旅の理由、緋色の憂鬱
旅の熱源
息の詰まるような森だった。山藍摺、花萌葱、深碧。種々の緑が混じり合い、濃淡のまだら模様を描く。積み重なるように広がった枝葉は自然の天蓋を形づくり、陽は届かない。風はなく、暖められた空気がとぐろを巻くように停滞していた。
「嫌な森だ」
止まることを知らない汗を拭いながら、男は言う。森の中には一筋の川。男は川縁に腰を下ろし、レザーブーツを脱ぎ捨てた足を清流に突っ込ませていた。隣では手綱をつけられ、荷物を満載した葦毛の馬が川の水を飲み漁っている。男の馬だ。
彼等の背後には道があった。原生林を切り拓いただけでろくに整備もされていない粗末な道だったが、他に使えるような道もないのだろう、盛んな往来を示すように固く踏み締められている。それが、男にとってはひどく気に入らない。誰かが通ってしまうかもしれない、誰かと遭遇してしまうかもしれない。男の危惧を理解できる人など、いないのだけれど。
暑気に朦朧とする頭を揺り動かし、男は立ち上がった。
行かなければ。誰かと出遭ってしまう前に。
その時だった。葉擦れの音に混じり、低くささやかなエンジン音が聞こえてきたのは。
男はきつく目を瞑り、胸の前で十字架を切ると神への嘆きを呟き、単眼鏡を目に当てた。エンジンの音は次第に大きくなり、やがて葉叢を掻き分けるようにバギーが姿を現す。銀色の
真剣な表情で前を睨む運転手は年端のいかない少女だった。黒のタンクトップにカーゴパンツ、厚底の
陽に透かせば煌めくのだろう白銀の髪をひと房だけ朱に染め、後ろで無造作に結わえている。長すぎる前髪は風圧で暴れないよう、大きなピンで留められていた。面貌の大半はゴーグルに覆われていて見えずとも、端正なつくりをしているのだろうと予想が付く。庇護欲と情愛を掻き立て、欲望の歯牙を誘う姿は危険な旅に適しているとは思えず、男は少女の背後へと目を動かす。けれど、予想された護衛の姿はない。
見える位置に提げられた武器は二つ、同型の自動式拳銃が腰の左右に一丁ずつ。恐るべきはその大きさだった。目測で六十口径以上。およそ素手で扱う範疇を超えた化け物じみた巨体。少女の細腕では扱い切れるはずもない、威力を追求するあまりガラクタと化した鋼の塊。
「運がよかったんだな、ずっと」
無力を模ったような容姿に、飾り同然の武器を引き下げてここまで来れたとは。
幸運を妬むように、或いは言祝ぐように呟き、単眼鏡をしまう。
馬の手綱を引き、男は道の中央に出る。少女はすぐに気付いたようだった。バギーは減速し、男との距離を僅かに残して停止する。
「こんにちは、旅人さん」朗らかに、男。
「こんにちは、旅人さん」オウム返しに挨拶する少女、警戒心は読み取れない。
「西から来たのかな。俺は東からだ。昼食がまだなら、情報交換がてら一緒にどうかな」
「えぇ、構いませんよ」
食事を共にするといっても、他人に振る舞うだけの余剰を持ち合わせていることは少ない。大概はそれぞれで用意して、食事の時間だけを共有するのだが、
「嬉しいね、生の肉なんて久しぶりだ」
少女が提供したヤギ肉を前に、男は頬を緩めた。
エネルギー補給を第一とするあまりに高カロリーになりすぎて、結果として食べ過ぎを防ぐためにわざと酷い味付けのされた
少女は森に入っていったかと思うと、五分もしないうちに、少女の顔ほどもある葉を持って戻ってきた。岩塩と粗挽きにした黒胡椒をヤギ肉にすり込み、先程の葉で包んでいく。
「ホオノキの葉です。燃えにくいので包み焼きに使えます」
不思議そうに見つめてくる男に向け、少女は説明する。
「ははぁ、葉っぱなどたちまち燃えてしまいそうだが。旅人さんの故郷の伝統なのかな」
「前に訪れた国で教えてもらいました。その国では豆を発酵させた調味料を用いていました」
「主食となる豆を調味料に? その国はさぞ豊かなのだろうな」
カップに水を入れ、直火にあてながら沸かす。男の提供した乾燥スープと少女のヤギ肉を加えて煮込んでいく。森の中に、ホオノキの葉がいぶされた素朴な香りと、野趣に溢れるヤギ肉の焼ける匂い、化学調味料の尖った匂いが立ち込める。
「さて、いただきましょう」
舌鼓を打ちながら、二人の旅人は情報交換をする。
男の旅してきた、ここから東のこと。少女の旅してきた、ここから西のこと。
見たことのない国が、触れたことのない文化が、そこに生きるヒトが詳らかにされていく。語られることで、噂されることで。時には歪曲されながらも、誇張されながらも。
国は動かないけれど、文化は動けないけれど、ヒトは、どこまでも行けるから。
少女のように、男のように、旅人として。
こんなに気取った言い方をすれば、まるで旅人が星の開拓者のように映るけれど、それこそ誇張だ。旅をするための熱源、旅をせざるを得なかった謂われ。
「旅人さんは、どうして旅をしているのかな」
男の訊ねは、熱と幻想を暴き、本質を浮き彫りにさせようとする。
「旅をしているから旅人なのだ。そう、言う人をどう思いますか」
質問に質問で返すのは反則だ、男は眉目を僅かに歪め、くだらないと吐き捨てた。
「同感です」あっさりと同調する少女に肩透かしを食らう。試されたのだろうか。
「旅をしているうちに、ひとつ所に留まることができず放浪するうちに、旅をする他になくなり旅人になった人がいたのだとしても、初めから旅を目的とした人なんていないでしょう」
少女が明かした旅の理由、未知の世界へと自分を駆り立てた熱源は『人探し』のようだった。ただ、誰を探しているのか、判然としない。何のために探しているのか、それも同様に。
旅の熱源が人探しだとして、人探しの熱源が見えてこない。会いたいと望むその裏に、熱を孕んだ感情が見え隠れしない。冷め切っていた、責務に駆り立てられているだけかのように。それにしても人探しとは……、自分とはまるで真逆ではないか。失笑するほどに。
「私は語りましたよ」と少女が催促することはなかったが、構わない、男はすでに言葉を紡いでいる。
「怖れ……、そう、俺の場合は怖れだった。このままではいけないと、国を飛び出した」
少女は黙したまま聞いている。ただたどしく、途切れるような男の話し方に不快感を示すこともなく、けれどそうして沈黙を保っていることが男の胸中を絞め付ける。
沈黙は、決して沈黙ではないのだから。こうして向き合っている以上。
瞳は射抜く。息遣いは感情の起伏を、浮き彫りにする。
「何を怖れていたのか、聞いてくれ」
「何を怖れていたのですか」オウム返しに、揶揄うように少女。
「衝動だ。この骨肉を、この心を、この魂を狂わせようとする衝動を、俺は怖れていた」
「具体的には?」少女は訊ねる。淡々と、予期しながら。
なめらかに、あまりにも慣れ親しんだ挙動だった。ゴツリと、鋼鉄の塊が頭骨に押し当てられる音が響く。男の手に握られた拳銃、
「旅人さん、俺は、人間を壊したくて堪らない」
「この憂鬱を理解してくれとは言わない。ただ、俺は、きみを壊す」
緋色の憂鬱に捕らわれた男の、それが選択。迷いなく、引鉄は引かれた。
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