これが人間か。
狂っていると糾弾されたなら、男は確かに狂っていたのだろう。
刺殺ではなく、撲殺ではなく、銃殺ではなく。人類が編み上げてきた殺人の方法は手段でしかなく、男は人間を壊してみたいと純真無垢に焦がれていた。
破綻しているようで、けれど男は理知的であり、理性的だった。自分の異常性を理解し、自分の嗜好性は法と倫理から逸脱することを冷静に認めていた。その上で、異常であることが好まれる環境を、法と倫理が、彼の悍ましき嗜好を後押ししてくれる境遇を模索した。
結論は単純でありふれていた。人間は朋輩への加害は悪行として罰するが、忌敵への加害は偉業だと持て囃す。男からすれば人間も大概狂っていて、その狂気は歓迎すべきものだった。
男は
訓練課程の修了が間近に迫ったとき、戦争は革新を迎えた。後に〈機巧都市〉と呼ばれる男の故郷は機巧兵の開発に成功、人間の兵士は機巧兵の整備・運用が主任務となった。クリーンな戦争が実現したと国中が沸き立ったが、男はちっとも嬉しくなかった。
そして、その日から、男は狂ったように訓練にのめり込むようになった。人間は機械に兵士という大任を奪われたが、それは人間が機械よりも脆弱であるからだ。機械に任せた方が戦果を望めると判断されたためだ。男はそう考えた。機巧兵を戦場に派遣する限り、人間が死ぬことはないといった観点は眼中になかった。なぜなら人間は死ぬものであり、壊れるものであり、男はそのために兵士を志したのだから。
あらゆるものを削ぎ落としながら、男の才能は加速度的に開花していった。目を醒まさせてやる。人間を殺すべきは人間なのだと、機械に夢中になった国中の人間に思い出させてやる。使命を心に燃やし、肉体も精神も極限まで追い詰め続けるうち、男は人間の定義から外れた。
己の能力を知らしめるために企画した機巧兵との一騎討ち。結論から述べるなら、男の証明は成功した。鉄屑と化した機巧兵を踏み付け、男は抱擁を求めるように両腕を広げた。喝采が浴びせられると思っていた。クリーンな戦争が実現したと沸き立ったときのように、男は戦争を次の段階へと導いたのだから。だが、いつまでも静寂が破られることはなく、アドレナリンに支配された思考を静めさせて辺りを見渡せば、そこには恐怖に溺れる眼差しだけがあった。
拘束しろ/誰かが叫んだ。危険分子だ/誰かが男を定義した。動くな/恫喝の声。その場で跪け/銃口を突き付けられ、男の体は無意識のうちに反応した。反復練習の賜物。血飛沫が舞う。人間を壊すために研ぎ澄まされてきた男の成果。素手で首を捥ぎ取った、その光景には如何様な言い訳も通じなかった。この男は異端であり、排除すべきであると観念を植え付けた。
もはや故郷に男の居場所はなかった。どこにいても命を狙われ、自衛のために襲撃者を壊せば、さらに襲撃が強化される。悪循環の坩堝に陥りながら、男は考えた。襲撃者を壊すことに心は痛まない。それは自分の望んでいたことだ。だが、この環境は決して望んでいなかった。壊せば壊すだけ、己の嗜好は満たされていくが、男は孤独に苛まされるようになった。
壊すことが常となり、男の理性は次第に崩壊していった。襲撃者を壊すことは正当防衛だと思えたが、あまりにも狙われすぎたために、人間を見かける度に「壊さなければいけない」と強迫観念に襲われるようになった。誰もかれもが襲撃者に見えて仕方なかった。
遂に男は恐怖した。胸中の衝動に溺れそうになりながら、このまま人間社会にいてはいけないと、微かに残っていた理性で考えた。旅に出よう。国の外へ。人間が疎らにしかいない世界に行こう。そして、願わくば、狂った自分を壊してくれる人間に出会えるように。
噴霧された硝煙が赤く濁らないことに男は目を眇める。男は実際にとても力強かったが、とても柔軟に動くことに長けていた。殺意を行動に宿すための予備動作がない。だから、これまで〈壊してきた〉人々は、自分が途切れる瞬間まで男の行為を把握することができずにいた。それは〈壊されてきた〉人々にとって、ある種の祝福でもあった。自己が人間から肉塊へと切り替わるその瞬間を、その痛苦を感じずにいられるのだから。
「……旅人さん、どうしてきみは、まだ壊れていないのかな」
「そうですね。壊れたくないと、思っているからでしょう」
冷静を装いながら、男は戦慄に襲われ、興奮していた。
認識できなかった。零距離で押し付けられた銃口から逃れ、二メートルも離れた場所へ退避する挙動を、視覚としても聴覚としても捉えることができなかった。それで、非力を模ったような白髪の少女が只者ではないことが知れた。
「旅人さん、きみは何だ?」
「あなたの殺害を依頼されました。見境のない殺人鬼がいると近隣諸国では有名ですよ」
「……なるほど。なぁ、旅人さん、ぼくの命はいくらになるのかな」
「それを聞いてどうするのですか。同額を払うから見逃してくれ、とでも言い出すのですか」
「いいや。ぼくの命の値段が、あのクソッたれな兵器よりも高いといいなと思っただけだ。そもそも懇願も交渉も無意味だ。ぼくは旅人さんに殺意を向けたし、」男は銃口を小刻みに揺らしながら少女を見つめた。「旅人さんもぼくに殺意を向けてくれている。ほら、武器を用意する時間くらいは待つよ。奇襲をしておいて言えた身分ではないが、フェアにやろう」
「武器はすでにあります」
左右の腰に吊られたホルスターの留め具を外し、グリップを握り、引き抜く。少女の挙動も洗練されていて滑らかだった。男と同じようにソフトであり、機敏であり、とても速かった。それでも銃身が全てホルスターから姿を現すまでに一秒以上かかり、いつまで待っても抜け切らないのではないかと錯覚するほどだった。六十四口径の
飾り物の銃ではなく、きちんと自分を殺せる武器を用意してくれと諫言しそうになり、すぐに思考を切り替えた。確証は得られなかったが、少女には撃つことができると感じた。
身を翻して横に跳ねた直後、それまで立っていた地面が抉れ、尋常ではない土砂が巻き上げられた。それはもはや迫撃砲だった。銃撃ではなく爆撃と呼ぶべき代物だった。
悪ふざけにも程がある。目星を付けていた岩陰に逃げ込みながら、男は白皙の少女を見つめて罵る。発砲の衝撃でひっくり返るなら、まだ可愛げがある。肩が脱臼するか、腕の骨が折れるか、そうでなくとも筋を痛めるか。少女が握っているものはそういう武器だ。生身の人間が扱うことを想定していない、扱えるとも見做されない、芸術品と同然のガラクタ。
それを少女はしかと扱っていた。いかなる揺らぎも見せず、己の手足のように、馴染み切った様子で振り回していた。男は自分のことを人間だとは思っていなかったが、眼前の少女のことも人間だとは思えなかった。少なくとも人間だと認識することは許されないだろう。
手榴弾を腰のポーチから引き抜き、安全ピンを抜く。レバーが飛んだことを確かめ、胆力と冷静さで以ってそのまま握り締める。投げ返されることのないように三秒間そのまま留め、男は投げた。計算通り。爆発音が響き、右手で銃を握ったまま、先端に鏡をつけた棒を岩陰から覗かせて様子を窺う。焼けた土肌が広がっていたが、少女の姿はなかった。
(森に逃れたか)
ビッグモンスターが向けられていることを考えると迂闊には動けない。男は岩陰で思案しながら、自分の心がいつになく弾んでいることに気付いた。
(初手で壊れなかった人間は、久しぶりだ)
男は嬉しさを覚え、
(ぼくよりも狂った人間に出会ったのは、初めてだ)
己の狂気が霞むようなモンスターに出会えたことに感謝した。
願いは遂に成就するかもしれない。狂った自分は、ここでようやく旅を終えられるかもしれない。男は歓喜に震え、恍惚な笑みを浮かべた。
(嬉しいなあ、嬉しいなあ。なんて素敵な日だ)
だからこそ、
(物陰に隠れて縮こまっているのは違うだろう)
男は狂気に突き動かされるまま、それでいて何よりも冷静に意識を尖らせながら岩陰から姿を晒した。少女の姿は認識できなかった。辺りは硝煙で満たされていて匂いで探ることもできない。耳を澄ます。風の流れを読みながら、不自然に動く音がないか探る。
(……気配が一切ない。呼吸音も心音も聞こえない)
逃げたのかと訝しみながら右手に加えて左手にも銃を握る。視線誘導だけで撃てるように。
全方位を警戒しながら男はゆっくりと歩を進め、遂に完全に姿を晒した。それでもビッグモンスターが吠える声は聞こえてこない。それで少女の狙いが知れた。少女の思考が窺い知れた。
痛恨の一撃、あるいは必殺の一撃。結果は当然として過程にも拘る完璧主義者。無駄弾を嫌い、確実に仕留められる瞬間が訪れるまで動かないハンター気質。
(それなら簡単だ。お望み通り、隙を生じさせてやろう)
それまで油断なく構えていた銃を、男は無造作に少女が乗っていたバギーへと向けた。姿を晦まされたことに苛立ち、嫌がらせ程度に、旅人にとって大切な〈足〉を破壊してやろうといったちんけな悪党を演じるように。
果たして、目論見通り、動きはあった。ビッグモンスターの咆哮。男の意思に反して右腕が弾かれる。飛来した弾丸は男の銃を砕き、それを握っていた右手を複雑に折れ曲がらせた。もともと右腕くらいはくれてやるつもりだった。痛みと共に噴きこぼれたアドレナリンでハイになりながら、男は左手の銃の引き鉄を引いた。弾倉が空になるまで撃ち続けたが、射撃の間隔があまりにも短かったため銃声はひとつにしか聞こえなかった。男の放った銃弾は、全てが少女の胸に吸い込まれていった。少女の矮躯は着弾の度に踊り――それもまた立て続けに着弾したために一度痙攣したようにしか見えなかったが――ぐらりと傾いだ。
男は歓喜する、また〈壊せた〉と。
男は憂慮する、また〈壊してしまった〉と。
男は嘆息する、また〈壊してくれなかった〉と。
少女はすでに絶命しただろう。旋転するように倒れながら、握り締めていたビッグモンスターの銃口が男を捉えた。そして、意想外の発砲。少女は引き鉄を引いた。
アドレナリンさえも吹き飛ばされていく衝撃。下半身の感覚が消えた。
男は蒼穹を仰いでいた。
意識は冴えていたが、夢うつつに沈む直前のような浮遊感に襲われていた。
(こんなものか。たかだか銃弾一発で動けなくなる。これが人間か)
首を動かすこともできず、肺が潰れたのか呼吸もまともに行えない。あの少女はさすがにもう死んだだろう。自分ももうすぐ死ぬだろう。
相討ち。男は少女を〈壊した〉が、少女もまた男を〈壊して〉くれた。
男は目を瞑り、自分の半生を振り返ってみた。
思い出せるものは何もなかったが、充足感だけは確かに胸に広がった。そして、途絶した。
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