公爵様と秘密の夜
中園真彩
第1話 得体の知れぬ侯爵
「では、手を出して」
レイラがそう言うと、目の前に座った伯爵令嬢はそっとそのグローブを外した白い手をレイラの手のひらに乗せた。
「何を占ってほしいのですか?」
「将来の結婚相手は……いつぐらいに出会えるかしら。どういう方?」
これで同じ質問をしてきた令嬢は連続で五人目。うんざりしたレイラは心の中で盛大な溜息をついた。
(年頃の貴族令嬢の考えることは、それしかないのかしら)
レイラは雰囲気を出すために置いてある水晶玉の中をのぞくふりをする。けれど本当はその必要はない。
彼女は他人に触れるだけで、相手の過去や未来に関するビジョンが見える。
繋いだ手のひらの間に、レイラしか感じられない熱が発生する。そこに意識を集中すると、レイラの頭の中に映像が浮かんできた。
相談者の貴族令嬢と同じ年頃の男性が、華やかな街中を並んで歩いている映像が浮かぶ。男性も貴族らしく、良い身なりをしていた。
レイラの頭のなかで、絵画のような恋人の肖像が一瞬にして他のビジョンに代わる。その中で、目の前の貴族令嬢は一人で泣いていた。
(好きな人ができても、結婚を反対されるのね)
彼女には細切れのビジョンからそれだけのことを読み取る能力があった。レイラの頭の中に、男性の職業や家柄までもが、次々と映像になって飛び込んでくる。
「見えました」
水晶玉から顔を上げると、令嬢の顔に緊張が走るのが見て取れた。
「あなたの結婚相手は、ジェントリ的職業の方です。おそらく貴族の次男か三男で、貿易の仕事をしている」
「ええっ、長男じゃないの?」
令嬢は不満そうな声を漏らした。爵位はどの家も長男しか継ぐことが許されず、その下の兄弟は働いて稼ぐしかない。
「でも、あなたはその方をとても好きになるようですよ。ご両親の反対にあっても、二人でそれを乗り越えようとする」
「長男じゃないのなら、そりゃあ反対するわよね」
「運命の出会いはもうすぐですよ」
会話がかみ合わないまま、手を離して令嬢は立ち上がった。テーブルの上に、料金のコインを叩き付けるように置いていく。不満気な顔で、お礼も言わずに。
(自分に都合の良いことしか聞きたくないなら、占いなんてやらなければいいのに)
厳密に言えば、レイラがやっていることは、占いとは少し種類が違う。しかし占い師としてこの場にいる以上、それを演じるだけだ。
(階級がなんなの? 大恋愛ができるって言ってるんだから、相手がジェントリ的職業だろうが中産階級だろうが、どうでもいいじゃない)
素敵な恋愛もしたい。けれど結婚相手に望むのは、社会的地位と財産。わがままな令嬢たちの相手を重ねる度、レイラの腹には鬱憤ばかりが溜まっていく。
「あの方、ローダーデイル家の占い師なんですって」
「当たるって評判なのよね」
占いの順番待ちをしている女性の列から、そんな声が聞こえた。
レイラは今夜、ある貴族のタウン・ハウスで行われている舞踏会の会場の片隅で占いをしている。別に自分からしたくてやらせてもらっているわけではない。
タウン・ハウスというのは貴族が社交界の時期に首都ロンドンで暮らす家のこと。それ以外は自分の領地に広大な敷地のマナー・ハウスがあり、そこで暮らしている。
実はレイラの正体は貴族であるローダーデイル家のメイドである。乳児だった彼女はローダーデイル家のマナー・ハウスの門の前に捨てられていたのを女主人に拾われた。
レイラは自分では覚えていないけれど、ものごころ着いた頃には既に、他人にはない不思議な才能を発揮していた。
彼女は相手の手に触れるだけで、その人の過去や未来をのぞき見ることができる。
なのに不思議と、自分自身のことは何も見えない。レイラは幾度も自分の生みの親を探そうとした。しかし、彼女が自分の両手を合わせてみても、どんなビジョンも浮かんでこなかった。
レイラの能力に気づいたローダーデイル家の女主人……デボラ・ローダーデイル伯爵は、彼女を着飾らせて神秘の占い師に仕立て、他の貴族の集まりでこうして余興をさせることで場を盛り上げ、自分の力を誇示していた。
貴族の中には、使用人を一人雇うのもやっとの家もある。使用人の数だけ、国に税金をとられるからだ。けれど、ローダーデイル家には執事が一人、従僕が二人、メイドが三人、庭師が一人、さらに占い師までいると噂になっている。
(順番を待っているのはあと五人くらいか……。御令嬢たちも、こんなところで時間を無駄に使うより、男の人に誘われるように顔を上げて笑っている方が良いんじゃないかしら)
楽隊の音楽が響く中、一人の女性が声を上げた。
「まあ、グレン様よ!」
並んでいた女性が、いっせいに後ろを振り向く。そこには、一人の紳士が立っていた。
漆黒の髪。すらりと伸びた長い足。黒い燕尾服の下にダークグレーのベストを着て、黒いズボンを履いている。
二十歳の自分より、五歳ほど年上だろうか。と、レイラは推測した。
「お嬢さん方、何をなさっているのですか。ちっとも踊ろうとしてくださらないから、男たちががっかりしていますよ」
並んでいる女性たちに冗談ぽく語りかける声は低すぎも高すぎもしなかった。けれど、男性らしい深みを感じさせる。一度聞いたら忘れられないような、少しくせのある声。
「侯爵様が踊ってくださるなら、喜んでそちらに参るのだけど」
とある令嬢が扇で口元を隠したまま、彼を上目遣いで見上げる。どうやら黒髪の男は侯爵の爵位を持っているらしい。若く見えるけど、もう家を継いでいるようだ。
令嬢の言葉に微笑みだけで返すと、彼はレイラに歩み寄ってきた。
「ローダーデイル家の占い師というのはあなたですか」
座っているレイラを見下ろす彼に、彼女はうなずきで返した。
「興味がある。僕も見てもらおうかな」
「順番に見ますので、どうぞ列の一番後ろにお並びくださ……」
言いかけたレイラの言葉を、順番待ちしていた令嬢たちが遮った。
「どうぞどうぞ、グレン様!」
「お先にどうぞ!」
今か今かと自分の順番を待っていたはずの令嬢たちが、あっさりと彼に順番を譲る。
(とってもおモテになるみたい)
レイラは感心して、その光景を見ていた。彼女自身は彼の存在を認識したのは初めてだ。いつも隅で占いをしているだけなので、ムリもない。
「ありがとう。親切なお嬢さんたち」
彼は令嬢たちに微笑み、テーブルの前に置いたイスに座る。
(でも、紳士はレディーファーストが基本じゃない? 遠慮もせず、あっさり順番を譲ってもらうなんて)
じっと目の前に座った男をにらむように見つめる。すると、レイラはあることに気づいた。
(この人、とても珍しい瞳の色をしている)
今までレイラが会った人の瞳の色に多いのは、ブラウンやブルー、そしてグレー。レイラは先祖にドイツの血が入っているのか、ヘーゼルの瞳をしている。
しかし、目の前の侯爵の瞳は、青みが強い紫色だった。バイオレットといえばいいのだろうか。
長いまつ毛にすっと通った鼻筋、形の良い唇を見れば、なるほど、周りの女性たちが色めき立つのもわかる気がする。
けれどそれよりもレイラの興味を引くのは、奥底の知れない深みを持った、そのバイオレットの瞳だった。
「さて、座ったはいいが何を占ってもらえばいいのか」
彼がしゃべり、レイラはハッと我に返る。バイオレットの瞳に見惚れていた自分に気づき、恥じらいを隠すように咳払いをした。
「皆さんは、結婚相手を聞かれることが多いですが」
「そう。じゃあ僕もそれでいい。まだ未婚なんでね」
いい加減な彼の態度に、レイラは苛立つ。
(本気で占いたいこともないのに、どうして座ったのよ。冷やかしならやめてほしいわ)
それでも、彼は客だ。レイラは気を取り直し、すました声で言った。
「では、手を出して」
彼はグローブを外し、レイラの手の上にその大きな手を乗せた。綺麗な手だ。すらりと長い指にはささくれひとつない。
(労働をしなくていい身分の人の手は、どれも綺麗だけど。この人の手は特別綺麗)
美しい男の手の感触に少し胸が高鳴る。
「未来の結婚相手を知りたいと、強く祈って」
「はい」
彼はそっと瞳を閉じる。そのバイオレットの瞳が見えなくなると、レイラにいつもの落ち着きが戻ってきた。
意識を集中する。彼の運命を覗き見ようとする。しかし。
レイラに見えたのは、白い光だけだった。何のビジョンも見えない。
(おかしい。こんなこと、初めて)
集中すればするほど、その光は怖いくらいに強くなり、陽光のようにレイラを焦がす熱を持つようだ。
「……ない……」
「ん? どうしました?」
「見えないの……」
レイラは愕然とした。彼の過去も未来も、現在すらのぞくことができない。このようなことは今までに体験したことがない。
「光が。白くて眩しい光が見えました……でも、それだけで」
声がかすれた。そこで初めて、自分の喉がからからに乾いていることにレイラは気づく。
「へえ……」
侯爵は落胆した様子もなく、バイオレットの瞳を細めて微笑む。
「では、それくらい僕の未来は輝いているということかな」
「え? う、ううん……」
なにせ、初めてのことなので、レイラはうまく返事をすることすらできなかった。
不幸な未来が見えてしまった時はそうならないように助言を与えたりするのだけど、何も見えなかったのは初めてで、対処法がわからない。
「そういうことにしておくよ。ありがとう」
そう言った彼は燕尾服のポケットから金貨を取り出し、そっとテーブルの上に置いた。そのまま、会場の奥へと去っていってしまう。
「なーんだ、見えないときもあるのね」
「ねえ、侯爵様のお近くに行きましょうよ」
侯爵の結婚相手が気になっていたのか、聞き耳を立てていた令嬢たちも、さっとその場から去っていってしまった。
(しまった。見えなくても、何か適当に言っておけばよかった。いくらびっくりしたとはいえ、そんなこともできないなんて)
「今日はもうやめにしましょうか。もう一曲か二曲で、お開きになりそうですし」
背後の衝立の奥に隠れていたローダーデイル家の執事、セドリックがそっとレイラ声をかけてきた。
「ええ」
レイラの主人であるデボラは、まだ会場の中でどこかの婦人とおしゃべりをしている。今年で四十歳になるのに肌にハリがあり、豊かなブラウンの髪を結ったデボラは、どこに行っても周りに人が集まってくる。
こういう場合、レイラは近くに停めてあるローダーデイル家の馬車で舞踏会が終わるのをじっと待つことになる。
「お疲れ様」
衝立の奥に入ると、セドリックはパンと肉とチーズが入った袋をレイラに渡す。レイラはそれと引き換えに、今日の占いで得た収入のすべてを彼に渡した。
セドリックはデボラとは対照的に、髪に白いものが多く混じっている。
(デボラ様とそう歳は違わないはずなのに。苦労が多いせいかしら)
レイラは頭の上からマントを被り、こそこそと会場を出ていく。
空腹の限界だった。行儀が悪いと思われることは承知で、屋敷のすぐ前で袋を開けてパンを出そうとした。その時。
「今日は思いがけない収穫があった」
「それは良うございました」
さっきのバイオレットの瞳を持つグレン侯爵が従者と共に屋敷の外の階段を下りてくるのが見えた。レイラは慌てて柱の陰に隠れる。
従者はレイラと同じくらいの年に見える。プラチナブロンドに左右で違う色の瞳を持っていた。右はブルーで、左はグレー。オッドアイの猫みたいな男だ。
(収穫って、なんだろう。可愛い令嬢でも見つけたのかしら)
二人は階段を下りると、何事かをぼそぼそと話した。そして顔を見合わせると、馬車が並んでいる大きな通りに面した方ではなく、反対側の労働階級が多く暮らしているエリアの方へ向かっていく。
(一体何の目的で……?)
気になったレイラは、出しかけていたパンを袋にしまい、腰のベルトにくくりつけた。足音をさせないように気をつけて彼らのあとをつけていく。
(得体の知れないバイオレットの瞳を持つ侯爵。彼はどんな人なのかしら)
レイラは好奇心に勝つことができず、彼らを追って夜の街へ入り込んでしまった。
裏道に入りタウン・ハウスの灯りが見えなくなると、彼らは突然走り出した。しかも、とても人とは思えない速さで。
「ええ~っ!?」
二人とも速すぎる。足音をさせないように気をつけていたら、あっという間に見失ってしまった。
(燕尾服であんなに速く走る人、初めて見たんだけど。そもそも、貴族様が走るところなんてめったに見ないか)
そういうレイラも体力には自信があるけど滅多に全力疾走なんてしないので、しばらく走るとすぐに息が切れてしまった。
「はあ、はあ……もう帰ろう」
どうしてあの二人が走りだしたのか、どこへ向かったのかとても気になるけど、気づけばランプも持っていない。周りは真っ暗で、街灯もまともにない地域だ。今さらながら身震いするレイラだった。
(怖い。早く馬車に戻ろう。)
そうしてふらふらと来た道を帰ろうと歩き出すと。
「ん?」
足元で何かが月光を反射してきらりと光る。かがんでそれを拾い上げた。
「金貨……」
レイラの脳裏に浮かぶのは、占いを終えた後で金貨を置いていった男の長い指。
労働階級が多く住むこの地域で、こんな豪奢な落とし物をする人はなかなかいない。
金貨を手のひらで包んで目を瞑り、そっと意識を集中させるレイラ。金貨の記憶を探る。すると、瞼の裏に黒い燕尾服の先が見えた。
(やっぱりそうだ。これはあの侯爵が落としたものに違いない)
レイラは自分が地上に落ちていくような感覚に陥った。金貨が侯爵のポケットから落ちる瞬間のビジョンがレイラの視界に映る。地上に叩きつけられる直前、オッドアイの従者の顔がちらりと見えた。
そこで目を開け、現実の景色の中でキョロキョロと辺りを見回す。
「あっちの方向へ行ったんだ」
彼らが行ってしまった方角も、金貨がしっかりと見ていた。レイラはそれを握りしめ、勇気を振り絞ってそちらへと急ぐ。
(やっぱり、気になるもの)
どんどんと労働階級のアパートが立ち並ぶ狭い路地に入っていく。
(夢中でこんなところまで来てしまったけど、彼らは……)
辺りは一寸先も見えないほどの暗闇に包まれている。侯爵たちの姿は、どこにも見えない。
(見失っちゃった。残念だけど、帰った方がいいわよね……)
レイラが立ち止まった瞬間、人の声がした。
「じゃあ、あとのことは任せた」
「御意」
どきりとレイラの胸が跳ねた。
(この癖のある声は、あの侯爵だ)
ちょうど角にさしかかったので、そこから少しだけ顔を出し、声のした方を見た。すると。
「ひ……っ!」
こらえきれなかった悲鳴が、レイラの喉の隙間から出てしまった。
袋小路になっている道の終点に、子供がうずくまっているのが見えたからだ。しかも、ただうずくまっているのではない。
その顔は土気色で、見開かれた目はどこにも焦点が合っていない。ぽかんと開かれた口の周りは真っ赤に染まっていて、そこから流れたのであろう血が地面を濡らしていた。
そしてその傍にひとりの男が。黒い燕尾服を着た、長身の男……振り向いたその瞳と視線がぶつかる。奥底の知れぬ闇を持った、バイオレットの瞳。
「──アル」
厳しい表情で侯爵が言う。すると彼の傍に控えていた従者の不気味なオッドアイが、きらりとレイラをにらみつけた。
(気づかれた)
と思うと、名前を呼ばれた従者が一足飛びでレイラの目の前に移動する。まるで、瞬間移動したみたいに。
呆気にとられていると、彼はレイラの後ろに回り、片手で体を拘束し、もう片手で口元を押さえてきた。
「失礼、お嬢さん。大きな声を出さないでくれ」
こつこつと、靴音を鳴らしてゆっくりと侯爵が近づいてくる。声を出したくても、口を塞がれていては不可能だった。
「きみは……」
目前まで近づいた侯爵はレイラのマントのフードを脱がせ、驚いたように目を見開く。走っている間にぐちゃぐちゃにほどけた金髪が、はらりと肩に落ちた。
「さっきの占い師さんだね。こんなところで何をしている?」
厳しく細められた目ににらまれる。彼が合図をすると、従者の口元にあった手がどけられた。
「あんたたちだって、何をしていたのよ。貴族様が労働階級の街になんの用かと興味本位で追ってきたら、こんなことになっているじゃないの。もしかして、あなたがあの小さな子供を……」
この侯爵、実は快楽殺人者というやつかもしれない。こんな身軽な従者がいれば、子供一人殺すくらいわけないだろう。
そう考えたレイラは、自分のおぞましい想像に嘔気を感じた。
「誤解しないでくれ。我々も異変を感じて調べに来たんだ」
「異変を感じた? もしや、あの貴族の屋敷の前で?」
彼らが突然走り出す直前、貴族の屋敷の前で顔を見合わせたことをレイラは思い出す。
しかし同じ時間に同じ場所にいたレイラには、悲鳴も聞こえなかったし、異変というほどのことは何も感じ取れなかった。
「おやおや、あんなところからついてきたのか。とにかく、詳しくは話せないが、今日のことは忘れるんだ。きみのために」
「ちょっと待ってよ。いったい誰がこの子を殺したって言うのよ。まだこんなに小さいのに。ひどいわ」
粗末な服を着て、足は裸足で傷ついてボロボロだ。五歳くらいに見えるけど、極端に痩せていて小さく見えるだけで、もう少し歳をとっているかもしれない。
普段から恵まれない暮らしをしていたのだろう。そんな子供をさらに痛めつけるなど、レイラには到底許せない。
「僕も同じ思いだ。警察はあてにならない。労働階級の子供が殺されたとて、彼らは何もしないだろう。だから僕に任せてほしい」
「侯爵、様……」
「とにかく、このことは誰にも話してはいけないよ。僕ときみの約束だ。いいね?」
言い聞かせるように、侯爵の端正な顔が近づく。うなずけないでいると、彼はいきなりかがんで──目を開けたままのレイラに、そっと唇を合わせた。
初めは、何をされたのかわからなかった。けれど、ゆっくり侯爵の顔が離れていくのを見て、今キスをされたのだと理解する。
(な、な、な──‼)
人生で初めての男性との口づけが、こんなわけのわからない侯爵に奪われるなんて。レイラは混乱で一瞬声が出なかった。
「何するのよっ。この、ひとごろ──」
それでもなんとか罵声を浴びせようとした途端、言葉が出なくなった。
「無駄だよ」
侯爵が薄く微笑む。それ以降、その子供に関することをどれだけ問いただそうとしても、声が出なかった。
「ひどいっ、勝手にキスするなんて!」
とうとう子供っぽい文句だけを吐き出すと、それは大きな声となって周りを囲む労働階級の人々が住む集合住宅の壁に反響した。
「大きな声を出さないで。可愛いお嬢さん。きみの甘い唇を奪った埋め合わせは、必ずしよう」
「は……」
「また、近いうちに会いにいくよ。アル、彼女を送っていってくれ。ここは僕が片付ける」
レイラの頬に朱が走る。男性に可愛いなどと言われたのも、初めてだった。
(近いうちにって……私の名前も聞かないで、どうやって会いに来るつもり? やっぱりこの場をうやむやにしたいだけじゃないの?)
反論しようとすると、アルと呼ばれた従者に再び口を押さえられた。
「しかし、グレン様」
「大丈夫だ。早く行け」
「……そうですか。すぐこっちを片付けて戻ります」
何とか逃れようとジタバタするレイラ。しかし、彼女と同じくらいの背丈をしたアルの力は意外に強く、口元の手すらびくともしない。
(片付けてって、私はものじゃないんだけど!)
反論は声にならず、飲み込むしかなかった。
「おやすみ、お嬢さん。いい夢を」
グレン侯爵がそう微笑むと同時、体がふわりと宙に浮いた。アルがレイラを、麦わらの束みたいにして肩に担ぎあげたからだ。
「ちょ……っ」
行くとも何とも言わず、アルは走りだす。成人女性を抱えていることなんて感じさせないくらい、軽やかに。春のまだ冷たい風に同化して、彼はあっという間にその場から遠く離れてしまった。
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