃないから、そういうときは大きい子が小さい子の面倒を見てくれているの」


「すごく家庭的な雰囲気でいい。みんな、本当の兄弟みたいだ。アル」


合図をされると、アルがごそごそとポケットの中を探る。出てきた手には、紙で包まれたキャンディーがたくさん乗っていた。


「みんな、こんにちは。あまり食べると虫歯になってしまうから、ひとり一つだよ」


「わあ、ありがとう!」


子供たちはオッドアイの執事に多少ビビりながら、ひとつずつキャンディーをもらうと嬉しそうに微笑んだ。


(まあ、子供をなつかせるには餌付けが最短ルートよね)


喜ぶ子供たちを複雑な気持ちで見つめるレイラだった。


「よし、僕とメイズでかくれんぼしてくれる子はいるかな?」


「は? いきなり何を言いだすの?」


グレンの奇想天外な発言に、思わず口を出してしまうレイラ。


「えっ、侯爵様と?」


子供たちは意外に食いついた。


「そう。アルがハンターだ。僕ときみたちは、一緒に彼から逃げる」


オッドアイの従者をちらりと見て、レイラはさっと視線を逸らした。


(アルが探す役……怖そう。びよーんと壁の向こうから飛んできそう。何より動き早いし)


けれど子供たちは「わーい」と喜んで、次々に外に出ていく。使用人たちは仕事の合間にしか相手をしてくれないから、本気で遊んでくれそうな大人の出現が嬉しいのだろう。


「ねえ、いいの? 絶対に汚れるわよ。この子たちも私も、弁償できないわよ」


子供たちは相変わらず手や口にシチューがついたままだし、転んで泥だらけになるだろうし……。


「いいよ。汚れたら洗えばいい。洗うのはアルだけどね」


そう言うとグレンはフロックコートを脱ぎ、シルクハットと一緒に近くにあったポールハンガーにかけた。


「ようし、行くぞ! アル、わかるな。手加減だぞ、手加減」


「……御意」


本当にわかっているのかと不安になるレイラをよそに、アルは非常に神妙な顔で、数を数え始めた。その間にグレンと子供たちはメイズの方へ走っていく。


「レイラ! 君もおいで!」


「は?」


グレン侯爵が遠くから手招きする。


(どうして私がかくれんぼなんて。子供じゃあるまいし)


聞こえないふりをしていると、アルが突如数を数えるのをやめてしまった。


「レイラさん、グレン様の命令を無視するおつもりですか?」


険しく細められたオッドアイが異様に光る。


「ちょ、睨まないでよ。怖いじゃないの。しかも、あれ命令なの?」


侯爵が使用人に言っているのだから、命令になるのかもしれない。ふとレイラの脳裏に浮かぶのは、女主人の顔だ。


(無視してデボラ様に何か言われても、アレだしなあ)


諦めてため息をつくと、レイラは仕方なく駆け出した。



メイズに入ってすぐ、レイラはグレンと子供たちの背中を発見した。大きい子たちはもう奥の方へ入っていってしまったようだ。


侯爵はトーマスとエイミーの二人の手を握っていた。


身なりに差がありすぎるし、髪や目の色も違いすぎて、親子には見えないけれど、なんだか微笑ましい。


レイラは自分の頬が緩むのを感じた。


「さあ、一緒に逃げよう」


侯爵は二人と一緒に、メイズの中へ入っていく。レイラもその後を追った。


何度も突き当りにはまってしまい、行ったり帰ったりを繰り返す。次第に、自分がどこにいるのかわからなくなってきた。


「ここもダメね。ん……?」


突き当りでレイラがきょろきょろと周りを見回していると、背後からがさがさと誰かが近づいてくる足音がした。


「アルだ。トーマス、エイミー、ここは僕が食い止める。君たちはそこの角から奥へ行くんだ。大丈夫、勇気を出して」


突然のお別れ宣言に、子供たちは動揺する。


「えーん、侯爵様~」


「行くよ、エイミー」


途端に不安そうな顔をしたエイミーを、トーマスが引っ張っていく。


「さあ、きみも逃げて」


グレンはレイラにも同じように声をかける。


(何それ。ここで別れることに、なにか意味があるの?)


わからなかったが、子供と同じ扱いが気に入らず、ぷいとそっぽを向いたレイラ。


「じゃあ、行くわ」


小さい子供たちが迷子になったら大変だ。メイズは広くて、探しきれない。早く追いかけなくては。


レイラもローダーデイル家で育った身。彼女は自分が六歳くらいのころ、このメイズが完成したのを覚えている。


ただレイラは客人ではなく、メイドとして働くことを義務づけられていたので、メイズで遊んだ経験はほとんどない。


「ああ。子供たちにはハンターが二人になって追いかけてくると言ってくれ」


「なるほど、そういうこと。子供たちをビックリようというのね」


良く考えたら無愛想なアル一人がハンター役では、怖いだけ。グレンなら、手加減して子供を楽しませてくれそう。レイラは一瞬納得した。


(って、ちょっと。ついさっきまで人殺しじゃないかと疑っていた相手にそんなことを思うなんて。私、どうかしているんじゃない?)


とにかく、小さな子供たちだけにしないに越したことはない。レイラはエイミーたちの後を走って追いかけた。


「大変よ。侯爵様もハンターになっちゃったわ」


追いつくと、彼らはホッとした顔をし、私のエプロンに抱きついてきた。ハンターが増えたことより、ふたりきりの不安の方が大きかったようだ。


レイラは子供たちと一緒に奥まった突き当りに隠れる。しばらくするとゆっくりした足音が聞こえてきた。


「さあ、子供たちはどこだ?」


侯爵の声だ。このままだと、捕まってしまう。逃げようとしてゆっくりと動き出すと、角を曲がってきたアルと目が合ってしまった。


「わ~っ!」


幼い二人の手を引いて逃げようとするけど、敵は目前。手加減と言われてだいぶぎこちない動きをしているアルだけど、子供連れのレイラよりは速い。


「捕まえました」


あっさり肩にタッチされたレイラは、がっくりと膝をつく。


「二人だけでも……私のことは構わず逃げて!」


「わあ~、レイラ~」


「ごめんね~っ」


アルは脇をすり抜けていく子供たちを無理に捕まえようとはしなかった。ゆらりと振り向き、ゆっくりと両手を前にして進んでいく。


(なんか、ハンターって言うよりゾンビみたい……)


残されたレイラがひと休みしているうち、遠くから子供たちのキャーキャー言う声が聞こえてきた。アルと侯爵が二人でメイズのあちこちに散らばった子供たちを本格的に捕まえに行っているのだろう。


「変な人たち」


まさか本当に自分に会いにきたわけじゃないだろうし、事件のことを話すつもりもなさそう。


レイラはその場で首を傾げた。


(いったい何をしにきたのかしら? 本気で子供たちに興味があるのかしら)


それなら、ロンドンにある貧窮院を見に行ってもいいはずだし、そこかしこに孤児院もある。なのになぜ、ピンポイントでローダーデイル家の屋敷に来たのか。


「レイラ~」


背後から仲間とはぐれたらしい五歳のソフィアが泣きべそをかきながら駆け寄ってきた。


「あらら。よし、一緒に行きましょう」


とにかく今は、レイラに考えている時間はない。


彼女はソフィアの手を引き、メイズの出口に向かって歩き出した。



一時間後。


かくれんぼを終えて小屋に帰ってきたときには、グレン侯爵は子供たちの英雄になっていた。


「侯爵様、ありがとうございました!」


「また来てね~っ」


元気よく手を振る子供たちに侯爵は手を振り返した。


「お茶を用意するから、休んでいって」


子供たちのために走り回ってくれたし、その間不審な点はなかった。このまま帰しては他の使用人も変に思うだろうし、それがデボラにバレたらレイラとしては都合が悪い。


「ありがとう。いただくよ」


「じゃあ、客間へどうぞ。準備をしているはずだから」


グレンたちを客間へ通すと、ベンジャミンが慌ててお茶を運んできた。お菓子やサンドイッチは既にテーブルの上に並んでいる。


「みんなに僕のことは気にしないでいいと伝えてくれ。君ひとりでじゅうぶんだ」


グレンはアルに部屋の入口の前に立つように指示した。直前の発言といい、人ばらいをしたがっているようにレイラは感じた。


「さて、君も座ったらどう?」


「けっこうです」


メイドが貴族と同じテーブルにつくなんて、できるわけがない。


ポットからティー・コージーを外してお茶を注ぐと、グレンはそれをストレートのまま口をつけた。あっという間に飲み干される。


「君が淹れてくれたからかな。格別に美味しいよ」


喉が渇いていたからじゃないの。そう反論しようかと思ったけど、レイラは無視することにした。


「少し話をしていいかな」


「え?」


もしかして、やっとあの夜のことについて話す気になったのか。そう思ったレイラが身を乗り出すと、侯爵は不敵に微笑む。


「その前におかわり」


カップを差し出す笑顔が憎らしく思える。レイラはすっかりグレンのペースにはめられていた。


お茶を注ぐと、グレンはやはりストレートで一口だけすすった。


「レイラはいつからこの屋敷にいる? いつから、占い師として活動しているんだ?」


事件のことではなく、自分のプライベートについて質問され、レイラは戸惑う。


「いつからって……赤ちゃんの時からよ。このお屋敷の門の前に捨てられていたんですって」


「ふむ」


グレンは憐れむ様子は見せず、ただうなずく。


「占い師としてついていくようになったのは、つい最近。子供たちの小屋の維持費もなんだかんだとかかるの。でもデボラ様は労働してお金を稼ぐわけにはいかないでしょ」


「だから君が、少しでも子供たちのため、主人のためにと夜まで働いているわけか」


グレンはカップを置き、膝の上で手を組む。


「正直、君はローダーデイル伯爵のことをどう思っている?」


「正直って?」


「僕には言っていいんだよ。嫌いか好きか、単純に答えてくれればいい」


微笑みの消えた顔でじっと見つめられ、レイラは居心地が悪くなる。不思議なバイオレットの光に、心の奥まで見透かされそうだ。


「感謝してるわ。デボラ様は、実の娘のように私を扱ってくれる。生活に不自由したことはないし、足りないものもこれといってない。あの方がいなければ、私は赤子のまま、カラスの餌になっていたでしょうね」


「実の娘、ねえ……」


何がおかしかったのか、グレンはレイラの発言をフンと鼻で笑った。


「何よ」


「いや、多分認識の違いなんだろう」


「何が言いたいのよ。ハッキリしなさいよ」


バカにしたような態度が、レイラの神経を逆なでする。彼女がテーブルを叩くと、グレンの怪しい瞳がこちらを見上げた。


「ならば言うけど。僕なら、実の娘にこんな格好をさせて、メイドの真似事なんか絶対させないね。奉仕のため、子供たちの世話をするのは素晴らしいと思う。けれど、嫁入り前の大事な娘を金儲けのために貴族のパーティーに引っ張り出して深夜まで働かせるなんて、絶対許さない」


「なっ……! 金儲けなんて。それは私が勝手に……」


「なら、自分の所有物を見せびらかしたいのか? 腕のいい占い師が家にいるなんてすごいでしょって」


ズケズケと言われて、レイラは反論する言葉をなくした。ぐっと唇を噛んで辱めに耐える。


(デボラ様はどこまでも私のご主人様で、母親じゃない……)


その事実はレイラの胸に刺さった。


「レイラ、よく考えてほしい」


グレンは静かに立ち上がった。


「君は特別な力を持っているね」


ぎくりとレイラの背中が震えた。


(もしかして、あの夜占いをしようとして手を繋いだ瞬間、彼も何かを感じたの?)


バイオレットの視線に射貫かれたレイラは、金縛りにあったように動けなくなる。


「その力を貴族の無駄な余興なんかに使わないで、人々のために役立てようとは思わないか。君はこんなところにいていい人じゃない」


レイラが気づくと、グレンに右手を握られていた。あまりにも自然な仕草だったので、抵抗するのを忘れてしまった。無意識に胸が高鳴る。


「この家を出てランカスター家においで、可愛いひと。初めて会ったときから、僕の心は君に奪われた。どうか、僕の傍に来てほしい」


癖のある声で甘く囁く。初めて愛の告白を受けたレイラは、思いきり動揺した。


「な、な、ななななっ」


言葉にならない声が口をついて出てくる。レイラの体中が熱くなり、顔が火照って赤くなる。


グレンは背をかがめてレイラの手の甲にキスをしようとする。


「あ──っ!」


その瞬間、レイラの中で何かが弾ける。彼女はは思い切り手を振り払い、彼のキスから逃れた。


「あなたにキスされてから、事件のことを口にしようとすると声が出なくなるの。あなたも、私と同じ。イレギュラーな人間なのね」


キスされそうになった右手の甲を左手で隠しながら、じりじりとあとずさる。熱くなった体が小さく震えた。


(私の力に気づいたこの侯爵が、あの時のキスでおかしな魔術をかけたんだわ、きっと)


それは単なる予測だった。だけど、間違いないという確信がレイラにはあった。


「レイラ、悪いようにはしない。僕の言うことを聞くんだ」


そう言うグレンの口元から、笑みが消えた。真っ直ぐな瞳で私を見つめる。魔術が込められたような、不思議な色の瞳で。大きな手が、レイラに差し出される。


「いいえ、お断りするわ。私はデボラ様を裏切らない」


誰が何と言おうと、レイラを育ててくれたのはデボラだ。


(それに、甘い言葉でかどわかそうとするなんて卑怯だわ)


一瞬でもときめきに似た胸の高鳴りを覚えたレイラの頭が、落胆と怒りで冷えていく。


レイラが勢いよく首を横に振ると、グレンはゆっくりと差し出した手を引っ込めた。


「仕方ない、今日のところは引き下がろう」


「って言うか、もう来ないで」


「それは無理だ。僕は君を諦められない。そして僕を拒否すれば事件の真相はわからないままだ。それでもいい?」


たしかに、今のところグレンがレイラと事件の真相を繋げる唯一のパイプだ。貴族の集まりで占いをしているときに噂話を聞くことはあるけど、労働階級の子供の殺人事件何て話題に上らないだろう。彼らには関心のないことだから。


「いい。私が自分で真相を突き止める」


完全な虚勢であることは、自分でもわかっている。そして、グレンの甘い言葉に動揺し続けていることも。


レイラがじっとグレンを見返すと、彼はふっと息を吐き、表情を緩めた。


「いいな、その強気な瞳。抱きしめたくなる」


めげずに近寄ってくるグレンに、レイラは後ずさる。


「な、なに言ってるのよ!」


「ははは。叩かれるといけないから、帰るよ。アル」


グレンは優雅に入口を開け、自分の執事の名を呼んだ。彼に身支度を手伝わせると、こちらを振り向く。


「じゃあ、また。僕のところに来たくなったらいつでも便りを寄越してくれ。すぐに迎えにくるから」


妖艶な微笑みが、レイラの胸をかき乱す。


「みんな! ランカスター侯爵様がお帰りになるわ!」


真っ赤になったレイラがやけくそで叫ぶと、使用人たちがどたどたと集まってきて、全員でグレンを見送った。


(いったいなんなの。どこまで本気なの)


主人を侮辱した無礼な侯爵に腹を立てながら、レイラは自分の部屋に戻る。


その途中で一瞬だけ、ランカスター家に行ったらどんな暮らしができるんだろうと想像してしまい、慌てて首を激しく横に振った。


(貴族の戯れよ)


貴族がメイドを本気で愛することなどない。主人に遊ばれて捨てられたメイドの話を掃いて捨てるほど知っているレイラはため息をついた。


(無駄に人の心をかき乱さないでほしいわ)


忘れようと思うほど、美しい侯爵の顔やくせのある声が脳裏をちらつく。


レイラのため息は途絶えることがなかった。



その日の夕方。


「そう、ランカスター侯爵が子供たちの養育に参加してくれるかもしれないと。それはありがたいわ」


帰ってきてからすぐ、デボラはその日の報告を聞きたがった。グレンが出資してくれるかもしれないと聞き、ご機嫌になるかと思いきや、デボラは冷静な顔でうなずいていた。


「他には何か?」


二人きりの部屋で、デボラがレイラに問う。銀の燭台に立てられた蝋燭が、彼女の若々しい横顔を照らした。


「いいえ……具体的なことは何も。また連絡があるのではないでしょうか」


「そう。使用人しかいないのに具体的な話なんてできないわよね。いいわ、今度手紙を出してみます」


「はい」


実は私、ランカスター家に来ないかと誘われたんです。人の運命を覗き見できる能力を買われて。


レイラにそんなことを、言えるわけはなかった。


自分がデボラを裏切らないと決めた。それに、グレンが本当に信用できる人物かどうか、大いに疑わしい。


そう思うのに、レイラの頭の中からはグレンの声が消えなかった。


『僕なら、実の娘にこんな格好をさせて、メイドの真似事なんか絶対させないね』


貴族が実の娘にメイドの仕事をさせるわけはない。考えてみれば当たり前のことだ。


デボラはレイラがメイドの仕事で失敗をしてもそれほど怒らないし、体調を崩せば快く休ませてくれる。頼めば自分の本を貸してくれたり、おさがりの小物をくれることもある。


そんなデボラだから、レイラは自分が大事にされていると思っていた。だけど。


(もしかして私、都合良く使われているだけなのかな。ただのメイドではなく、例の力があるから……)


考えるほど悲しくなってきて、首が自然と下方に折れ曲がってしまう。


「レイラ、どうかしたの? ひどい顔をしているわよ?」


立ったまま考え込んでしまったレイラがうなだれると、目の前に立ったデボラが、彼女の頬を触った。


「何か心配ごとがあるなら、言ってちょうだいね」


「デボラ様……」


そっと優しく引き寄せられ、レイラはデボラの胸に顔をうずめる形になった。甘い花の香りが鼻孔をくすぐる。


(私にお母さんがいたら、こんな感じだったのかな……)


安心するはずの抱擁は、何故かレイラの胸をざわざわと波立たせた。

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